第9話:人魚姫は涙を流す

文字数 5,477文字

 それからしばらくは、平穏な日が続いていました。
 もっとも平穏といっても、当然それは普通の人にとっての平穏には当たりません。エンパイア号は時々商船や他の海賊船と出会っては勝利を収め、その度ごとに夜は勝利の宴を張っていました。
 いい加減、戦闘にもこの宴にも慣れてきたシュプリーですが、しょっちゅうどたばたしたりお酒を飲んだりしているうちに、何だか彼女は疲れてきていました。確かにごちそうもお菓子もおいしいのですが、もともと海の底にいた時は食事らしい食事をしなくてもよかった彼女は、この習慣にくたびれてきたのです。海の生き物と比べると人間は何と活動的で食欲旺盛なんだろうと、シュプリーは今更ながらに途方に暮れてしまいました。
 その日も彼女は、マリーと一緒に洗濯物を干していました。
 シュプリーの顔色が優れないので、マリーが大きな瞳で彼女の顔を見上げ、心配そうに尋ねました。
「アン、最近元気ないね。おやつも半分も食べなかったし、どっか調子悪いか?」
 体の調子が悪いわけではないので、シュプリーは頷くわけにもいきません。彼女は再び言葉を話せないもどかしさを感じました。
 するとそこに、航海士のライラが歩み寄ってきました。彼女は昼間は船室で読み物や書き物をしていることが多いのですが、たまにこうして甲板にも出てきます。
「海賊暮らしにそろそろ飽きてきた?」
 そう言ったライラは、冗談らしく微笑みました。彼女の柔らかい笑顔にシュプリーも思わず笑い返しました。ライラは続けました。
「毎日ケンカとお祭り騒ぎで、嫌になってきてるんじゃない?合わない人には合わないものよ、こういう暮らしは。無理はしないで、辛いと思えばこっそりヴァイオラに伝えればいいわ。何なら私でも、彼女に伝えておくから」
 優しいライラの声に、シュプリーは頷きました。頷きつつも彼女は、ライラの気遣いと思いやりに感心してしまいました。彼女は航海士をしているだけあって知的で、海賊とは思えないほど物腰も柔らかです。シュプリーはふと、ライラと海軍のウェイン提督は知り合いらしいという公爵の言葉を思い出しました。
 聡明な彼女は、シュプリーの表情から彼女の疑問まで読み取ったのでしょうか、ライラは続けて言いました。
「私も、時々船を降りて帰りたくなるわ。…うちは元々貴族の家系でね、父親は海軍の総督なの。ウェインは父の部下だったんだけど、私は最近の海軍の仕事をどうにも好きになれなくてね、家族も友人も放り出してヴァイオラの海賊船に乗り込んでしまったのよ。船旅は楽しいけど、毎日お風呂に入れないのは辛いし、酔っ払いも時々うるさいしね」
 そこで彼女のコートの裾を、マリーが引きました。
「ライラ、船を降りちゃいやだよ。航海士もいないと困る」
「わかってるわ。私も一回張った意地だもの、最後まで貫きたいわ」
 そう言ったライラは、悪戯っぽく微笑んでマリーの頭を撫でました。
 その時、いつものように見張りが叫びました。
「五時の方向に船影です!」
 甲板にいた誰もがその声に合わせて見張りの指差す方向へ首を曲げました。確かにその水平線の上には、一艘の船が浮かんでいます。
 やがて船が近付いてくると同時に、誰かが言いました。
「ありゃぁ南インド会社の船だぞ!」
 しかも、それは特段に大きな船でした。徐々に近付くほどに、その大きさが明らかになってきました。船室から出てきたヴァイオラ船長は、大きな商船を見て舌打ちしました。
「ゴルトリック卿の船だ」
 そもそも、海賊船を前にして退散しない商船というだけでも妙な話です。それどころかその船は、追い風を背に受けてみるみるうちにエンパイア号に近付いてきました。「逃げ切れないわ」とライラが呟いたのが、シュプリーにも聞こえました。船長が叫びます。
「全員戦闘配置に付け!」
 シュプリーは慌てて、マリーと共に船倉に駆け込みました。
 エンパイア号は船の横腹を商船に向けると、すぐに大砲を撃ち始めました。船底にいる公爵も、大砲の弾を詰めるのを手伝っていました。
 しかしこちらの玉があちらに届く前に、商船の放った砲弾がエンパイア号の船体を掠めました。商船の積んでいる大砲は最新型のものなのでしょう、性能がいいのです。再び舌打ちしたヴァイオラ船長は船の向きを変えると、まっすぐに敵船目掛けて突っ込みました。
 南インド会社の甲板にひしめいている男達の顔つきは、海賊とさして変わりません。ならず者が彼らに不似合いな仕立てのいい服を着て獲物を待ち構えている様子は、どこか風変わりともいえました。彼らの中心にはグリズリーのような大男が仁王立ちしており、彼らの奥には嫌な笑いを浮かべたゴルトリック卿が控えています。
