第10話:海賊の船長は決意する
文字数 2,721文字
エンパイア号の甲板には、今までシュプリーが見たことのない、沈鬱な空気が漂っていました。
大勢の怪我人が出た上に、船も随分傷つけられ、何よりもヴァイオラ船長が放っている後悔と怒りのオーラに、船員達は同調しているようでした。
無事な者が怪我人の介抱や船の修繕に当たっている中で、船長のもとにライラとアントーニオが駆け寄ってきました。
「船長、私が甲板におりながら申し訳ありません」
船長の前に来るなり片膝を折ったアントーニオに対し、ヴァイオラ船長は首を振りました。しかし、彼女の瞳は怒りでぎらついていました。その瞳は、遠ざかってゆく商船に向けられています。
「でもヴァイオラ、七日って貴女、何を考えてるの」
そう言ったのはライラです。彼女の疑問はもっともでした。すぐにマリーを取り戻したいのだったら、さっきその場で公爵を差し出すのがてっとり早い方法に思えたからです。船長は言いました。
「…こっちが公爵を渡したところで、あのゴルトリック卿がマリーを素直に返したか?私にはそうは思えない。…連中に目に物見せてやる」
そこまで言い切ると、船長は踵を返し、一人船室へ向かって歩いてゆきました。
「後片付けを頼む」
そう言い残されたライラとアントーニオは顔を見合わせましたが、二人はそれ以上言葉を発することなく、早足にお互いの持ち場へと戻ってゆきました。
シュプリーは少し離れたところから三人のやり取りを聞いていましたが、怪我人の介抱を手伝うべく、船室へ降りてゆきました。
船室では木屑や大砲を退かそうと男達が奮闘していましたが、シュプリーはその部屋の隅に倒れている公爵の姿を見つけました。彼女は公爵に駆け寄りました。
うっすらと目を開けた公爵は彼女の存在に気付くと、弱々しく微笑み、掠れた声で言いました。
「助けてあげられなくてごめんよ…。…でも、君に怪我がないみたいでよかった。…マリーは?おねえちゃんのところへ行ってるのかな」
マリーの名前を聞いたシュプリーの瞳から、一気に涙が溢れ出してきました。マリーは攫われてしまったのです。
シュプリーの涙を見た公爵は、何かに感づいたようでした。
彼は一度小さく息を呑みましたが、そのまま固く口を閉ざし、瞳を伏せると、静かにシュプリーの肩を抱き寄せてくれました。
公爵は彼女が泣き止むまで、シュプリーの肩を支え続けていてくれました。
*
海の上に夜空が降りてきました。
星々は清く美しく輝いていますが、その下に浮かぶエンパイア号の甲板には、張り詰めた重い空気が立ち込めていました。
甲板には、船に乗っている全ての船員が集められています。先ほどこの場でヴァイオラ船長が、「ゴルトリック卿を倒す」と宣言したばかりなのでした。
「当然、決死の闘いになる。それぞれ残してきたもの、思うところのある者もいるだろう。付き合いきれないと思った者は次の寄港で船を降りてくれて構わない」
船長の言葉のあとには、重い沈黙が漂いました。
この船に乗っている船員達は、シュプリーの目から見ても、誰もが少なからず船長の人柄に惚れ込んでいるようでした。厳しくもありますが勇敢な船長に付き従い、これまで数々の勝利を分かち合ってきた彼らには、絆のようなものがあるのでしょう。そして明るく元気なマリーは、船の中のみんなの人気者でした。
その時、ライラが言いました。
「ヴァイオラ、みんな貴女と同じ気持ちよ。でも…果敢と無謀は違うわ。貴女は無茶をする人だけど、勝算のない戦いは避けてきたはずよ」
それを聞いた船長の眉が苦しげに歪みました。甲板には再び沈黙が降りかけましたが、誰かが呟くような声で言いました。
「ヴァイオラ船長なら、ゴルトリック卿を倒せると思います」
みんなの視線が、一斉に声の主に引き寄せられました。それはなんと、ヘイズリー公爵のものでした。
「どうしてそう思うの」
問うたのはライラです。公爵はさっきよりも、はっきりと言いました。
「今まで誰も挑もうとしなかった南インド会社に、挑もうとしているからです。今日だって、船長はゴルトリック卿の帽子の羽を切り落としたそうじゃないですか。あの大男さえ戻ってこなければ、きっと船長は彼らを倒していたはずです」
公爵の瞳はまっすぐ船長を見据えていました。何人かの船員が、息を呑むのをシュプリーは聞きました。
