第14話:美女は乱暴者を水に沈める

文字数 2,586文字

 夕暮れが水平線の向こうへ沈み、入り江は宵の口を迎えていました。
 大男のルブは波止場の酒場で、同僚の水夫達とテーブルを囲み、ビールを飲んでいました。
 船着場の真隣にある酒場の前には、路地を挟んで大きな海が広がり、そこへ突き出した桟橋といくつものボートが並んで見えます。
 桟橋は昼間の活気とは打って変わってひっそりとしていましたが、海沿いに並んだ酒場や宿場は、海から戻ってきたお客でどこも満員のようでした。
「あにき、とうとう明後日が七日後ですね。当日の朝一で船を出すんでしょう?」
 いっしょにテーブルを囲んでいる男の一人が、大男に向かって言いました。
 ルブはこの下っ端に自分をあにきと呼ぶ許可を与えた記憶はありません。男が勝手に呼んでいるものなので、彼はこれを知らん振りしました。
「あのエンパイア号を沈めるんだよなあ。とうとうヴァイオラ船長もお縄か」
 別の男が、さも愉快とばかりに笑いました。男の頬には刀傷がありましたが、果たしてそれはヴァイオラ船長につけられた傷なのでしょうか。
「…おい、ルブはえらくご機嫌ななめだな」
 また別の男が、向かいの男に囁くように言いました。そうなのです、さきほどから大男は、次々とビールを干しつつも、つまらなそうな顔をして海の方を眺めてばかりいます。すると、はじめの男が言いました。
「それがさ、リモーネが例の店を辞めて実家に帰っちまってたんだよ。あにきに何も言わずによ。そいであにきはご機嫌斜めなんだ」
 その声は当然本人の耳に入りました。ルブは突然ビールジョッキの底をテーブルに叩きつけると、アルコールで淀んだ目玉を男に向けました。思わずテーブルは静まり返ります。
「…おい、ザコ助よ。てめえは何の権利があって、俺のプライベートをまき散らしてんだ?」
 大男は、ビールジョッキをその場に置くと、熊のようにのっそりと立ち上がりました。彼をあにきと呼んでいた男は大慌てで、先の発言を取り消そうとするかのように、手をぶんぶんと振りました。
「いやあにき、俺はそういうつもりで言ったわけじゃなく…」
「ううん?じゃあ何だってんだ?」
 その言葉と共に、ルブは男の顔面ほどもある巨大な拳を握りしめると、それを男の横面めがけて叩き込みました。気の毒な男は、手にしていたジョッキの中身を飛び散らせながら吹っ飛んで、派手な音を立てながら後ろのテーブルに突っ込みました。後ろのテーブルからはもちろんブーイングの嵐です。
 ルブがブーイングを上げたお客に向かっても凶悪な視線を向けようとした時に、しかしながら、彼の向かいに座っていた男があっと小さく叫んだまま、動かなくなりました。かと思うとその男と同じ方向へ視線を向けた客達が、男と同じように次々と動きを止めてしまったのです。
 不審に思ったルブも、握りしめた拳はそのままに、客達と同じ方向へ首を向けました。そこは桟橋に面した、路地の方向です。
 そこに立っていたのは、今まで彼らの誰も見たことのないような、美しい女性です。闇に溶けそうな漆黒の髪と月光の肌を持った彼女は、まるで夜の精のようでした。
「こんばんは」
 女性は柔らかく、彼に向かって微笑みかけました。
 それだけで、ルブの隣に立っていた男は放心状態になり、手からジョッキを取り落としてしまいました。グラスが音を立てビールが地面を濡らしましたが、誰も彼女から目をそらそうとはしません。
 さすがの大男も目を白黒させながら、謎の美女を見下ろしました。不審には違いありませんが、こんな美女に声をかけられて、不愉快に感じる彼ではありません。
「なんだ?あんたは」
 ルブが問い、美女が答えました。
「貴方のお友達から、伝言を預かっているの。…少しお時間頂けますかしら」
 もしかしてそれは、彼にさよならを言わずに消えたリモーネからのものでしょうか。とにかくすっかり機嫌を直したルブは、「そういうことなら」と椅子から立ち上がりました。
 店を出て桟橋の方向へ歩いていった二人を、店の男達は目で追っていましたが、やがて二人の姿は闇の奥に溶け、店から見えなくなりました。



 桟橋の上を歩きながら、ルブは彼女が随分と店から離れた暗がりの中まで進んできたことを、訝しく思っていました。
 しかし彼女の美しさに舞い上がっていた大男は、普段ならそこまで楽観的にはならないはずですが、まさかこの美女が自分に気があるのではないかなどという気がしてきていたのです。さらに自分の前を歩くしなやかな後ろ姿を見ているうちに、いや、彼女に気があろうとなかろうと、この状況だったら確実に頂きだろう、などと下衆なことを考えたりもしていました。
 彼がそんなおめでたいことに思考を割いていると、ふと美女が足を止めました。桟橋の端までやってきたのです。彼らの足元のすぐ下では、穏やかな波が揺れています。
「お姉ちゃん、俺に伝言ってのは何なんだい」
 自分も足を止めると、ルブはわざとらしく言いました。彼の頭の中からは、既にリモーネのことなど消えうせています。
 美女はくるりと振り返って言いました。
「これは、私の友達からの伝言です。…南インド会社のゴルトリック卿の下で働くのを、やめてもらえないかしら」
 彼女の表情は真剣なものでした。しかしルブは、彼女の表情ではなく、彼女の姿ばかりを見ていました。彼に、彼女の言葉の中身は伝わっていません。
「何言ってんだ、あんたは。どこの回しもんだ?」
 薄笑いを浮かべたルブは酒臭い息を吐きながら、美女に一歩近寄ると、大きな腕を伸ばして彼女の手首を掴みました。
 それを見た美女は残念そうに長いまつげを伏せました。そして次の瞬間には、彼女は美しい容姿はそのままに、何と人魚に変身してしまったのです。
 大男が美女――セイレーンの正体に気が付いた時には、既に手遅れでした。
 ルブは、彼女の夕陽のように燃える瞳から目を離せないまま、全身が綿になってしまったかのように力が抜けてゆくのを感じました。
 セイレーンは彼女の手首を掴んでいた大男の手を掴み返すと、その巨体をやすやすと暗い水の中へ引きずり込んでしまいました。
 水面には一度大きな飛沫が上がりましたが、水はすぐに静かになり、あとには何も残りませんでした。



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登場人物紹介

シュプリー


入り江の海の底に住む人魚。

優しい心の持ち主だが、好奇心旺盛で頑固な性格でもある。

声を失う代わりに人間に変身し、陸の上に冒険に出る。

ヘイズリー公爵


入り江の町の領主様。

民を愛する穏やかな青年で、陸に上がってきたばかりのシュプリーを助ける。

巨大商社の搾取から領民を守ろうとし、暗殺されそうになる。

ヴァイオラ船長


海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

なりゆきからシュプリーとヘイズリー公爵を船に乗せることになる。

ゴルトリック卿


巨大商社南インド会社の支社長。

利益のためには手段を選ばず、協力を拒んだヘイズリー公爵に刺客を差し向ける。

一人娘にはかなり嫌われている。

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