 二艘の船が近付くと同時に、早速戦闘が始まりました。
 商船に乗っている兵の数は多いですが、エンパイア号の海賊達も精鋭ばかりです。二つの甲板の上で激闘が始まりました。
 ヴァイオラ船長がいつものように叫びました。
「ゴルトリック卿、降りてきて私と勝負しろ!高みの見物じゃ男が廃るぞ!」
 しかしゴルトリック卿は甲板の後尾でふんと鼻を鳴らしました。
「遠慮する、前のように帽子の羽を斬られては敵わんのでな。男の栄誉は君に譲ろう」
 ヴァイオラ船長は今日で三度目の舌打ちをしました。
 その間にもエンパイア号の甲板には大男が乗り込んできており、手にした刀で次々と海賊達を船の外へ叩き落していました。大男のルブは操縦桿の側にライラの姿を見つけると、音高く口笛を吹きました。
「こりゃあミス・ゴージャスじゃねえか!久し振りだなあ、会いたかったぜ」
 おかしなあだ名で呼ばれたライラは鞭を構えたまま、冷たくあしらいました。
「残念、人違いね。私、貴方に見覚えはないわ」
 ライラに近づいてゆく巨漢に何人かの海賊が挑みかかりましたが、誰も彼も三合も斬り合わないうちに弾き飛ばされてしまいます。そこへ長槍を掲げたアントーニオが駆け込んできました。
「ルブ、お前の相手は私だろう」
 ぐるりと首を回した大男は、分厚い唇を歪めてにやりと笑いました。
「おっとこっちは裏切り者のアントーニオじゃねえか。鞍替えしてハッピーにやってるか?レディ達に囲まれてるもんなあ!」
 ルブが唸ると共に、槍と刀とがぶつかりました。さすがにアントーニオは吹っ飛ばされませんでしたが、ルブの攻撃を受け止めるたびに、彼のブーツの底は甲板の上で滑りました。しかめっ面の眉が更に寄せられます。
 二人は五回刃を交わしましたが、五回目でルブが振り回した刀がメインマストに深々と突き刺さりました。舌打ちしたルブの脇腹を狙ってアントーニオが槍を繰り出しましたが、ルブは槍の胴を左手で掴み、同時に片膝を屈めて足元に落ちていた鉄球を拾いました。鉄球は二つの大砲の弾を鎖で繋げたもので、ルブはその鎖を掴んで持ち上げたのでした。
 アントーニオが目を見開いたのも束の間のことで、次の瞬間には彼の胴を狙って鉄球が飛んできました。大砲の弾を食らったアントーニオは今度こそ吹っ飛び、その様子にひるんだ海賊達を見て、ルブはぶっへっへと笑いました。
 邪魔する者のいなくなったルブはとうとう甲板に置かれていた大砲に駆け寄ると、何とそのうち小ぶりな一台を持ち上げて、船倉への入口めがけて投げ下ろしました。格子板を貼った扉は粉々に砕け、船底に潜んでいた船員達は落ちてきた大砲に驚いて悲鳴を上げました。
 ばらばらになった格子扉の上に降り立った巨体を見て、シュプリーは恐れおののきました。彼女はすぐ側にいたマリーをかばうようにして船室の奥に逃げようとしましたが、その姿がルブの目に留まったようでした。
「おっと、新顔がいるなあ。ちょうどいい、ちょっくら挨拶といこうじゃねえか」
 シュプリーは今度こそ全身の毛が逆立つのを感じました。のしのしと近付いてきたルブに対して抵抗する術は彼女にはありません。しかしそこに、公爵が飛び出してきました。
「やあっ」
 掛け声と共に巨漢の頭を狙って振り下ろされたのはラムの瓶です。しかしルブはものすごい反射神経で、その瓶を腕で受けました。瓶は大男の肘に当たって砕け、暗い色の液体が辺りに飛び散りました。次の瞬間には公爵も弾き飛ばされて、船倉の壁に激突して動かなくなりました。
 残酷な光景を目にしたシュプリーの目尻から、涙がにじみ出てきました。
「おいおいお嬢ちゃん、人の顔見て泣くもんじゃねえぜ」
 ルブはわざとらしく眉を下げて見せましたが、その声はどう聞いても笑っています。
 悲しみと恐怖で、シュプリーの頭の中は真っ白になりつつありました。しかしその時、彼女の陰から、マリーが飛び出してきたのです。
「このローストポーク男!」
 飛び出したマリーは一直線にルブに突進してゆくと、何と大男の指に噛み付きました。
 さすがにぎゃっと声を上げたルブはマリーの頭をはたくと、その首根っこを掴んで彼女を指から引き離しました。「離せ、離せ」とマリーは叫んでじたばたしましたが、当然敵うはずもありません。
「マメガキが、」とルブは毒づきかけましたが、そこに甲板の上から呼び笛の音が響いてきました。呼び笛は南インド会社側のものです。
 何が起きたのでしょうか、彼らにはわかりませんが、舌打ちしつつもルブは甲板へ上がってゆきました。ただし、手にはマリーをぶら下げたままです。
『待って』と言ったつもりでシュプリーもそのあとを追いましたが、大男は風のように駆けてゆきました。
