老舗旅館殺人事件③

文字数 3,048文字

 愛の間の扉が開く。スリッパを履いた椥辻はトイレに向かった。隣の夢の間に目が行く。扉に隙間があったが、光が漏れていない。立ち止まって、耳を澄ませる。部屋から物音は聞こえない。不審に思ったが、そのまま歩き出し、配膳室を通り過ぎて、隣の男子トイレに入った。
 用を済ませて出ると、階段から足音が聞こえてきた。椥辻は来た道を戻らず、回廊を時計回りに進み、階段の前で上がってきた水樹と出くわした。
「あっ、こんばんは」
「あの、隣の権堂さん、いないみたいなんですけど、どこかに行かれたんですか?」
「……」
「何かあったんですか?」
「女将さんが……殺されたそうなんです」
「殺された?」
 唐突なことに椥辻が聞き直すと、水樹が悲しげに頷いた。
「もしかして、権堂さんが警察に捕まったんですか?」
「いえ、台風で土砂崩れが起きて、警察は来れなかったらしいんですけど……」
「けど?」
「権堂さんが捕まったのは合ってます」
「どこにいるんですか?」
「押し入れに閉じ込められてるみたいです」
 水樹の情報は聞かされたことばかりだった。
「遺体を見せてもらえないですか?」
「見て分かるんですか?」
「まあまあ分かります。警察の科学捜査ほどじゃないですけど」
 水樹の後について、階段を上がる。四階に着き、部屋の前に案内された。
「ここが女将さんが泊まってる部屋なんですけど……」
 水樹が扉に手を掛け、横にスライドさせようとするが動かない。ポケットからマスターキーを取り出し、鍵穴に入れて回す。扉が開き、水樹が電気を点けた。
 顔に布を掛けられた女性が、両腕を伸ばしてまっすぐ仰向けに倒れている。すぐに首の跡に気づくと、椥辻は布をつまんで少し持ち上げ、女将であることを確認した。
「遺体に触ってます?」
「心臓マッサージしたとか言ってた気がします」
「誰がですか?」
「千場さんです。厨房の」
 椥辻はまだ会ったことがなかった。遺体から離れ、部屋の隅にあるコンセントの方に行く。
「そのコードで首を絞められたんですか?」
 水樹が尋ねた。
「首にある跡と太さがだいたい同じですので、これが凶器になった可能性はありますね」
 説明しながら1メートルの延長コードに顔を近づける。一瞬、動きが止まった後、鼻を近づけたままコードの先まで顔を動かしていった。
「何か分かりました?」
「いえ、せっかく入れてもらったんですけど……逆にこの状況から権堂さんが犯人って、よく断定できましたね」
「私も今初めて見ましたんで、何が証拠になったとか分からないですけど、ただ……」
「ただ?」
「女将さん、この部屋にいる時はいつも鍵を掛けてるんです」
「ここに住んでるとかですか?」
「いえ、忙しい時期はここにもお客様が入りますから。いっつも夏から秋頃まで、クーラー代の節約だそうです」
「なるほど」
「それで……あれ? 何の話だっけ……」
「いつも鍵を掛けてるって話ですか」
「ああ、そうです」
「犯人はマスターキーを持ってる旅館の従業員ってことですか?」
「そうです、そういうことです」
「中に入るのは難しくないでしょう。後をつけられたのかもしれません。階段の足音で誰かって分かりますんで」
「そうなんですか?」
「従業員はそれぞれ違うスリッパを履いてますんで分かりやすいです」
「言われてみれば、確かに私も他の人の分かります」
「そうでしょ。それと女将さんって、お酒飲まれます?」
「いえ、全然。一緒に飲みに行ってもカクテルを一杯くらいで、しかもゆっくり飲んでます」
「分かりました」
「何か関係あるんですか?」
「ちょっと聞いてみただけです。権堂さんの話も聞いてみたいんですけど、いいですか?」
「はい、私も気になりますし」
 部屋に鍵を掛け、二人は四階を後にした。