しかし、ライラはどこまでも現実的です。
「そうね。そうかもしれないわ。でも問題は、その大男を誰も倒せないってことでしょう?うちにもパワーファイターはいるけど、誰も歯が立たない。人数で攻めようにも向こうの兵数は無尽蔵だし、例えば…アントーニオ、彼に弱点みたいなものはないの?」
ずっと甲板の一角で石像のようになっていたアントーニオが、ライラに水を向けられ、低い声で話し始めました。
「弱点…らしいものはありません。怪力に加えて、俊敏さでも人に劣りません。…しかし弱点、になるのかはわかりませんが…敢えて言うなら彼にはゴルトリック卿に対する忠誠心のようなものは皆無です。南インド会社の船を守っているのは、報酬が格段にいい上に、好きなだけ力を振るうことができるからでしょう」
「うちにいてもらっても腕を振るう機会はあると思うけど、あっちに勝るお金は出せないわね」
ライラは腕を組みました。アントーニオは続けます。
「…それから、…これはゴルトリック卿がこぼしていたことですが、彼は女性問題が絡むと度々不祥事を起こします」
女性問題?とオウム返しに聞き返したライラに、アントーニオは頷きました。
「そうです。陸に下りる度にパブや宿場で、女性を巡ってケンカ騒ぎを起こしていました。出港日は大概遅くまで宿場に居残っていて、遅刻の常習犯になっているとゴルトリック卿が」
「それって単なる女好きの暴力男じゃない?」
ライラはアントーニオの台詞をばっさりと切り捨てると、やれやれとでも言うように首を振りました。
「…困ったわね。一人の女性を巡って彼とゴルトリック卿が諍いでも起こしてくれれば話は別だけど、そんな三文芝居じみた話、実際に期待できるわけないし…。フグ毒にでも当たってくれるのを待つというわけにもいかないものね」
この船で一番の知恵者であるライラにいい手がないとなると、彼らは八方塞がりになってしまいます。
しかしそれでも、ヴァイオラ船長は黙ったままでした。彼女に意志を曲げる気はないのです。
「…皆それぞれ身の振り方を、考えておいてくれ」
そう言い残すと船長は、一人足早に、船室の中へと消えてゆきました。
*
大勢の怪我人が出た上に、船も随分傷つけられ、何よりもヴァイオラ船長が放っている後悔と怒りのオーラに、船員達は同調しているようでした。
無事な者が怪我人の介抱や船の修繕に当たっている中で、船長のもとにライラとアントーニオが駆け寄ってきました。
「船長、私が甲板におりながら申し訳ありません」
船長の前に来るなり片膝を折ったアントーニオに対し、ヴァイオラ船長は首を振りました。しかし、彼女の瞳は怒りでぎらついていました。その瞳は、遠ざかってゆく商船に向けられています。
「でもヴァイオラ、七日って貴女、何を考えてるの」
そう言ったのはライラです。彼女の疑問はもっともでした。すぐにマリーを取り戻したいのだったら、さっきその場で公爵を差し出すのがてっとり早い方法に思えたからです。船長は言いました。
「…こっちが公爵を渡したところで、あのゴルトリック卿がマリーを素直に返したか?私にはそうは思えない。…連中に目に物見せてやる」
そこまで言い切ると、船長は踵を返し、一人船室へ向かって歩いてゆきました。
「後片付けを頼む」
そう言い残されたライラとアントーニオは顔を見合わせましたが、二人はそれ以上言葉を発することなく、早足にお互いの持ち場へと戻ってゆきました。
シュプリーは少し離れたところから三人のやり取りを聞いていましたが、怪我人の介抱を手伝うべく、船室へ降りてゆきました。
船室では木屑や大砲を退かそうと男達が奮闘していましたが、シュプリーはその部屋の隅に倒れている公爵の姿を見つけました。彼女は公爵に駆け寄りました。
うっすらと目を開けた公爵は彼女の存在に気付くと、弱々しく微笑み、掠れた声で言いました。
「助けてあげられなくてごめんよ…。…でも、君に怪我がないみたいでよかった。…マリーは?おねえちゃんのところへ行ってるのかな」
マリーの名前を聞いたシュプリーの瞳から、一気に涙が溢れ出してきました。マリーは攫われてしまったのです。
シュプリーの涙を見た公爵は、何かに感づいたようでした。
彼は一度小さく息を呑みましたが、そのまま固く口を閉ざし、瞳を伏せると、静かにシュプリーの肩を抱き寄せてくれました。
公爵は彼女が泣き止むまで、シュプリーの肩を支え続けていてくれました。
