第5話:人魚姫は悪役と遭遇する

文字数 4,429文字

 公爵を守ると決意した翌日から、シュプリーは公爵の身の回りを監視することにしました。できるだけ公爵のそばにいて、不審なものがないか、見慣れない人物がいないか探すのです。
 しかし時にシュプリーが自分の仕事をほったらかして公爵のそばへ行ってしまうので、さすがに彼女の周りの使用人達も、彼女の異常に気が付きました。
――かわいそうに、彼女は恋に落ちてしまったのね。
 メイド達の誰かがそう言いました。そしてそれは、瞬く間にお城の中の、公爵以外の人々の知るところになりました。
 シュプリーに同情したメイドの一人が、公爵のお茶係の仕事を彼女と交代してくれました。これなら窓拭き係よりは公爵のそばにいられますし、何よりそうすれば、シュプリーが少しは落ち着いて仕事をできるようになるのではないかと期待されたということもあります。公爵が側にいる間は、彼女はひとまず手を動かすことができるからです。
 シュプリーは誤解されていることに気が付かぬまま、幸運にも公爵のお茶係として働きました。彼女は常に公爵の周りに目を光らせていましたが、しばらくの間は、何の異常もありませんでした。
 やがてシュプリーも、もしかしたらあれは自分の聞き間違いだったのではないかと少し疑い始めたある日のこと、公爵の誕生パーティーが開かれることになりました。
 パーティーは大きな帆船の上で、お菓子やご馳走を集めて行われることになりました。船にはたくさんの招待客や、楽器を携えた音楽隊も乗り込みます。もちろんお茶係であるシュプリーも同乗することになりました。海の底では毎日音楽を聞いていたシュプリーですが、久し振りに音楽を聞けるとなって、とてもわくわくしていました。
 青空の美しい日のお昼に、帆船は無事入り江から出港しました。甲板に集まった人々は公爵を囲み、音楽隊の奏でる音色に耳を傾けながら、ご馳走を食べたり、歌を歌ったりしました。
 この時は公爵も本当に楽しそうで、踊り始めた使用人達の歌声に合わせて、手を叩いたりしていました。
シュプリーも一緒に踊り、気が付けば太陽は西の空に沈みかけ、海はくれない色に染まっていました。しかも空の端には、昼間は見かけなかった黒い雲が忍び寄ってきていました。
 船が港へ戻る前に、天気が悪くなると厄介です。船の船長は操縦桿へ戻り、帆船は入り江へ向けて進み始めました。
 しかしいくらも戻らないうちに、黒い雨雲はみるみるうちに空を覆い尽くしました。辺りはまるで夜中のように暗くなり、やがて雨が降ってきました。雨が降り始めると同時に波が荒れ始め、船は大きく揺れるようになりました。
 招待客をはじめ、多くの人達が強まってきた雨と風を避けて船室へ入ろうとしました。しかしその時、見張り台に立っていた使用人の一人の、怯えた声がみんなの耳に届きました。
「海賊だ!」
 その言葉を聞いた人々は、皆一気に青ざめました。海で海賊に出会うことは、海賊でない善良な一般市民にとって、最悪の出来事だからです。
 怯えて混乱し始めた人々を落ち着かせようと、公爵はみんなに声を掛けましたが、この時ばかりは公爵の呼びかけも効果がありません。一方でシュプリーは揺れる甲板の手摺にしがみついて、見張りが見つけたという海賊船に目を凝らしました。
 彼女は人魚であった時から、海賊船を知っています。海賊船は必ず黒い旗を掲げ、旗には大概白い髑髏が描かれています。確かに暗い海の向こうから近づいてくる船の帆先には髑髏の描かれた海賊旗が翻っていますが、何かがおかしいとシュプリーは感じました。
 何がおかしかったのかは、船が近付いてきたことでわかりました。その船はまるで少し大型の漁船のようで、海賊船にしては小さすぎたのです。シュプリーの知っている海賊船は、もっと大きい船ばかりでした。そして案の定さらに目を凝らすと、船の上に乗っているのはグリズリーのような大男です。彼女は気が付きました。船は海賊船ではなく、乗っているのはゴルトリック卿の刺客です。
 しかし勘違いした人々は、恐慌状態に陥りました。おまけに船が酷く揺れているものですから、非常用の小型ボートを下そうとして、何人かの水夫が水の中に転落しました。それでも使用人達は公爵の手を引いて彼をボートに乗せようとしましたが、そこへ偽海賊船が追いついてきたのです。