 二階に戻った椥辻と水樹が、西側にある大部屋に入る。押し入れに足を運ぶと、スースーと寝息が聞こえてきた。南京錠が掛かっていて、(ふすま)は開かない。椥辻は軽くノックした。
「……誰や?」
「椥辻です」
「出してえな。ほこりっぽくてたまらん」
「ボク、鍵持ってないんで無理です。女将さんのことについて聞かせてほしいんですけど」
「あれはやな、わしが女将さんの部屋に行った時には、もうすでに死んでたんや」
「そうなんですか。じゃあ、権堂さんが第一発見者で、旅館の従業員に知らせたんですか?」
「いや……女将さんにいらんことしてもうて、自分が疑われるんやないかって思て、怖くなって何も言えへんかった」
「いらんことって何ですか?」
「女将さん、わしのタイプで、ちょっと肩に手回して、二の腕辺りを触ってもうてん」
「それだけですか?」
「それだけやで。胸とか触ってへんで」
「で、権堂さんが第一発見者なんですか?」
「そうや」
「……」
 急に黙った椥辻に水樹が視線を向けた。話を再開する。
「何の用で女将さんの部屋に行ったんですか?」
「電話で呼び出されたんや、話があるって。ただ、今から思えば女将さんの声やなかったかもしれへん」
「女性の声ですよね?」
「女性は女性やで。電話やと誰かまで断定でけへん」
「分かりました。ボクの推理が合ってるなら、権堂さん……」
「な、何や?」
「女将さんに会うために、将棋をしたんじゃないですか。取り引きだけなら街中のカフェとかでいいのに、旅館にするための口実ですね。それに宿泊費も仕事なら経費で落ちますから」
「……そんなとこや」
「とにかく権堂さんは犯人じゃないんですよね?」
「ちゃう。わしやない」
「旅館の従業員と話してみますんで」
「頼んます」
 椥辻と水樹は大部屋を出た。

 台風に煽られる不気味なイルミネーションを見ながらロビーで待っていると、厨房の扉が開き、水樹が千場を連れて出てきた。
「厨房の千場と申します」
「椥辻と申します」
 千場が軽々とソファチェアを移動させ、対面になって腰を下ろす。
「女将さんの件ですね。お伺いします」
「単刀直入にお尋ねしますが、権堂さんが犯人だという証拠はあったんですか?」
「証拠ですか……警察ではないですので、なかなかそこまでは」
「じゃあ、何を根拠に捕まえたんですか?」
「違うとはおっしゃられませんでした。押し入れに入っていただくことも、何も言わずに従っていただけましたので」
「権藤さんは『怖くなって何も言えへんかった』と言ってますが……」
 千場が苦笑いする。
「子供やないのですから、違うならはっきり言ってもらわないと」
「とにかく権堂さんを犯人にするだけの証拠もなければ、根拠も乏しいと思いますので、権堂さんを解放すべきでしょう」
「……ちなみに犯人の見当はついておられるのですか?」
「さあ、分かんないです」
 千場はポケットに手を入れると、鍵を取り出して水樹に渡した。
「こちらでもう一度、館内に誰かいないか調べてみます。今晩はトイレ以外もう部屋から出ないようにしてください」
 椥辻は頷き、水樹と再び二階に向かった。

 カチャっと南京錠が外れ、椥辻が襖を開ける。立ち上がって待っていた権堂の顔から笑みが漏れた。
「ありがとさん。犯人は捕まった?」
「いえ、証拠がないということで、とりあえず解放してもらいました」
「そうか。トイレ行ってくるわ」
 そう言って権堂が大部屋を出ていく。水樹の視線が椥辻に向いた。
「私、犯人が分かったかも……」
「警察に任せた方がいいですよ」
「……」
 不安そうな表情を水樹が見せる。
「一人じゃ怖いから、今晩はあなたの部屋で……」
 そう言われれば椥辻は応じるつもりだったが、そんなことは言ってこなかった。大部屋を出ると、水樹は階段を上がっていった。
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