 どうやら甲板の上では、とうとう商船の奥へ入り込んだヴァイオラ船長がゴルトリック卿に決闘を仕掛けていたようです。そこには剣を構えて向かい合った二人の姿がありましたが、ゴルトリック卿の帽子の羽の先がありません。身の危険を感じたゴルトリック卿が呼び笛を吹かせ、早々に部下に撤収を命じたのでしょう。
「おいルブ何をしている!持ち場を離れるなと言っただろう!」
 上がってきたルブの姿を見るなりゴルトリック卿は怒鳴りつけましたが、彼が片手にマリーをぶら下げているのを見て怪訝そうに眉をひそめました。
 一方その隣でヴァイオラ船長が、「マリー!」と叫びました。マリーも「おねえちゃん!」と叫びます。それに気付くや否や、ゴルトリック卿が剣を構えていない左手で、懐から拳銃を抜きました。その先は何とルブ、もとい彼の手元のマリーに向けられています。ヴァイオラ船長が息を呑みました。
 ゴルトリック卿が歪んだ微笑を船長に向けました。
「潮時のようだな」
 ヴァイオラ船長はぎりりと奥歯を噛み締めました。しかし彼女は喉の奥から出掛かった言葉を噛み殺すと、「全員撤収しろ!」と空高く声を張り上げました。
 船長の命令を受けて、商船に乗り移っていた海賊達が次々にエンパイア号に戻ってきました。同時に海賊船に乗っていた兵隊達も商船の上へ戻ってゆきます。
 ゴルトリック卿の隣に立ったルブが暴れるマリーをぶらぶらさせながら、「そういや、海賊船の船倉にヘイズリー公爵がいましたぜ」と思い出したように言いました。ルブの口調は何でもないことかのようでしたが、それを聞いたゴルトリック卿の顔つきが変わりました。
「何?殺したのではなかったのか」
「いや、何がどうなったやら、生きてたみてえで」
 ルブはおどけるように肩をすくめましたが、ゴルトリック卿はますます険しい目付きで大男を睨み上げました。
「今度こそ殺したんだろうな」
「いや~、どうだかな。あんたが呼びつけたからですぜ」
 今度はゴルトリック卿が激しく舌打ちする番でした。
 彼は起ち上がろうとする怒りを抑えるかのように首を振りつつ、「まあ、いいだろう」と呟き、次いでルブに言いました。
「とりあえずそのやかましいマメガ…お嬢さんを、ゲストルームにお連れしてくれ。粗相のないようにな」
 当のマリーは、相変わらずルブの腕に吊るされたまま、対岸の甲板の上から彼女を見つめている船長を呼び続けています。
「おねえちゃーん!」とマリーが呼ぶたびに、ヴァイオラ船長は苦しげに唇を噛みましたが、船長は今の状況では妹を救えないことを理解しています。
 そんな状況にはお構いなしのルブは、マリーを掴んだまま商船の船底へと消えてゆきました。
「望みは何だ」
 妹の姿が見えなくなるや否や、船長は低く押し殺したような声を張り上げました。ゴルトリック卿はその問いを待っていたかのように、甲板越しに船長に声を投げ掛けました。
「そちらの船にヘイズリー公爵が乗っているらしい。君にどんな思惑があるのかは知らんが、公爵と妹君を交換するというのはどうだね?」
 この時には既に、両者の船員達は各々の船に戻っていました。先ほどまで戦場だった甲板は妙に静まり返り、聞こえるのは波と風の音、負傷者のうめき声のみになっていました。
「…いいだろう。七日後の日没に三日月岩でだ。それまでに私の妹に指一本でも触れたら、貴様の帽子の羽どころか指から首まですべて切り落としてやる」
 船長の低い声が、甲板の上に淡々と響きました。
 それを聞いたゴルトリック卿はいつものようににやりと笑います。
「七日後、か。もちろん君の妹君は丁重に扱おう。それでは七日後に」
 その言葉を合図にしたかのように、二艘の船はお互いにするすると離れてゆきました。



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登場人物紹介

シュプリー


入り江の海の底に住む人魚。

優しい心の持ち主だが、好奇心旺盛で頑固な性格でもある。

声を失う代わりに人間に変身し、陸の上に冒険に出る。

ヘイズリー公爵


入り江の町の領主様。

民を愛する穏やかな青年で、陸に上がってきたばかりのシュプリーを助ける。

巨大商社の搾取から領民を守ろうとし、暗殺されそうになる。

ヴァイオラ船長


海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

なりゆきからシュプリーとヘイズリー公爵を船に乗せることになる。

ゴルトリック卿


巨大商社南インド会社の支社長。

利益のためには手段を選ばず、協力を拒んだヘイズリー公爵に刺客を差し向ける。

一人娘にはかなり嫌われている。

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