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海の上に夜空が降りてきました。
星々は清く美しく輝いていますが、その下に浮かぶエンパイア号の甲板には、張り詰めた重い空気が立ち込めていました。
甲板には、船に乗っている全ての船員が集められています。先ほどこの場でヴァイオラ船長が、「ゴルトリック卿を倒す」と宣言したばかりなのでした。
「当然、決死の闘いになる。それぞれ残してきたもの、思うところのある者もいるだろう。付き合いきれないと思った者は次の寄港で船を降りてくれて構わない」
船長の言葉のあとには、重い沈黙が漂いました。
この船に乗っている船員達は、シュプリーの目から見ても、誰もが少なからず船長の人柄に惚れ込んでいるようでした。厳しくもありますが勇敢な船長に付き従い、これまで数々の勝利を分かち合ってきた彼らには、絆のようなものがあるのでしょう。そして明るく元気なマリーは、船の中のみんなの人気者でした。
その時、ライラが言いました。
「ヴァイオラ、みんな貴女と同じ気持ちよ。でも…果敢と無謀は違うわ。貴女は無茶をする人だけど、勝算のない戦いは避けてきたはずよ」
それを聞いた船長の眉が苦しげに歪みました。甲板には再び沈黙が降りかけましたが、誰かが呟くような声で言いました。
「ヴァイオラ船長なら、ゴルトリック卿を倒せると思います」
みんなの視線が、一斉に声の主に引き寄せられました。それはなんと、ヘイズリー公爵のものでした。
「どうしてそう思うの」
問うたのはライラです。公爵はさっきよりも、はっきりと言いました。
「今まで誰も挑もうとしなかった南インド会社に、挑もうとしているからです。今日だって、船長はゴルトリック卿の帽子の羽を切り落としたそうじゃないですか。あの大男さえ戻ってこなければ、きっと船長は彼らを倒していたはずです」
公爵の瞳はまっすぐ船長を見据えていました。何人かの船員が、息を呑むのをシュプリーは聞きました。
しかし、ライラはどこまでも現実的です。
「そうね。そうかもしれないわ。でも問題は、その大男を誰も倒せないってことでしょう?うちにもパワーファイターはいるけど、誰も歯が立たない。人数で攻めようにも向こうの兵数は無尽蔵だし、例えば…アントーニオ、彼に弱点みたいなものはないの?」
ずっと甲板の一角で石像のようになっていたアントーニオが、ライラに水を向けられ、低い声で話し始めました。
「弱点…らしいものはありません。怪力に加えて、俊敏さでも人に劣りません。…しかし弱点、になるのかはわかりませんが…敢えて言うなら彼にはゴルトリック卿に対する忠誠心のようなものは皆無です。南インド会社の船を守っているのは、報酬が格段にいい上に、好きなだけ力を振るうことができるからでしょう」
「うちにいてもらっても腕を振るう機会はあると思うけど、あっちに勝るお金は出せないわね」
ライラは腕を組みました。アントーニオは続けます。
「…それから、…これはゴルトリック卿がこぼしていたことですが、彼は女性問題が絡むと度々不祥事を起こします」
女性問題?とオウム返しに聞き返したライラに、アントーニオは頷きました。
「そうです。陸に下りる度にパブや宿場で、女性を巡ってケンカ騒ぎを起こしていました。出港日は大概遅くまで宿場に居残っていて、遅刻の常習犯になっているとゴルトリック卿が」
「それって単なる女好きの暴力男じゃない?」
ライラはアントーニオの台詞をばっさりと切り捨てると、やれやれとでも言うように首を振りました。
「…困ったわね。一人の女性を巡って彼とゴルトリック卿が諍いでも起こしてくれれば話は別だけど、そんな三文芝居じみた話、実際に期待できるわけないし…。フグ毒にでも当たってくれるのを待つというわけにもいかないものね」
この船で一番の知恵者であるライラにいい手がないとなると、彼らは八方塞がりになってしまいます。
しかしそれでも、ヴァイオラ船長は黙ったままでした。彼女に意志を曲げる気はないのです。
「…皆それぞれ身の振り方を、考えておいてくれ」
そう言い残すと船長は、一人足早に、船室の中へと消えてゆきました。
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