第1話:人魚姫は家出する

文字数 1,853文字

 とある入り江からそう遠くない海の底に、海の生き物たちが睦まじく暮らす平和な海の楽園がありました。
 そしてその海の底の楽園に、明るく元気な人魚の女の子が住んでおりました。女の子は名前をシュプリーといいました。
 シュプリーは入り江の海生まれ入り江の海育ちの人魚でしたが、子供の頃から陸の世界に興味津々で、人間のことが大好きでした。彼女の父親に叱られながらも、たびたび入り江へ近付いては、物珍しい人間の世界を観察していたのです。
 その甲斐あってかと言うべきなのかわかりませんが、彼女のフィアンセは元人間です。
 名前をソロンという彼女のフィアンセは人間の王様でしたが、うっかりシュプリーに出会って海の世界を案内してもらってから海の世界の虜になってしまい、とうとう自分の国を放棄して海の世界の住人になってしまったのです。
 人間が海の生き物になるには魔法使いの力を借りなければならないので、ソロンはダリーという胡散臭い魔法使いに頼んで、海の生き物に変身しました。ちなみにソロンは海の生き物になるにあたって、シュプリーとおそろいの魚の足を希望していましたが、意地悪なダリーはソロンが嫌いなイカの足を彼につけました。はじめは文句たらたらだったソロンですが、イカの足が色々なものを掴むのにとても便利なことに気がついてからは、まんざらでもなさそうに自分の足を有効活用しています。
「ねえ、私、明日あたり入り江へ行ってみようと思うんだけど、どうかしら」
 その日も鏡に向かい、珊瑚の櫛で太陽色の髪を梳かしていたシュプリーは、彼女の背後で楽譜を睨んでいるフィアンセに何気なく声を掛けました。しかし「ううん」と曖昧な返事を返しただけのソロンは、どう見ても上の空です。
 シュプリーは頬を膨らませると、ソロンの隣まで泳いでいって彼の肩に肘を掛けました。
「ソロンさんてば、聞いてる?」
 やっと顔を上げたフィアンセは、困ったように眉を寄せました。
「すまない。つい楽譜に夢中になっていて…でも、どうせ君の話は入り江のことだろう」
「もちろん。ねえ、今度こそいいでしょ。ソロンさんが一人で行くのは危ないって言うから、私ずっとあなたの手が空くのを待ってるんだもの。もう三ヶ月は待ったわ」
「ううん…でも、明日にはまたセバスチャンが新曲を発表するんだ」
 それを聞いたシュプリーは、再び頬を膨らませました。
 そうなのです、彼女がフィアンセに外出を促すたびに、彼はいつもこの調子なのです。
 海の世界の住人は、音楽や踊りが大の得意です。人間のように建物を建てたり船を造ったりすることはしませんが、彼らは美しいものを演出することに関しては素晴らしい才能を持っています。ソロンは音楽や踊りを鑑賞するのが大好きで、コンサートがあれば欠かさず出席します。しかし海の底では毎日のように誰かが新曲や新しいダンスを披露しているので、彼は全く休む暇がありません。
 ソロンの気持ちもわからないでもありませんが、三ヶ月も待たされているシュプリーは流石に業を煮やしました。
「そんなこと言ったら、私はいつまでたっても入り江に行けないじゃない。もういいわ、私一人で行っちゃうから」
 決然と言い放ったシュプリーを見て、ソロンは慌てたように楽譜を伏せました。
「駄目だ。それは危ない。君も知ってるように、人間は器用なだけじゃなく、酷く冷酷で野蛮だぞ。何といっても海の生き物を食べる連中だ。ダリーより性質が悪い。君なんかすぐに取って食われるぞ」
 しかしシュプリーは聞きません。
「だったら私が人間になればいいだけの話だわ」
「それはもっと悪い!人間は人間に対して悪事を働く時が最も残酷なんだ。頼むから明後日まで待つんだ。セバスチャンの新曲を聞いたら君に付き合うから」
「そう言って三ヶ月も待たされたのよ。平気よ私、人間だった時からお城に引きこもってたソロンさんより、ずっと人間の世界について知ってる自信があるもの。手始めに、入り江へ行って漁師さんとでもお友達になろうかしら。さようなら、ソロンさん」
 そこまで一気に言い切ったシュプリーは、最後の一言と共に水を蹴って居間――といっても岩に囲まれているだけの海の底ですが――から飛び出しました。
 ソロンはシュプリーの後を追おうとしましたが、元々人間だった彼の泳ぎでは、フィアンセに追いつけないことは明らかでした。青い顔をしたソロンを残して、シュプリーは太陽の光がきらめく水の底を後にしました。



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登場人物紹介

シュプリー


入り江の海の底に住む人魚。

優しい心の持ち主だが、好奇心旺盛で頑固な性格でもある。

声を失う代わりに人間に変身し、陸の上に冒険に出る。

ヘイズリー公爵


入り江の町の領主様。

民を愛する穏やかな青年で、陸に上がってきたばかりのシュプリーを助ける。

巨大商社の搾取から領民を守ろうとし、暗殺されそうになる。

ヴァイオラ船長


海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

なりゆきからシュプリーとヘイズリー公爵を船に乗せることになる。

ゴルトリック卿


巨大商社南インド会社の支社長。

利益のためには手段を選ばず、協力を拒んだヘイズリー公爵に刺客を差し向ける。

一人娘にはかなり嫌われている。

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