名前 #3
文字数 6,061文字
終鈴がぶち鳴らされると、気配だけでおれを攻撃していた羊どもはなにごともなかったかのように
ようっ!――背中に衝撃。
文句を口にしながら首を後ろへひねる――机の上でバッタの親子みたいな格好をしているおれたち。
ハの字眉で返されてきた答え――いやな予感。今夜の計画に関係した損だとするとうまくない。
鼻でため息をついた一秒後に別の意味で驚くおれ――くそまじめな松本。肩にあったパンダ模様の顔が脇腹のほうへと移動してくる。
昨日のケンカ――松本の攻撃で受けたダメージはほとんどゼロ。お互いにそれはわかっている。興味剥きだしの目はそれ以外の理由=自分がまるで敵わなかった相手をここまでぶちのめすことができる暴力の正体を知りたがっていた。遠慮というものを知らない目玉に指で突く真似をしてやる。
武田がおれと松本の顔を見比べる。
生傷の品評会なんてものがもしあれば、おれたちはきっといい線を狙えるにちがいない。
松本が武田に対して照れ笑いをする。おれに対して『そうだろ』という顔をする。
――それは武田、お前がいいだしたことだろう。
質問を無視して教壇の脇へそれとなく目をやる。やわらかな声とやさしい言葉で豚を慰めている聖香。休み時間だというのに。きっとその心には天使が住んでいるにちがいない。
ふいに気持ちが高まった。もう会えなくなることを聖香に伝えたい。すぐにそれができないことにも気づく。気持ちをうやむやにするために札束のことを考えた。頭のなかを飛びまわる、どこか笑顔の聖徳太子たち。札に印刷されている顔のヒゲが消え、髪が伸び、顔がそっくり聖香のそれになると次には誰の顔でもなくなった――顔のない札。
――消えろ。
化けものが心のなかのあちこちへ唾を吐く。
背中越しにぼそっと聞こえてきた声。焦りを顔に出すことはしない。気持ちや考えていることを隠すのは奴隷の得意技。体を後ろへねじる。パンダ顔の右目がやたらとぱちくりしていた。
松本が小さく首を振る――繰り返されるまぶたの動き。口には出せないなにか=家出の計画は内緒。
おれは小声で早口し、左手で腰の脇の太ももを軽く叩いた。
マジソンバッグをごそごそやりながら武田がいう。
たった今、口にしないと決めたことを口走る松本。武田からは見えない側の肘で後ろの脇腹を小突く。あ、ごめん――息で返されてきた言葉。おれはさっきの合図の意味がまったくわからなくなった。
武田の耳の記憶をぶっ飛ばす。
言葉を変な順番に入れ替えて松本がオウム返しをする。
タイマン=一対一のケンカ。MG5を塗りたくった髪にドクロマークの櫛を入れながら、わざわざ痛い思いをしたいという武田。もっと早くにそいつを聞いていればデブ殺しに誘ってやれたが、それも昨日までの話。あいにくだ。
三組のキタ=
クラスこそちがうが、六年も同じ学校へ通っていてふたりはなんにも知らないんだろうか。北沢はボスなんてガラじゃない。小学生離れした体格をしているだけで、根っこの部分はまるで臆病だ。
いつだったかおれは駅前のゲームセンターで、
本人の思いとは裏腹に、そのでかい体と無口のせいでまわりからやばく思われている北沢。さすがに松本じゃ無理だろうが、武田が本気でぶん殴りにいけば十秒もかからずに決着がつく。
でかいくせに泣き虫の北沢と、奴隷なんか望んじゃいないのにそういう扱いをされているおれはどこか似ている気がした。
目の端でラベンダー色がふわっと広がる。みぞおちにもふわっときた。たぶん、おれに文句をいうつもりだろう。特急で心の準備をする。
聖香が松本に話しかける。
後ろ向きに手を振り、おれたちから離れていく武田。あとには床屋のにおいだけが残った。
いいに決まっていた。どういう理由であれ、聖香は今おれと話そうとしている。久しぶりに間近で見る聖香の顔=天使の顔立ち。話の中身なんてこの際どうだっていい。
よくねえよ。いいからどけ――心のなかで文句をがなる。
天使が困った顔をする。なんでだ? そんなものは断ればいい。なんならおれのプリンをやるぞ、聖香。
強気な態度に出る松本。それに対してどこか弱腰な聖香――気に食わない。ふたりの間に流れている妙なふんいきがおれのみぞおちを揺さぶった。
サンキュー――
おれのせいでプリンを失った聖香が案の定の名前を口にする――くそ、松本め。豚め。
みぞおちが落ち着いていくのと入れ替わりで、今度は心臓の動きが派手になっていった。なに食わぬ顔を作りながら机を降りる。体をいくぶん斜めにして聖香のほうを向いた。おなじみの髪留めに目がいく。
