第4話:人魚姫は王子様を守る決意をする

文字数 4,526文字

 そんなことを考えながら過ごしていたある日のことです。
 最近二本の足の扱いにも慣れてきたシュプリーは、お城の巨大な応接間の窓を拭くべく、高い高い、それはもうシュプリーの背丈の三倍はある高い脚立の上に上って、大きな窓の上のほうを拭いていました。
 高い脚立に上るのがすっかり好きになっていた彼女は、窓の端の方を拭くためにカーテンの内側に脚立を引っ張り込んで、その時もご機嫌に拭き掃除をしていました。窓の外では緑の豊かな庭とさえずる小鳥たちが彼女の目を楽しませてくれています。
 その時、カーテンの向こうで扉の開く重々しい音がしました。
 てっきり友達のメイドがバケツの水を替えに来てくれたのかと思った彼女は、大して気にすることもなく窓を拭き続けていました。しかし続いて部屋に入ってきた足音は、彼女の聞き慣れないものでした。
――しまった、部屋を間違えたかしら。
 シュプリーは思わず息を殺しました。お城にはそっくりな応接間が三つあり、そのうちのひとつで大事なミーティングがあることを、彼女は前もって知らされていたのです。彼女が部屋を間違えたことに対して公爵が怒るはずがないことを彼女はわかっていましたが、お客様がどんな人かということまで、彼女は知りません。幸か不幸か部屋の内側からはシュプリーの姿は見えないはずです。彼女はこのままミーティングが終わるまでいないふりをしていることに決めました。
 部屋に入ってきた足音は、二つでした。
 二つの足音は扉が閉じるとすぐに、長いテーブルを挟んで向かい合っている椅子に座りました。なぜそれがシュプリーにわかるかというと、この部屋には長いテーブルのほかには、二つの椅子しかないからです。
 やがてメイドが部屋に入ってきて、お茶を用意して去ったらしいところで、シュプリーは公爵の声を聞きました。
「さて、ゴルトリック卿、お元気そうでなによりです。今日はこうしてお日柄も良いことですから、ぜひ庭の景色を楽しんでいって下さい。紅茶とスコーンも、我が屋敷の料理人達が腕によりをかけて用意してくれたものですから、味も香りも私が保証します」
 紅茶とスコーンと聞いて、シュプリーのお腹が鳴りそうになりましたが、聞いたことのない男性の声がすぐにそれを遮りました。
「これはこれは、お気遣い頂き恐縮にございますヘイズリー公爵。しかし、頂くのはお気持ちだけにしておきます」
 新しい客人の声を聞いた瞬間、シュプリーの胃袋の底に、今まで経験したことのない、何か重いものが降りてきたのを、彼女は感じました。しかもそれは、決して快い感覚ではありません。その嫌な声は、さらに言葉を続けました。
「そんなことより公爵、私が何を求めてここへ伺ったか、ご存知ないわけではないでしょう」
 そしてそこで僅かな沈黙がありました。シュプリーは一瞬、いつまでこの静寂が続くのか不安になりましたが、やがて再び、嫌な声が話し始めました。
「今日こそサインを頂きたい。…入り江にうちの船を入れるための停泊許可です。貴方の許可がなければ、わが社はここで荷の積み下ろしができないんです」
 公爵は黙ったままです。見知らぬゲストはまだ話し続けました。
「公爵、我が南インド会社が何人の男達を貴方の町から雇っているのか、知らないわけではありますまい。いいんですよ、わが社は別の入り江を使うこともできます。しかしそうすれば我々は遠回りすることになりますから、その分上がったコストを相殺するために、正規の従業員を解雇して奴隷を使わなければなりません。貴方は町から雇用が消えて嬉しいですか?しかも貴方がその後転向したのでなければ、貴方は奴隷の売買には反対してらしたと私は記憶しております。わが社が貴方の町で稼げば、大いに税収も上がるでしょう。なぜサインしてしまわないんですか」
 いよいよ嫌な声は、まるで公爵を脅迫するかのような調子を帯びてきました。シュプリーは公爵のことが心配になりましたが、その時彼女はやっと、公爵の声を聞きました。
