居酒屋殺人事件②

文字数 2,545文字

 黒光りの車が止まり、後部座席に椥辻が乗り込む。ビジネスバッグからA4の封筒を取り出し、運転席と助手席の間から町子に手渡した。報告書が入ったその封筒の中から、さらに小さな封筒を取り出す。中には紙幣と硬貨が入っていた。
「これが給料?」
「はい、そうです」
「ちゃんとあった?」
「タイムカードの計算は合ってましたけど、遅刻を一回して、ジョッキも一回割ってますので、千円引かれてます」
「その罰金は違反の可能性があるわね」
「着替える時間は入ってませんでしたし、22時以降の25パーセント以上の割り増し賃金もありませんでした」
「それは違反ね」
「はい、労働基準法第37条の第4項に違反してます。あと、6時間以上働いてるのに45分の休憩はありませんでした。これは労働基準法第34条の第1項に違反してます。そもそも契約書を交わしてませんし、労働条件通知書もありませんでした。労働基準法第15条に違反してます。店長と厨房リーダー、バイトリーダーについては、法定休日4週間で4日以上も守られてなく、36協定の上限の月45時間も超えてます。おそらく有休や労災もないでしょう。リーダー以外アルバイトは全員学生か外国人でしたので、法律を意識して働いてはいないと思います。ちなみに自動火災報知器もありませんでしたので、消防法にも違反してます。これだけ違反してますので、ブラック企業確定です。この会社は犯罪組織です」
「……報告書を見ておくわ。任務はこれで完了ね。お疲れ様」
 封筒を助手席に置き、車が動き出す。ブラック企業をつぶしたいという破壊的な衝動を椥辻は押し殺した。どのような措置が取られるかについては、椥辻の知るところではない。
 余計なことは考えず、椥辻は辞めるタイミングを考えた。法律でブラック企業と批判する以上、自身も法律を守らなければならない。民法の第627条に基づくと、退職は二週間前には伝えなければならなかったが、そもそも契約を交わしていないので、突然辞めても法律違反になる可能性は低い。ただ、自分の中にある最低限のマナーは守ることにしていた。

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
 いつも通りの笑顔で、持田店長が最後の客を見送る。気がつけば日付が変わっていた。厨房から出てきた椥辻がテーブル席に行き、汚れた食器を重ねて持っていく。これを洗い終えれば今日の仕事は終わりだろうと思い、辞めることを伝える心の準備をした。
 ガタガタッ……背後から不自然な音が聞こえた。振り返るとテーブル席に手を掛けながら、持田店長がうずくまっている。食器をカウンター席に置き、椥辻が駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「……」
 持田店長は顔を上げず、頭を押さえていた。異変に気づいた佐位も厨房から出てくる。
「何だ?」
「店長が……」
「大丈夫」
 弱々しい声で言いながら立ち上がると、持っていたダスターでテーブルを拭き始めた。佐位が舌打ちをする。
「こっちだって倒れそうなんだから、自分だけ甘えて迷惑かけんなよ」
「そんな言い方はないでしょう」
 椥辻の言葉に反応せず、佐位は厨房に引っ込んだ。
 結局、持田店長は一週間休むことになった。
 
「ありがとございまーした。まーたお越しくださいませー」
 バイトリーダーの湊光一朗(みなとこういちろう)が独特のイントネーションで団体客を見送る。ラストオーダーになる午後11時半を過ぎ、店内に客はいなくなった。玄関のドアを閉め、厨房に足を進める。
「将軍、座敷の下げ物を手伝って」
「了解です」
 冷蔵庫を見ながらボールペンで発注書に数量を記入する佐位を尻目に、椥辻が厨房を出て奥の座敷に向かう。扉を開けると入って二週間の新人、馬場井久美(ばばいくみ)が戸惑いながら食器を重ねていた。
「まずグラスを集めて、残り物はその大きなお皿に入れて、それから同じ種類の食器を重ねましょうか」
 椥辻が指示すると、馬場井の動きが速くなった。

 下げ物を厨房に運んできた椥辻が、スポンジを手に洗い始める。
「それ終わったら上がっていいから、とっとと洗え」
「……はい」
 目を合わさずに返事をする。舌打ちをして、佐位がお茶の入った湯のみを手に取った。
「……うん?」
 そばにあった流し台に湯のみを落とし、両手を着いて吐き出す。異変に気づいた椥辻が駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「な、何か入れやがったな……」
「ボクは何もしてないです」
 手が離れた途端フラつき、椥辻が体を支える。佐位の口からはアーモンド臭と表現される匂いがした。厨房の近くにいた湊と目が合う。
「湊さん!」
 椥辻が呼ぶと湊が厨房に入ってきた。
「どうした?」
「佐位さんが青酸カリを飲んだみたいです」
「……それは大変だ」
「救急車を呼んでください」
「分かった」
 湊が背を向け、レジに行く。椥辻は佐位の左腕を自分の肩に回し、無理やり歩かせながら再び座敷に向かった。勢いよく扉を開けると、そこには作務衣(さむえ)を脱いで下着姿の馬場井がいた。
「きゃっー!!」
「ごめんなさい……」
 目を背けて座敷に上がり、隅に積まれた座布団の上に頭が来るように佐位を寝かせる。
「ど、どうしたんですか?」
 素早く服に体を通し、袖や裾を整えながら馬場井が尋ねた。
「青酸カリを飲んだみたいです」
「青酸カリ? 何ですか、それ」
「一言で言えば毒です」
「ど、毒?」
 馬場井が目をパチパチさせた。佐位は呼吸が乱れ、苦しそうに息をしている。そこへ湊が来て、横になっている佐位に気づいた。
「状態はどうだ?」
「ヤバそうです。救急車は?」
「それが……電話がつながらない」
 椥辻は耳を疑った。
「誰も出ないってことですか?」
「いや、電話が使えないんだ」
「スマホは?」
「なくなってる」
「なくなって……湊さん、自分のスマホ持ってないんですか?」
「俺のもみんなのと一緒に袋に入れてて、その袋がなくなってて……」
「じゃあ、もう外に行って近くの店に頼むしか」
「それが、シャッターが下りて外に出られないんだ」
「……」
「私たち、帰れないんですか?」
 馬場井が尋ねると、湊がうなずいた。
「二人はスマホを探してくれ。店のどこかにあるはずだ。俺は電話を調べる」
 そう指示して湊はレジに戻り、馬場井はトイレに行った。今店内にいるのは佐位を含め四人。犯人の目星が付いていた椥辻はレジに足を向けた。
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