夏の頃に比べて目の位置が少し高くなっていた――ちょっと大人になった聖香。左手を伸ばせばその髪に、肩に、腕に、今なら触れることができる。その気になれば抱きよせることだって――
ラベンダー色の腕が胸の前で組まれる。腕の隙間からのぞく細い指がゆっくりと二の腕を叩きはじめた=聖香のくせ。機嫌が悪くなるに連れて指の動きも速くなる。今はまだ、序の口。
聖香の声にかぶせていった。
背が伸びたな、というセリフを勝手にちがう言葉へすり替えるおれの口。
もっと普通に、できれば明るく笑いでもしながら口が利けたらどんなにいいだろう。みぞおちの痛みがぶり返してきた――かまわなかった。今日が終わればもう死ぬまでみぞおちが痛くなることはない。好きなだけ痛くなれ。
聖香の目が少しきつくなっていた。リズムを取っている指のスピードもさっきの倍になっている。
このまま話していても楽しいおしゃべりにはなりそうもない――思いで作りもここまで。
帽子を取って声を荒らげた。聖香の瞳が揺れる。おれはなにをしているのか。
なんてひどい顔してるの、この人。表情から読み取れた聖香の心のなか=瞳が揺れた理由。
――お前以外には。
天使の顔が下を向く――図星。
発作がおさまりかけてきた豚を、坂巻ともうひとりの女が教室の外へ運びだしていった――肉になる前の家畜。一刻も早くパックに詰めてもらえ。豚肉は前扉を出てからも、泣き腫らした赤い目でおれを睨んできていた。
目の前のくちびるが動くたびに、いちいちそこへ吸いよせられるおれの目玉。キスしたときのことが頭に浮かぶ。夏草の青いにおいまでもがよみがえってきた。聖香はもう忘れちまっただろうか。ほかのやつらは知らない、ふたりだけの秘密を。
困り顔の天使の目がまっすぐおれに向く。
釘を刺された。
二学期のはじめにもそのことはいわれていた――聖香のルール。忘れていたわけじゃない。気をつけてもいた。が、つい口が滑った。いったいどこで――いや、だけどそれぐらい……聖香を聖香と呼んだって別にいいだろう――みぞおちがぐちをこぼす。
〝沢村! 六年二組、沢村怜二! 大至急、職員室!〟
佐東のがなり声だった。わざわざおれを指差して笑う松本と武田――目障り、耳障り。
あんなものはどうだってよかった。それよりもおれは今、聖香の言葉にノックアウトされている。
気をまぎらわすためにいった。
聖香を名前で呼ぶ――そいつが許されるのは聖香に一番近い男だけ。夏休みのはじめまでおれはその位置にいた。今はそうじゃない。岡崎聖香を下半分で呼び捨てできるかどうかにはそういう意味があった。
肝心なこと――おれが期待するような話じゃないのはわかっている。それでも聖香とおしゃべりができるなら――思いでを増やせるなら、おれはどこへでも行く。ただ、昼休みはちょっと都合が悪い。
聖香のくちびるがすぼむ。そいつを見つめそうになるおれ。慌てて顔を背けたが目玉だけはいうことを聞かなかった。みぞおちがもう勘弁してくれと悲鳴をあげる。
聖香が身をひるがえす。ラベンダーの背中へ伸びそうになる手を握り拳にして、自分のみぞおちを小突いた。
それだけいうと聖香は教室を出ていった。代わりに武田たちが近づいてくる。
垂れ目を垂れに垂らした武田が、わけのわからない片足ダンスのサービスつきで冷やかしてくる。松本は武田の問いに返事をしなかった。
息を弾ませながら文句を返してくるミジンコ。横浜銀蝿を見て勉強しろともいってきた。
ミジンコから人間に戻った武田のちゃかし。
おれのために聖香がなにかをサボるなんて、いったいどれぐらいぶりだろう。嬉しい気持ちに寂しい気持ちが、その上にじんとこみあげてくるような思いが重なっていく。こういうのをほろ苦い気分というのかもしれない。がなり声がまた聞こえた。
豚をかまったおかげで聖香と口が利けた。久しぶりに。そして最後に――いや、最後は放課後か。いずれにしろ、それを思えば佐東の説教ぐらいなんてことはない。
手に教科書やらノートやら筆箱やらを持った松本と、そういうものを一切持っていく気がない武田が揃って前扉を出ていった。
誰もいなくなった教室。五日前から手首に食いこんでいる髪留めを外し、人差し指でそいつをまわした。馬鹿みたいに。あほみたいに。くるくる、くるくる、くるくる。
放課後、会えなくなることを聖香にいおう。意味なんか通じなくてもかまわない。とにかくちゃんと、さよならだ。
三度めのがなり声が聞こえた。どうでもよかった。ぶっ叩くでもなんでも好きにすればいい。おれの人生はもう決まっている。檻にでもぶちこまれない限り、バラ色のそいつが変わることはない。