第3話:人魚姫はお城ではたらく

文字数 2,298文字

 数時間後には、彼女は入り江の浜辺に打ち上げられていました。
 真っ青な海の水面には燦々と輝く日の光が降り注いでいます。波打ち際の湿った砂の感触を確かめつつ、シュプリーはむっくりと上半身を起こしました。
 幸いなことに辺りを見回すと、浜辺に人影は見当たりません。何が幸いかというと、彼女は今何一つ身につけていないのです。この現場を誰か人間に見つかったら大変です。シュプリーは常々ソロンから、人間は建物の外では服を着なければいけないということを聞いていました。不適切な格好で外出すれば、犯罪者の烙印を押されてしまうということです。
 準備のよい彼女は、きちんと服を持参していました。沈没船から拾ってきた服はぼろぼろな上にびしょぬれでしたが、彼女は誰かやってくる前に草の茂っている場所へ這ってゆくと、慌てて服を着込みました。ちなみに服は、水夫のもののようです。
 ちょうど服を着終わると同時に、彼女は靴底が岩を踏む足音を聞きました。そちらへ首を回すと、立派なコートを着た人間の男性が、彼女のいる浜からそう遠くない岩場の上に立っています。彼女は茂みの間から首を伸ばして、男性を覗き見ました。
 男性は恐らく貴族なのでしょう、品のよい整った顔立ちは、まるで雨続きの空のように憂鬱に曇っていました。彼はシュプリーの存在に気が付くことはなく、ただ静かに水平線を眺めています。
 男性は悪人には見えないと思ったシュプリーは、彼を陸上で第一号のお友達にすることに決めました。彼女は慣れない二本の足でふらふらと立ち上がると、男性に向かって歩き始めました。
『こんにちは』
 彼女は手を振りつつそう言ったつもりでしたが、果たして声は出ませんでした。彼女はダリーとの取引をうっかり忘れていたのです。しかし岩場の上の男性は、やっと彼女の存在に気付いたようでした。
 男性は一瞬、彼女の姿を見てぎょっとしたようです。それもそのはずです、彼女は全身ずぶぬれで、ぼろぼろで流行遅れの、しかもサイズの合っていない男物の服を着ている上に、靴下と靴は履いておらず、足取りも不安定です。
 しかし彼女の人好きのする笑顔を見て、男性は警戒心を緩めたようでした。彼は彼女を遭難者か何かかと思ったのかもしれません、慌てて岩場を降りて彼女に駆け寄ると、病人を支えようとするかのように手を差し伸べました。
「大丈夫かい?何があったの」
 男性は優しい声で尋ねました。彼女は大丈夫だと答えたかったのですが、何しろ声が出ないので、首を振ったり手を動かしたりして伝えようとしましたが、彼女の試みはうまくいかなかったようです。男性は彼女の様子を見て悲しそうに眉を寄せました。
「気の毒に、よっぽど酷い目に遭ったんだね。…大丈夫、私に任せて。とりあえず、お風呂に入って服を着替えよう」
 そう言うと男性は、どうにもよろめきがちな彼女を助けながら、浜辺とは反対の方向に向かって歩き始めました。
 シュプリーが前方に目を遣ると、そこには浜辺からでも臨めるお城の尖塔が聳え立っていました。







 何と彼女のお友達第一号になった男性は、海辺のお城の主でした。ヘイズリー公爵と名乗った彼は、この辺り一帯の領主様だったのです。
 ヘイズリー公爵は、そんなに偉い人だとは思えないほど気さくで親切な紳士でした。職業や身分の違いなど関係なく誰にでも優しく接するので、街の人々やお城で働く使用人達は誰もが彼のことを尊敬し、愛していました。
 そのヘイズリー公爵は、浜辺で出会った気の毒な女の子を、メイド長に頼んでお風呂に入れた上で着替えさせてあげただけでなく、職業まで世話してくれました。彼の処置の慈悲と配慮の深さに、お城の人々はいつものように感心しました。何せ人間の世界では、もっとも重要なものは職業です。職業がなければ食事や住処をまかなうことができず、そうすると人は人間未満の惨めな暮らしをするか、野垂れ死ぬしかないのですから。
 公爵がシュプリーに宛がってくれた職業は、お城の窓拭き係でした。ちょうど先日、一人のメイドが年を取ったことを理由に、仕事を引退して息子の家に引っ越したところだったのだそうです。
 シュプリーはしゃべることができませんでしたが、それでも彼女が酷く不自由するということは、彼女の予想通り、大してありませんでした。もちろん厄介な問題が起こることもありましたが、城の人は誰もが親切で、彼女が困っていると必ず誰かがやってきて助けてくれたからです。ヘイズリー公爵は城の中のどんな職業の人にも、その人が怠けさえしなければ平等に給料を支払い、敬意を持って接していたので、召使達は誰もが自分の仕事を誇りに思っており、人に親切にすることに意義と価値を見出していたのです。
 ――やっぱりソロンさんの言っていたことは、本当ばかりじゃなかったわ。
 自らの足で新しい世界に踏み出したシュプリーは、自分の発見を喜びました。
 しかし、いつも皆の前ではにこにことして穏やかなヘイズリー公爵ですが、時に眉を伏せ、憂鬱そうな顔をしていることがあることを、シュプリーは知っていました。初めて彼女が彼に出会った時、公爵がそういう顔をしていたからです。
 公爵にも、人に言えない悩みがあるに違いありません。シュプリーはお城の窓を拭きながら、時々そのことを思い出していました。
 できることなら公爵の相談に乗ってあげたいと思ったシュプリーですが、何せ彼女は話すことができません。自分が公爵の悩みに気付いているということすらも、彼に伝えることができないのです。



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登場人物紹介

シュプリー


入り江の海の底に住む人魚。

優しい心の持ち主だが、好奇心旺盛で頑固な性格でもある。

声を失う代わりに人間に変身し、陸の上に冒険に出る。

ヘイズリー公爵


入り江の町の領主様。

民を愛する穏やかな青年で、陸に上がってきたばかりのシュプリーを助ける。

巨大商社の搾取から領民を守ろうとし、暗殺されそうになる。

ヴァイオラ船長


海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

なりゆきからシュプリーとヘイズリー公爵を船に乗せることになる。

ゴルトリック卿


巨大商社南インド会社の支社長。

利益のためには手段を選ばず、協力を拒んだヘイズリー公爵に刺客を差し向ける。

一人娘にはかなり嫌われている。

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