第7話:人魚姫は海賊になる

文字数 3,662文字

 彼らが乗り込んだ海賊船エンパイア号は、海賊船にしても、そうでない船にしても、少し変わった船でした。
 船長と航海士が女性というのは珍しいですし、この船にはその二人以外にも、もう一人女の子が乗っていました。
 名前をマリーというその少女は船長の妹でしたが、乗組員の一人として洗濯係を手伝っており、シュプリーの友達になってくれました。
 マリーはどこか少し抜けていますが、天真爛漫な彼女の存在は落ち込んでいたシュプリーをずいぶんと励ましてくれました。はじめは海賊達を恐れきっていたシュプリーですが、マリーのおかげですぐに元気を取り戻りました。そして慣れてくれば、一見荒々しい海賊達も、親しみやすい陽気な連中に思われてきたのです。
 一方で公爵も、少しずつ海賊船に馴染んできているようでした。海賊達は既に地位も帰るところも失って彼らの一員になった公爵を、デュークというあだ名で呼びました。海賊たちの多くは、お互いをあだ名で呼び合っているようです。
 ある日の昼下がり、デッキで洗濯物を干している時、マリーが言いました。
「アンはおにぎりって食べたことあるか?」
 彼女は不思議なくせのある喋り方をします。同じく彼女の隣で洗濯物を干していたシュプリーは、彼女よりいくらか低い位置にあるマリーの顔を見下ろしながら、首を振りました。
「そりゃ残念だよ。おにぎりはこっから遠い国の食べ物だけど、すっごくおいしいよ。アンの好きなスコーンよりおいしいくらいだよ」
 食いしん坊のマリーは、よく食べ物の話をしています。時々彼女は食料庫に盗み食いに入ろうとすることもあるので、船の食料庫には厳重な鍵がかけられているのです。
 スコーンよりおいしいというおにぎりをぜひ食べてみたいとシュプリーが思っていると、見張り台の上で見張り係が叫びました。
「九時の方向に敵船!海軍の軍艦です!」
 甲板の上にいた人々はみな、一斉に見張り係の指差す方向に首を向けました。
 確かにそこには、青い海の上に船が浮かんでいました。何台もの砲門を備えた立派な戦艦です。マストの上には王国旗が翻っていました。
「戦闘態勢!」
 いつの間にか甲板に現れていたヴァイオラ船長が、雄々しい声で叫びました。船員達はその言葉に合わせて慌しく甲板を駆け回り、途中になっていた作業や掃除を中断して道具を片付け始めました。
 シュプリーもマリーに促されるままに干しかけていた洗濯物を籠に戻すと、彼女と共に船倉に飛び込みました。彼女達と入れ替わりに武器を握った男達が甲板へ飛び出してゆきます。その中にはアントーニオや、航海士のライラが混ざっているのを彼女は見ました。
 船倉には、公爵も戻ってきていました。シュプリーは彼を見つけると、木箱の上に腰掛けている公爵の隣へゆきました。シュプリーが不安そうな表情をしているのに気付いたのでしょう、彼はいつもの穏やかな声で言いました。
「大丈夫だよ、船長達はきっと勝つよ。…ヴァイオラ船長のエンパイア号は、この辺りではかなり有名なんだよ」
 その言葉を聞いたシュプリーは、アントーニオの質問に船の名前を知っているかと訊かれて、公爵が知っていたことを思い出しました。さらに彼女の隣でマリーが得意げに言いました。
「海軍の船は、一度もおねえちゃんには勝ったことないよ」
 それはすごいことです。シュプリーは少し見開いた両目を、天井へ移しました。甲板の上では船長の指示や船員達の足音が響いています。
 やがて、激しい爆音が船底にも届き始めました。海軍の船が大砲を撃ち始めたのです。
 はじめは海軍の砲撃の射程距離ぎりぎりを進んでいたエンパイア号ですが、素早く軍艦の前方に回りこむと、船首同士をぶつける勢いで一気に海軍の船に接近してゆきました。
 船がぴったりと並行に並んでからは、海軍も大砲を撃つことはできません。甲板にいる海軍兵と海賊とが入り乱れる白兵戦が始まりました。
 兵の数は海軍のほうが多いのですが、白兵戦の当初から、士気の上では海賊団のほうが優勢のようでした。過去に何度も敗北を味わっている海軍は腰が引けているのでしょう。一人ひとりの兵の力も海賊団の方が強いように思われます。
 エンパイア号の甲板の上では、アントーニオが柄の長い槍で次々と海軍兵を薙ぎ倒しています。操縦桿の側に立っているライラには、優美な彼女の外見から彼女を侮ったのか兵が群がりましたが、ライラは障害物の多い船の上でも器用に鞭を操り、彼女に近付こうとする敵を退けました。
 ヴァイオラ船長は彼女の小柄な体格にも関わらず、巧みかつ激しい剣さばきで、彼女の前に立ちはだかった兵を着実に倒してゆきます。船長は海軍の戦艦に飛び移ると、高々と叫びました。
「司令官出て来い!臆病者と呼ばれたくなかったら私と決闘してみろ!」
 するとその声に応えて、海軍兵の中に紛れていた一人の男が、剣を振り上げました。
「私が司令官だ。勝負だ、ヴァイオラ」