「…ゴルトリック卿、南インド会社が今の経営方針を改めない限り、私は貴方の会社に港を貸すことはできません」
「我々の現在の経営方針、ですか」
 なぜか、嫌な声は愉快そうに言いました。
「そうです。貴方の会社がプランテーションで奴隷を酷使して栽培した綿花や、人の人生を駄目にしてしまう阿片の売買をやめない限り、私は貴方の荷を港に下ろすことを許可できません。わが町の水夫達を解雇するならしてください。私達は力を合わせて新しい産業を興して、彼らの仕事をつくります」
 今度は、男が黙る番でした。しかしそれも短い間のことで、ゴルトリック卿とやらは鼻を鳴らすと、どうやら椅子から立ち上がったようでした。
「そういうことなら、話は破談ですな。まことに残念です、ヘイズリー公爵」
 そうしてゴルトリック卿の足音は椅子を離れると、扉を押し開けて応接間を出て行ったようでした。
 部屋にはシュプリーとヘイズリー公爵が残されました。
 再び静寂に沈んだ部屋の中で、シュプリーは恐る恐るカーテンの向こうを覗き見ました。公爵のことが心配になったからです。
 すると案の定、椅子に座ったままの公爵は、いつだかシュプリーが岩場の上で見つけた時と同じように、悲しそうな顔をしていました。
 彼らの話の内容はわかりませんでしたが、いつも朗らかな公爵の憂鬱そうな表情を見て、シュプリーは胸を締め付けられる思いがしました。彼女はカーテンから飛び出していって公爵を元気付けようと思いましたが、それより先に公爵が部屋の外へと出て行ってしまいました。
 シュプリーは雑巾と脚立をその場に置き去りにすると彼の後を追いましたが、応接間の扉は彼女の目の前で閉じられてしまい、彼女は扉を開けるのに三十秒ほど格闘しなければなりませんでした。応接間の大きな扉はとても重いので、普段はドア係が二人がかりで開け閉めするのです。
 何とかこじ開けた隙間から滑り出してきた彼女を見て、扉の外側に立っていたドア係達は少し驚いた顔をしていましたが、彼女は気に留めずに左右を振り返りました。彼女は公爵を見失ってしまったのです。
 彼女は左右に分かれている廊下のうち、左側を選んで進みました。しばらくして彼女は前方にコートの後ろ姿を見つけましたが、それは公爵ではありませんでした。
 しかし見慣れない男は公爵と同じくらいか、それ以上に高級そうなコートに身を包み、ブーツの踵を鳴らしながら気取って歩いています。恐らくあれは先ほどの嫌な声の男に違いないとシュプリーは思いました。
 公爵は見つけられませんでしたが、あの嫌な男に公爵にもうちょっと優しくするように説教してやろうと、シュプリーは思いつきました。さきほど公爵を励まそうと思った時もそうでしたが、シュプリーは今でも時々自分が喋れないことをふと忘れてしまうことがあるのです。
 彼女が走って男に追いつこうとした時、男は廊下を左手に折れ、アーチ型の出入り口から庭へ出てしまいました。
 そこで彼女も庭へ飛び出して男を捕まえようとしましたが、彼女はそこで思わず足を止めました。庭にいたのはゴルトリック卿だけでなく、グリズリーのような大男も一緒だったのです。
 大男は、ひょっとしたらグリズリーよりも大きいのではないかと思われるほどの巨体でした。しかもその上、シュプリーが目にした大男の目つきには、ゴルトリック卿の声から彼女が感じ取ったような嫌な気持ちを起こさせる何かがありました。彼女は本能的に二人の前へ出て行くことをためらい、アーチの陰に隠れました。
 すると大男がきょろきょろと辺りを見回してから言いました。
「相変わらずしけた城ですね。で、わざわざこのしけた場所に足を運んだ甲斐はあったんですか、ゴルトリック卿」
 ゴルトリック卿も大男以上に抜け目のない目つきで辺りを窺ってから、大男の低い濁声に答えを返しました。
「いいや、やはり公爵はサインしなかった。しかしここの港は、我々の円滑なビジネスのためにはどうしても押さえておく必要がある。要は、あの男さえ消えてくれればよいのだ」
