老舗旅館殺人事件①

文字数 2,571文字

 ソファチェアにもたれながら松の植えられた中庭を眺める。ふと街中の六角堂(ろっかくどう)が見えるカフェを思い出した。椥辻のいる旅館は嵐山(あらしやま)からタクシーに乗り、山の一本道を二十分ほど(のぼ)った所にある。ギリギリ京都市内にもかかわらず、随分と遠くまで来たように感じさせられた。
「こんばんは」
 声を掛けられ、振り向く。童顔の女将(おかみ)五月雨夕子(さみだれゆうこ)がいた。
「どうかしました? 体調でも悪いとか?」
「いえ、大丈夫です。対局中の休憩です」
「対局? 何してるんですか?」
「将棋です。仕事で巻き物を手に入れないといけないんですが、将棋で勝ったら売ってくれるという妙な条件でして……」
 今回の任務は入場者の少ない博物館のために、珍しい展示品を集めてくることだった。
「将棋が終わったら帰るんですか?」
「はい、そのつもりです」
「今から帰ったら危ないんで、泊まります?」
 天気予報は夜に大型の台風が近畿を直撃すると報じていた。
「今晩キャンセル多くて、食材が余って困ってるんです。ちょうど一万円でいいんで」
 そう言いながら女将が体を近づける。雑に着付けられた着物の間から胸の谷間が見えた。
「普段でしたら、いくらなんですか?」
「二万円」
 即答され、適当に答えられた気がする。
「……分かりました。泊まることにします」
「ありがとう。助かります。海老(えび)とか(かに)とか、アレルギーはないですか?」
「特にないんで大丈夫です」
「時間は6時半とかでいいですか?」
「それでいいです」
「じゃあ、鍵持ってきますんで。あと、今晩は宿泊客は二階までになってますので、三階より上には行かないでくださいね」
「分かりました」
 ハートマークの入ったスリッパを引きずるように、女将がフロントに足を向ける。中庭に視線を戻すと、松に巻かれたイルミネーションが光り出していた。

 西山をバックに東側が正面になる四階建てのこの旅館は、中庭があるため回廊になっていた。
 ペタペタとスリッパの音を立てながら、椥辻が北側にある階段を上がる。二階に戻ると時計回りに進み、東側に並ぶ三部屋の奥の角に位置する夢の間に行った。
 横開きの扉をノックして開ける。スリッパを脱いで上がると、部屋にはあぐらをかきながら将棋盤を見つめる腹の出た角刈りの男性がいた。大阪の古美術商、権堂陽二(ごんどうようじ)である。膝元にはスルメイカの袋が広げられ、ウイスキーのボトルが置かれていた。
 テーブルの上の高級腕時計に思わず目が行く。対局が始まる前に権堂が外して置いた物だ。椥辻は権堂の前に腰を下ろし、盤を確認する。
「……まだ行ってないんですか」
()かさんといてや」
「さっき泊まることにしましたんで」
「そうなんや。ほな封じ手にしよか」
「いいです。一晩考えてください」
「ええんか? 悪いな。ほな、今の状態メモっとこ。何か書くもんないかな……」
 椥辻がポケットからスマホを取り出す。
「撮っときましょ」
「賢いな」
 カシャっと音がして「撮りました」と伝えると、権堂は駒を鷲掴みにして箱に戻し始めた。
 夢の間を後にした椥辻は隣に行く。泊まる部屋の名前は愛の間だった。

 窓はずっとガタガタ揺れている。外が暗くなり、バチバチと雨が打ちつけ始め、椥辻はカーテンを閉めた。
 スマホで時刻を確認すると『18:29』。その数字が変わると同時に、扉をノックする音が聞こえた。返事をして開けに行くと、メガネを掛けた水樹由愛(みずきゆあ)がいた。
「お食事の用意に参りました」
「お願いします」
 水玉模様のスリッパを脱ぎ、水樹が畳の上に上がる。テーブルを拭き、料理を乗せたトレイを運んできた。刺身、天ぷら、湯豆腐、モンブラン……仲間外れがいる。テキパキと小動物のように動き、チャッカマンで湯豆腐を入れた鍋の下にある固形燃料に火を点けた。
「どちらから来られたんですか?」
 ご飯をお(ひつ)からよそいながら尋ねる。
「京都です」
「地元なんですね。旅行じゃなく?」
「ビジネスです。隣の宿泊客に用がありまして」
「それで泊まることに。女将さんに言いくるめられました?」
「……そんなとこです」
 曇ったメガネをハンカチで拭き、急須(きゅうす)からお茶を入れる。
「今日は宿泊客は少ないみたいですね」
「二人だけです」
「ボクを含めてですか?」
「はい。今日は従業員の方が多いんです」
 水樹が笑みを見せると、湯豆腐が沸騰してきた。
「明日の朝食は何時に致します?」
「じゃあ、もう一人の宿泊客と同じ時間にしてください」
「かしこまりました。食事が終わりましたら、そちらの電話でご連絡ください。ごゆっくり、どうぞ」
 水樹が部屋を出ていく。視線を料理に戻し、またモンブランに違和感を覚えた後、情緒のない雨風の音を聞きながら一人で食べ始める。部屋の名前が愛の間ということを思うと余計に寂しくなった。

 二階の南側にある配膳室で、仲居の迫田純麗(さこたすみれ)がスマホをいじる。電話が鳴ると、スマホをポケットに戻し、受話器に手を伸ばした。
「はい、二階です」
「食事終わりました」
 権堂の声だった。
「かしこまりました。下げに伺います」
 そう伝え、配膳室から出る。
「迫田さん」
 突然、背後から声を掛けられ、体がビクッとなる。振り返ると女将がいた。
「モンブラン出しました?」
「……今晩のメニューだと、モンブランは合わないと思いますので」
「勝手に自分で判断しないでください。お客様に要るか要らないか聞いてください」
「すみません」
 権堂のいる夢の間は配膳室の隣だが、女将はこの場に留まっている。
「あの、私一人で……」
「手伝います」
 監視されながら迫田が扉をノックする。返事の後に扉が開くと、顔が赤くなった浴衣姿の権堂が見えた。
「お食事のお片付けをさせていただきます」
 丁寧に言い、部屋に入る。迫田の後ろに女将がいることに気づき、権堂の顔がほころんだ。
「あ、あの、デザートにモンブランはいかがでしょう?」
「モンブランって何や?」
「フランスのお菓子になるのですが……」
羊羹(ようかん)みたいなんがええけどな」
「羊羹ですか。少々お待ちください」
 迫田が部屋を出る。空いた皿を乗せたトレイを運び出し、黙々とテーブルを拭く女将を見て、権堂がソワソワし始めた。女将の顔が権堂の方を向く。
「お布団の用意、よろしいですか?」
「よ、よろしいです。どうぞ、お願いします」
 (ふすま)を開け、布団を出してくる。すぐに用意が終わると、権堂は屈んで枕を整える女将の横に行った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み