第13話:東日本大震災と灯油不足

文字数 1,521文字

 その後も3月11日に福島県沖で2回、その他、茨城県沖、岩手県沖で合計4回の震度5弱から6強、マグニチュード6~7.6の地震が連続して起きた。東日本大震災でマグニチュード9.0と発表された東北地方太平洋沖地震は国内観測史上最大の地震となり、宮城県栗原市では震度7を記録した。太平洋プレートと北アメリカプレートの境界で起こったこの海溝型地震だった。

 その震源域が岩手県沖から茨城県沖までのおよそ南北500キロ、東西200キロという広大なものであり、これまで想定されていた地震の規模を大きく上回る巨大地震だった。地震に伴って発生した大津波は、北海道から関東の太平洋沿岸へ押し寄せ、漁船、港湾施設、さらに住宅地や農地を呑み込み、大きな被害をもたらした。

 死者と行方不明者の合計は2万5949人で関東大震災の10万5千人に次ぐ2位となった。また、津波により冠水した面積は宮城県、福島県など6県で561平方キロ「山手線の内側面積の約9倍」におよぶとみられた。多くの尊い命とともに家屋や産業に大きな傷跡を残した東日本大震災の被害規模は、16兆~25兆円にのぼると政府は試算した。

 最高震度7を記録した今回の地震の震源地は三陸沖だが震源域は南北に約5百キロ、東西に約2百キロの広い範囲で余震の多くがこのエリアを震源とした。特にJXエネルギー仙台製油所の炎上が致命的だった。しかし、ガソリンがなければ生活物資を運ぶことも、地域住民が生活をしていくことも出来なる。そのため、燃料輸送が最優先課題として挙げられた。

 2011年3月中旬の東北は寒く、石油がないと生きていけないと言われるほどであった。それにもかかわらず、東日本大震災で東北高速道路が通れず、東北本線、常磐線なの東北を北上する鉄路も使えない状況であった。そのため、東北のガソリンスタンドに残っている石油がなくなると寒さにより命の危険性すらあった。特に高齢の人達にとっては、まさに死活問題だった。

 そこで、大宮から上越国境を越えて日本海側を通り青森から盛岡まで南下するルートが選ばれた。石油輸送・タンク貨車の走行実績こそなかったものの、上越国境越えも日本海縦貫線も貨物列車の大動脈であった。政府からの要請から3日、震災からわずか一週間という異例のスピードでこのルートでの運行開始を達成した。1030キロもの長距離貨物列車は、丸一日以上かけて盛岡まで運行された。

 日本海側をぐるっと回るルートで北東北側への輸送経路をひとまず確保したが南東北側については既存のJR貨物の輸送網ではカバーが出来ない。そのため、新潟から郡山までの磐越西線を使おうと考えた。しかし、磐越西線の線路に破損個所が多かった。2007年、以来、貨物列車が走行していないために線路が耐えられる保線レベルを維持しているかは、JR東日本、次第であった。

 そのため、優先順位が高くなかった磐越西線の復旧を最優先として、新潟から郡山までの鉄路を繋ぐこととなった。鉄路の保線にあたったJR東日本・郡山保線技術センターや関連会社人々も東日本大震災の被害者だった。それでもなお、使命に燃えた保線屋魂で余震が続くなかでの作業が続けられた。そのための代替案として選出されたのが磐越西線だった。

 しかし、日本海側と太平洋側でそれぞれ縦の動脈が走っているが、それらを繋ぐ需要がないので、すでに営業免許も走れる機関車も運転できる機関士も何もかもが、なかった。磐越西線ルートを選出されたが機関車として選出されたDD51形ディーゼル機関車。以前、東新潟機関区に配置されていた機関車たちは既に転属していた。しかし、全国各地のDD51形ディーゼル機関車に余剰が出ていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み