 先に鉤のついた投げ縄を使って、刺客とその部下達が船に乗り込んできました。彼らはみな手に剣や刀を持っています。怯えた人々は次々に海に飛び込み、一部の勇敢な人々がモップや椅子を武器に悪漢達に対抗しようとしましたが、誰も彼もが大男の前に立つと、弾き飛ばされて海の中へ落ちていきました。
 大男は迷うことなく、一直線に公爵めがけて進んできました。彼をかばおうとする人々を押しのけて、公爵は前へ進み出ると、いつも飾りとして腰に下げている剣を抜き、大男に立ち向かいました。
 ですが大男の刀は軽々と公爵の剣を弾き飛ばし、大男は次の一撃を繰り出しました。今にも刀が公爵の上に振り下ろされんとした時、そこにシュプリーが飛び出していきました。彼女は公爵に体当たりするとそのまま雨で濡れた甲板の上を滑り、何と勢い余って公爵と共に荒れ狂う波間に投げ出されてしまったのです。
 彼女と公爵は暗い海の中へ落ちました。
 シュプリーは水中で、公爵の姿を探しました。たしかに公爵は彼女のすぐそばを漂っていましたが、恐らく突き飛ばされた時に頭でも打ったのでしょう、気絶しているようで動く気配がありません。
 このままでは公爵が溺れ死んでしまうと思ったシュプリーは、彼を捕まえて水面目指して泳ぎました。ですが、海は酷く荒れている上に、長くて重いスカートが邪魔で思うように泳げません。そうしているうちに彼女まで息苦しくなってきました。必死でもがきながら、シュプリーは初めて海の中で身の危険を感じました。彼女がパニックに陥りかけた時、誰かが彼女の腕を掴みました。
 驚いた彼女が振り返ると、そこには彼女のフィアンセが漂っていました。ソロンは彼女の腕をつかみ、公爵の肩を支えると、イカの足を使って急上昇してゆきました。
 シュプリーがソロンと共に水面に顔を出した時には、二艘の船はいくらか離れたところに見えました。恐らく船から振り落とされたのだろうと思われるゴミや荷物が、彼女達の近くで浮いています。シュプリーは腕を伸ばして樽の一つをつかまえると、ソロンの腕を離してそちらに乗り移りました。
「ほら、言った通りじゃないか。今からでもいいから海に戻ってくるんだ」
 肩で公爵を支えたままのソロンが言いました。しかしシュプリーは答えません。言い返したくても声が出ないからです。彼女が黙ったままでいるので、ソロンは不審そうに眉をしかめました。
「何だ、君はまだ怒ってるのか。あれは、すまなかったと思っている。だから君が船に乗ってるらしいって聞いて、こうして迎えに来たんじゃないか。コンサートも抜け出してきたんだ。明日の朝から君に付き合うから、一度うちへ帰ろう」
 シュプリーは迷いました。彼女は今確かに、この状況に怯えていました。ですが彼女は、自分には公爵を安全に陸まで連れてゆく義務があると考えていました。樽に公爵を引っ掛けて海へ戻るなんて真似はできません。彼女は首を振りました。
 この状態にあっても帰宅を拒否するシュプリーに向かって、今度こそソロンは怪訝そうに彼女を見つめました。
「どうして、」と言いかけたフィアンセに向かって、彼女は理由を説明するつもりで、今ソロンが支えている公爵の頭を指差しました。
 彼女のフィアンセは一瞬自分の隣にある公爵の頭を見、続いてシュプリーの顔を見て、はっと息を呑みました。続いて彼の顔は、彼女が彼を海の底に置き去りにした時よりも青くなりました。
 ソロンは震える唇で呟きました。
「まさか、君は、この、人間と…」
 そこで、シュプリーも彼が何か誤解をしているということに気が付きました。気付いたシュプリーは慌てて彼の方へ腕を伸ばしましたが、完全にショック状態に陥っていたソロンは、彼女のその動作さえも何か別のことと勘違いしたようでした。彼は、嘆きながらも支えていた公爵の身体を離し、差し出されたシュプリーの腕に押し付けました。
「そういうことなら、どうしようもない。いいさ、海の底で君の幸せを願うから…」
 そう言いながら彼女のフィアンセは、顔を両手で覆いつつあっという間に水の中へ沈んでしまいました。
 大きく口を開いて彼の名前を呼んだつもりのシュプリーの声は、やはり音のないまま嵐の風の中に飲まれて消えてしまいました。
 彼女は悲しくなりましたが、やはり公爵を放っておくことはできません。彼女は何とかして公爵の身体を樽の上に凭れさせると、自分もその側にくっついて海の水面を漂うことにしたのでした。



