第12話:人魚姫は人魚に戻る
文字数 1,982文字
人気のなくなった夜の甲板で、シュプリーは一人、手すりに凭れて暗い水面を見下ろしていました。
海は静かです。その静けさを思う彼女の胸の中には、海の底の世界に対する郷愁が、じんわりとにじみ始めていました。
昼に起こった出来事は、彼女の人間に対する憧れを打ち砕くのに、十分な破壊力を持っていました。
割れる瓶、壁にぶつかって動かなくなってしまった公爵、大男の笑い顔――。彼女は今までそういったもの目前にしたことがなかったために、人間の恐ろしい部分を実感してこなかったのです。
彼女のフィアンセの言っていたことは、やはり半分外れで、しかし半分は正解でした。
シュプリーはまた、彼女と公爵の関係を誤解したまま海へ消えてしまったソロンのことを思い出しても、胸が痛むのを感じました。
それにこのまま船に乗っていれば、再びあの恐ろしい南インド会社の戦艦と闘わなくてはいけません。シュプリーはもう二度と、あの大男には会いたくありませんでした。
彼女が覗き込んだ波の表面に、彼女の頬を伝って落ちた涙の一滴が、しぶきをあげることもなくのみ込まれました。
しかしその時です。一つのひらめきが、彼女の中に降りてきたのです。
ひらめきとは、南インド会社の船からあの大男を降ろし、エンパイア号に勝利をもたらす作戦です。
思い立ったが吉日、彼女はすぐに紙とペンを持ってくると、月明かりを頼りに、彼女が書くことのできる唯一の文字である、人魚の言葉で手紙を書きました。さらにシュプリーは空になったラムの瓶を持ってくると、その中に手紙を入れて灰を詰め、海の中へ放り込みました。
瓶はみるみるうちに黒い海の底へ沈み、その姿はシュプリーには見えなくなりました。
あとは返事がくるのを待つばかりです。
しかも返事は、すぐにやってきました。
暗い海の水面がぶくぶくと泡立ったかと思うと、水の中から白く丸いものが立ち上がりました。それは白い被り物をした、魔法使いのダリーでした。
ダリーの下半身はウツボにあるまじき長さまでにょろにょろと伸びて、魔法使いの上半身はシュプリーと並ぶくらいの高さまで上がってきました。魔法使いはこの時もまた、慇懃に礼をしました。
「こんばんは、お嬢さん。お呼びになりましたか?」
シュプリーは頷きました。
『ダリーさん、何度もお願いしてしまって申し訳ないんだけれど、やっぱり私を海の生き物に戻してほしいの』
もちろんシュプリーの声が出るわけではありませんが、魔法使いには彼女の言葉が聞こえています。ダリーはにんまりと笑いました。
「おやまあ、気変わりの早いお嬢さんですね。何かご事情でも?」
『ええ。色々思うことがあって…ねえ、お願いできるかしら?』
魔法使いは頷きます。
「もちろんですとも。ですがやはり、ここにもルールがあります。…そうやすやすと、色々な人から注文を受けていたらきりがありませんのでね。…ルールをお聞きになりますか?」
妙にもったいぶる魔法使いに対し、シュプリーはぶんぶんと首を縦に振りました。
『どんなルールにも従うわ。だから、一刻も早く私を元に戻してちょうだい』
それを見て、魔法使いは満足げに微笑みました。
「…いいでしょう。貴女がそうまでしても海に戻りたいと思ったからには、何か新しい目的ができたのでしょうね。私は貴女を元に戻します。ですが、貴女が海の底へ戻り、貴女が果たしたいと切望していた望みを果たした時、貴女の人生は終わります。その後に残された貴女のたましいが、代償として私に支払われるからです」
ダリーは一口に説明しましたが、シュプリーが、魔法使いがどんなに恐ろしいことを言っているのか理解した瞬間には、ダリーはどこからともなく取り出した魔法の薬を、シュプリーに振りかけていました。
その途端にシュプリーは全身の力を失い、手摺から身を乗り出すようにしていた彼女の身体は、重心を失って手摺の向こうへ滑り落ちてしまいました。
一気にシュプリーの世界は星空の下から薄暗い海の世界に変わりました。ですが無数の細かい泡も、冷たい水の温度も彼女を恐れさせず、以前のように馴染み深いもののように感じられました。スカートの裾から生えている彼女の足は、すでに魚のひれに変わっていたのです。
不思議なことにダリーの姿はもうそこにありませんでしたが、シュプリーはそのことを疑問には思いませんでした。何と言ってもダリーは魔法使いです。
シュプリーは彼女が交わしてしまった契約の内容を思い出して、身震いしました。
しかしこうなってしまった以上、無駄にできる時間は彼女にはありません。シュプリーは悲しみと怖れを押し殺すと、邪魔になった洋服を脱ぎ捨てました。
そして彼女は、まっしぐらに海の底へ泳いでいきました。
