老舗旅館殺人事件②

文字数 2,303文字

「……五月雨さん」
「何ですか?」
「わしとしゃべっていかへんか?」
「やることあるんで失礼します」
「ちょっとだけでええから」
 立ち上がろうとした女将の肩に手を回す。
「やめてください!」
 部屋の扉が開き、迫田が戻ってきた。足早に女将が横を抜けて出ていく。
「……羊羹をお持ちしました」
「ありがと」
 テーブルの上にあった湯飲みの横に、羊羹を乗せた小皿が置かれる。迫田が部屋を出た後、一人になった権堂は頭を抱えた。
「やりすぎたかな……」
 そうつぶやいてから羊羹に目を向け、足を踏み出す。一瞬フラッとするとテーブルに膝をぶつけ、湯飲みが倒れた。中に入っていたウイスキーがこぼれる。
「しもた」
 権堂は慌てて帯に挟んでいたハンカチで拭いた。

 配膳室に迫田が戻ると、女将が流し台でコップに入れた水を飲んでいた。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
「……あの客、私に抱きつこうとしてきた」
「少し酔ってらしたみたいですね」
「警察を呼んでください」
「えっ、警察?」
「セクハラ人間は許せない」
「あ、あの、抱きつこうとしてきたのですよね? 抱きつかれたわけじゃないのですよね?」
「どっちだっていいんです。精神が腐ってるんですし」
「警察を呼ぶなら、どっちだっていいことはないですよ」
「迫田さん、あなたはそんなことされないから分からないんですよ」
「……」
「警察に電話するのが面倒だから、うやむやにしようとしてるんじゃないですか?」
「……分かりました。電話します」
「私は部屋に戻ってますので」
 女将が配膳室から出る。迫田は下を向き、歯を食い縛った。

 四階の一室に入った女将は、扉を閉めると、すぐに鍵を掛けた。スリッパを脱ぎ、十畳の部屋に上がる。畳の上にあるスマホを手に取り、バッテリーが満タンになっているのを確認すると、延長コードから充電ケーブルを外した。側に置いていたハンドバッグにケーブルをしまう。
 畳んだ布団にもたれながらスマホをいじる。メッセージやSNSを確認した後、ウェブサービスで天気予報を見ると、台風の雲が近畿を覆っていたが、翌日は晴れのマークになっていた。
 扉がノックされる。スマホを置き、鍵を外して扉を開けると、迫田がいた。
「どうでした?」
「それが、大変なんです。台風で土砂崩れが起こったらしく、ここへ来るまでの道が塞がれて、警察は来れないそうなんです」
「そうなんですか。それは大変ですね……」
「どうします?」
「仕方ないです。このことはもういいです。ありがとうございました」
 そう伝えると女将は扉を閉め、また鍵を掛けた。

 暴風雨にさらされ、木々が猛烈に揺れる。近くを流れる桂川(かつらがわ)は、折り重なる無数の蛇のように勢いを増し、驚異的に水位が上昇していた。電柱でさえも必死で踏ん張り、何とか立って電気を供給している状態だ。もはや旅館から出ることも入ることもできず、完全に外部と遮断された。

 厨房にいる千場宏(せんばひろし)が壁のアナログ時計に目をやる。20時57分。180センチ近くある体を曲げ、来月の予約が書き込まれたカレンダーに視線を落とす。仕込みを終え、時間を潰す方法を考える。
 すると突然、扉が開いた。そこには呼吸を乱し、目を見開いたままの迫田がいた。
「び、びっくりした。どうしたん?」
「女将さんが……死んでます」

 千場が人工呼吸と心臓マッサージを繰り返す。だが、女将は息を吹き返さない。部屋の扉が開き、迫田が戻ってきた。
「やっぱり、救急車は無理でした。ヘリコプターも他の所に行っているそうで……」
「アカンわ。なんぼやっても無理や」
 ため息をつき、千場は横たわる女将から手を離した。
「……恐ろしい話やけど、これ、誰かに殺されたのやと思う」
「殺人ってことですか」
「首に紐で巻かれたような跡があるし。その、お客様とトラブルがあったって、具体的に何があったん?」
「見たわけではないのですけど、女将さんの話では抱きつかれそうになったらしくて……」
「その客の行動がエスカレートしたってこともありえるか……ちょっと、その客に話を聞いてみよか」
 二人は部屋を出て、鍵を掛け、階段に向かった。

 テレビを見ていると、扉を叩く音が聞こえ、布団の上にいた権堂は上半身を起こした。帯を締め直して、扉に向かう。ゆっくり開けると、背の高いスポーツマンのような男性の姿が見え、目が合った。
「厨房の千場と申します」
「はい、こんばんは……」
「突然で申し訳ございませんが、お話がありますので、中でよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
 スリッパを脱ぎ、千場と迫田が部屋に上がる。
「その辺に座ってください……って、わしが言うのも変か」
 千場はテーブルの上にあったリモコンを手に取ってテレビを消し、畳の上に正座した。その隣に迫田も座り、二人の前にかしこまって権堂も正座する。
「実は、女将の五月雨が亡くなっておりまして……どうやら殺されたみたいなんですよ」
「……」
「あんまり驚かれないのですね」
 迫田が言った。
「いや、心の中では驚いてんねんで。冷静に話聞こと思て……」
「それで、女将について何か知っていることはございませんか?」
「いや、特に、何も……何も知りません」
「女将に抱きつこうとされたとの話があるのですが」
「ちょっと肩に手回しただけで、不愉快そうやったから謝りましたねん」
「それが許してもらえず、逆上してしまったとかでは?」
「……」
「あなたが女将を殺害したのですか?」
「……」
「本来であれば警察に通報するところなのですが、台風で来れなくなってしまっていますので一晩、押し入れに入ってもらいます」
 千場と迫田が立ち上がると、権堂も黙って腰を上げ、二人に連れられて部屋を出ていった。
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