 夜が明けるころには波も収まり、海はいつもの静けさを取り戻していました。
 緩やかな波に揺られつつ、シュプリーがオレンジ色に染まる水平線を力なく眺めていると、彼女の隣でぐったりとしていた公爵から、呻き声があがりました。彼が目を覚ましたのです。
 頭を上げた公爵はしんどそうに左右を見回しましたが、すぐに自分の置かれている状況に気が付いたようでした。
「…私は、助かったんだね…」
 しかし、公爵の表情は決して嬉しそうではありませんでした。彼は船に乗っていた他の人々の心配をしているのだろうと、シュプリーにはすぐにわかりました。
「すまない、こんなことになったのは私のせいなんだ。…君は私を救ってくれたようだけれど…」
 公爵の言葉はゆっくりと萎み、最後には途切れてしまいました。シュプリーは首を振りました。他の人々がどうなったのか今の彼らに知る由はありませんが、ひとまず二人は生きています。二人で力を合わせて泳いでゆけば、何とか岸に辿り着けるのではないかという希望をシュプリーは抱いていました。他の事を考えるのは、それからです。
「ありがとう」と言った公爵は、「しかし、入り江はどっちだろうね」と呟きました。
 さすがに近頃まで海に住んでいたシュプリーには、それはきちんとわかっていました。彼女は振り向くと、入り江の方向へ向かって指を差しました。しかし、そこでシュプリーも公爵も、思わず動きを止めてしまったのです。
 何と彼らが首を回して見た先には、海賊船が浮かんでいました。しかも今度は偽物ではありません。黒地に髑髏の海賊旗を掲げ、大きな船体を持った立派な海賊船です。
 しかも海賊船の帆はいっぱいに広げられ、大きく膨らんで風を孕み、船は二人のいる方向へ向かってすごい速さで進んできます。
 彼らはそれが近付いてくるのを、ただ見つめていることしかできませんでした。

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登場人物紹介

シュプリー


入り江の海の底に住む人魚。

優しい心の持ち主だが、好奇心旺盛で頑固な性格でもある。

声を失う代わりに人間に変身し、陸の上に冒険に出る。

ヘイズリー公爵


入り江の町の領主様。

民を愛する穏やかな青年で、陸に上がってきたばかりのシュプリーを助ける。

巨大商社の搾取から領民を守ろうとし、暗殺されそうになる。

ヴァイオラ船長


海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

なりゆきからシュプリーとヘイズリー公爵を船に乗せることになる。

ゴルトリック卿


巨大商社南インド会社の支社長。

利益のためには手段を選ばず、協力を拒んだヘイズリー公爵に刺客を差し向ける。

一人娘にはかなり嫌われている。

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