*
海は静かです。その静けさを思う彼女の胸の中には、海の底の世界に対する郷愁が、じんわりとにじみ始めていました。
昼に起こった出来事は、彼女の人間に対する憧れを打ち砕くのに、十分な破壊力を持っていました。
割れる瓶、壁にぶつかって動かなくなってしまった公爵、大男の笑い顔――。彼女は今までそういったもの目前にしたことがなかったために、人間の恐ろしい部分を実感してこなかったのです。
彼女のフィアンセの言っていたことは、やはり半分外れで、しかし半分は正解でした。
シュプリーはまた、彼女と公爵の関係を誤解したまま海へ消えてしまったソロンのことを思い出しても、胸が痛むのを感じました。
それにこのまま船に乗っていれば、再びあの恐ろしい南インド会社の戦艦と闘わなくてはいけません。シュプリーはもう二度と、あの大男には会いたくありませんでした。
彼女が覗き込んだ波の表面に、彼女の頬を伝って落ちた涙の一滴が、しぶきをあげることもなくのみ込まれました。
しかしその時です。一つのひらめきが、彼女の中に降りてきたのです。
ひらめきとは、南インド会社の船からあの大男を降ろし、エンパイア号に勝利をもたらす作戦です。
思い立ったが吉日、彼女はすぐに紙とペンを持ってくると、月明かりを頼りに、彼女が書くことのできる唯一の文字である、人魚の言葉で手紙を書きました。さらにシュプリーは空になったラムの瓶を持ってくると、その中に手紙を入れて灰を詰め、海の中へ放り込みました。
瓶はみるみるうちに黒い海の底へ沈み、その姿はシュプリーには見えなくなりました。
あとは返事がくるのを待つばかりです。
しかも返事は、すぐにやってきました。
暗い海の水面がぶくぶくと泡立ったかと思うと、水の中から白く丸いものが立ち上がりました。それは白い被り物をした、魔法使いのダリーでした。
ダリーの下半身はウツボにあるまじき長さまでにょろにょろと伸びて、魔法使いの上半身はシュプリーと並ぶくらいの高さまで上がってきました。魔法使いはこの時もまた、慇懃に礼をしました。
「こんばんは、お嬢さん。お呼びになりましたか?」
シュプリーは頷きました。
『ダリーさん、何度もお願いしてしまって申し訳ないんだけれど、やっぱり私を海の生き物に戻してほしいの』
もちろんシュプリーの声が出るわけではありませんが、魔法使いには彼女の言葉が聞こえています。ダリーはにんまりと笑いました。
「おやまあ、気変わりの早いお嬢さんですね。何かご事情でも?」
『ええ。色々思うことがあって…ねえ、お願いできるかしら?』
魔法使いは頷きます。
「もちろんですとも。ですがやはり、ここにもルールがあります。…そうやすやすと、色々な人から注文を受けていたらきりがありませんのでね。…ルールをお聞きになりますか?」
妙にもったいぶる魔法使いに対し、シュプリーはぶんぶんと首を縦に振りました。
『どんなルールにも従うわ。だから、一刻も早く私を元に戻してちょうだい』
それを見て、魔法使いは満足げに微笑みました。
「…いいでしょう。貴女がそうまでしても海に戻りたいと思ったからには、何か新しい目的ができたのでしょうね。私は貴女を元に戻します。ですが、貴女が海の底へ戻り、貴女が果たしたいと切望していた望みを果たした時、貴女の人生は終わります。その後に残された貴女のたましいが、代償として私に支払われるからです」
ダリーは一口に説明しましたが、シュプリーが、魔法使いがどんなに恐ろしいことを言っているのか理解した瞬間には、ダリーはどこからともなく取り出した魔法の薬を、シュプリーに振りかけていました。
その途端にシュプリーは全身の力を失い、手摺から身を乗り出すようにしていた彼女の身体は、重心を失って手摺の向こうへ滑り落ちてしまいました。
一気にシュプリーの世界は星空の下から薄暗い海の世界に変わりました。ですが無数の細かい泡も、冷たい水の温度も彼女を恐れさせず、以前のように馴染み深いもののように感じられました。スカートの裾から生えている彼女の足は、すでに魚のひれに変わっていたのです。
不思議なことにダリーの姿はもうそこにありませんでしたが、シュプリーはそのことを疑問には思いませんでした。何と言ってもダリーは魔法使いです。
シュプリーは彼女が交わしてしまった契約の内容を思い出して、身震いしました。
しかしこうなってしまった以上、無駄にできる時間は彼女にはありません。シュプリーは悲しみと怖れを押し殺すと、邪魔になった洋服を脱ぎ捨てました。
そして彼女は、まっしぐらに海の底へ泳いでいきました。
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