 ゴルトリック卿の声の調子が、応接間で聞いた時のように愉快そうに上がりました。
 大男はゴルトリック卿の笑いに呼応するかのようにぐっふっふと笑い、こっそりと囁きました。
「そういうことなら、この俺におまかせあれ」
「頼りにしているぞ」
 そう言うと、ゴルトリック卿は大男を従えて庭の向こうへ去っていきました。
 一方、シュプリーはアーチの陰で思わず上がりそうになった――といってもやはり上がるはずのない――声を抑えていました。彼女は大変なことを聞いてしまったのです。
 あの嫌な雰囲気の二人組は、ひょっとしたら、いやきっと公爵を暗殺する気に違いないと、シュプリーにでもわかりました。これは何としても止めなければなりません。
 彼女は慌てて、今度こそ本当に公爵を探しに行きました。彼女の同僚が走り回る彼女を見つけて、公爵の居場所を教えてくれました。公爵は、一人きりで書斎の窓辺に立っていました。
「やあ、シュプリー。今日のおやつが何か、もう聞いた?」
 シュプリーの姿を見た公爵は、いつものように朗らかな笑顔で挨拶してくれました。さきほどまでの悲しそうな様子は微塵も見当たりません。話題を変えたいシュプリーは首を振りました。
「そうか。今日はね、ブルーベリージャムとホイップクリームを添えたレモネードスコーンだそうだよ。楽しみだね」
 何て素晴らしいおやつでしょう、そう思ったシュプリーでしたが、今彼女が本当に言いたいことはそれではないのです。彼女がまだ首を振るので、公爵は少し心配そうな顔になりました。
「どうしたんだい、お腹の調子が悪いのかい?それとも何か、仕事で失敗したとか?」
 シュプリーがいくら首を振っても、公爵の口からゴルトリック卿の名前は出てきません。それもそのはず、公爵はシュプリーが彼の名前を知っているなどとは思っていないのです。
 ここへ来て初めてシュプリーは、自分が話せないことを酷くもどかしく感じました。それどころか彼女は悲しくなってきました。このままでは公爵は、あの二人組の企てに気付くことなく殺されてしまいます。
 悲しみがシュプリーの中で、絶望のように黒く変色してゆきました。彼女はとうとう悲しみを抑えられなくなり、泣き出してしまいました。びっくりした公爵は彼女をなぐさめようと色々な質問をしましたが、やはり彼女の求めている質問はそこにはありません。
 やがて騒ぎを聞きつけて、お城の使用人達が集まってきました。シュプリーと特に仲良しのメイド数人が彼女を寝室へ連れてゆき、彼女に暖かい紅茶とスコーンを運んできてくれました。
 紅茶を飲むと、シュプリーの悲しみは少し落ち着きました。
 そしてスコーンを食べながら、シュプリーは考え、そして決意しました。
 公爵に危険を伝えることができないのなら、彼女が自分で公爵を守るしかありません。



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登場人物紹介

シュプリー


入り江の海の底に住む人魚。

優しい心の持ち主だが、好奇心旺盛で頑固な性格でもある。

声を失う代わりに人間に変身し、陸の上に冒険に出る。

ヘイズリー公爵


入り江の町の領主様。

民を愛する穏やかな青年で、陸に上がってきたばかりのシュプリーを助ける。

巨大商社の搾取から領民を守ろうとし、暗殺されそうになる。

ヴァイオラ船長


海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

なりゆきからシュプリーとヘイズリー公爵を船に乗せることになる。

ゴルトリック卿


巨大商社南インド会社の支社長。

利益のためには手段を選ばず、協力を拒んだヘイズリー公爵に刺客を差し向ける。

一人娘にはかなり嫌われている。

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