 現れたのは漆黒の髪を撫で付けた、精悍な男性でした。ヴァイオラ船長は彼の顔を見ると不敵に笑い、じりじりと彼に近付きました。
「誰かと思ったらウェイン提督じゃないか。私を倒して今度こそ弱小海軍の汚名を晴らしてみるか?」
 船長の挑発に対し、提督は剣の一振りで応えました。刃と刃がぶつかって火花を散らします。周囲の海賊達が「やっちまえ、船長!」と囃し立てれば、海兵達は「そこです、提督!」と叫びました。
 ヴァイオラ船長が稀に見る細剣の巧手だとすれば、ウェイン提督も剣の名手に違いありませんでした。しばらくの間二人は互角に打ち合っていましたが、やはり体力に関しては体の大きい提督に分があるのでしょうか、徐々に船長の足場が後退し始めました。
 とうとう提督の剣先が、船長の細剣を弾き返しました。船長がひるんだ一瞬の隙を狙って、提督は剣を振り下ろしました。しかしその時、海賊船の操縦桿から、航海士ライラの声が響き渡ったのです。
「久し振りね、ウェイン」
 聡明そのもののその声は、ウェイン提督の一撃を大いに鈍らせました。
「ライラ…!」
 危機一髪、提督が航海士の顔を探して視線を巡らせた間に、船長は一歩退くと、再び細剣を突き出しました。提督は辛うじてそれを受け流します。提督の両目はとうとう敵船上の航海士を捉えました。
「いつまで海賊船に乗っているつもりだ。君のお父様がどんなに嘆かれていると思う!」
 どうやらウェイン提督と航海士ライラは知り合いのようです。ライラは言いました。
「それはこちらの台詞よ。ウェイン、貴方こそいつまで商社の犬でいるつもり?私はそんな貴方の姿は見たくないの。だから城には戻れない」
 提督の表情が、苦虫を噛み潰したように歪みました。その隙にも、ヴァイオラ船長の細剣が彼の喉元を狙います。今度は提督が後退し始めました。
「ちなみに提督、そろそろ引き時じゃないか?」
 ヴァイオラ船長が言いました。その言葉にはっとしたように提督が周りを見てみれば、いつの間にか甲板の上の海兵は殆どが倒されるか海に落とされて、周囲は海賊ばかりになっていました。
 歯噛みしたウェイン提督は素早く身を翻して船長の剣を避けると、大声で部下に撤退を命じました。
「撤収、撤収―――!」
 指令を受けるや否や、海兵達は解き放たれたようにばらばらと軍艦に乗り移り始めました。船はゆっくり動き出し、徐々に速度を上げて海賊船から離れてゆきます。船長をはじめ、敵船に乗り込んでいた海賊達は次々とエンパイア号に飛び移りました。
「やれやれ、危ないところだった」
 ヴァイオラ船長は遠ざかってゆく軍艦を眺めつつ、何でもないかのように軽い調子で言いました。
 そこへ歩み寄ってきたアントーニオが無言で彼女の細剣を受け取るとその刀身を布で拭き取り、彼女の横に立ったライラが溜め息を吐きました。
「ハラハラさせないで。ウェインを舐めてかかっちゃ駄目よ」
「わかってる。少し横着しただけだ」
 にやりと笑った船長の顔を見て、航海士は苦笑して肩をすくめました。
 戦闘の一部を船倉から覗き見ていたシュプリーは、海賊団の勝利の様子に目を丸くしました。まさにマリーの言う通りだったのです。
 シュプリーの隣でマリーが飛び跳ねました。
「勝った勝った!ってことは、今夜は勝利の宴だよ!ごちそうだよ~!」
 大喜びのマリーを見たシュプリーは、自分まで嬉しくなって立ち上がりました。マリーと共に甲板へ戻ろうとして、公爵も誘おうと彼を振り返りました。
 すると公爵は、またいつかに彼女が見たような、悩ましい表情で床板を見つめていたのです。
 しかしそれも短い間のことで、シュプリーの視線に気付いた彼は、すぐに顔を上げると微笑みました。
「勝利の宴だなんて、楽しそうだね。私たちも行こう」
 そう言って逆にシュプリーの背を押すと、公爵は甲板へ続く階段を上がってゆきました。



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登場人物紹介

シュプリー


入り江の海の底に住む人魚。

優しい心の持ち主だが、好奇心旺盛で頑固な性格でもある。

声を失う代わりに人間に変身し、陸の上に冒険に出る。

ヘイズリー公爵


入り江の町の領主様。

民を愛する穏やかな青年で、陸に上がってきたばかりのシュプリーを助ける。

巨大商社の搾取から領民を守ろうとし、暗殺されそうになる。

ヴァイオラ船長


海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

なりゆきからシュプリーとヘイズリー公爵を船に乗せることになる。

ゴルトリック卿


巨大商社南インド会社の支社長。

利益のためには手段を選ばず、協力を拒んだヘイズリー公爵に刺客を差し向ける。

一人娘にはかなり嫌われている。

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