第4話:株投資と彼女ができた?!

文字数 1,697文字

 1990年が明けると和泉智則は2月11日に誕生日を迎えた。2月13日、お年玉、競馬の賞金、父からの援助金など、総合計360万円持っていた。そこで、1990年2月13日、横浜駅近くのN証券で証券口座を開いた。そして、300万円を入金した。その後、毎月N証券で開かれる土曜勉強会に参加し株投資の勉強を開始した。

 その勉強会で今後、パーソナルコンピューター時代が到来し、個人が、それぞれパソコンを使う時代が来ると言われた。そのパソコンに使われている。半導体メーカー、ソフトウェア企業の株が成長すると思われると証券会社の投資担当者の意見が発表された。その意見を聞いて和泉智則は、なるほどと納得した。その後、半導体株として中堅の東京精密株に注目した。

 1990年3月26日、黒澤明監督、第62回アカデミー賞、特別名誉賞を受賞した。その電話で半導体株の東京精密株の気配値が670円と安いと言われた。そこで4千株成り行き買い注文を出すと268万円で買え、残金が32万円となった。その後、10月1日、東証株価、2万円を割った。1989年12月29日の史上最高値3万8915円から9カ月で約半減した。

 日本の株式市場の時価総額が世界一の590兆円から319兆円に減少し、日本のバブル経済が崩壊した。4月1日、三井、太陽神戸の両銀行が合併して太陽神戸三井銀行が発足した。その後、1992年4月、さくら銀行に改称した。4月になると和泉智則は、父、和泉秀一に実家に帰るように言われた。そして、東京目黒の実家に帰ると父が横浜の農協の有力者の鮫島勘吉さんを探してくれた。

 その後、和泉智則は鮫島勘吉さんに面会した。すると横浜市の金沢農協で働かないかと言われた。そこで、仕事の内容はと聞くと最初は電話番で聞いたことを上司に伝える仕事。農協に来る陳情者の内容を聞いたりする仕事だと言われた。その他、農家で昼様な品物を希望する農家へ届けてもらう仕事もになって欲しいと言われた。運転免許持っていなければ早急にとって欲しいと言われた。

 それを聞き了解ですと答え和泉智則は5月から自動車学校に通い出した。1989年6月23日二俣川の運転免許試験場で免許試験を受けが合格し免許証を手にした。その話を和泉智則が、父、和泉秀一に普通免許を取ったと伝えると東京であまり使っていないカローラ・ワゴンをお前にやろうと言ってくれた。その週の土曜、和泉智則が東京目黒の実家へ行きカローラ・ワゴンをもらい逗子に乗ってきた。

 その後、金沢農協で農協のトラックで電話番と肥料や農協に必要な資材の運搬もするようになった。1989年6月29日、天皇の次男、礼宮文仁親王と川嶋紀子が結婚して秋篠宮家を創設した。11月12日、天皇が即位の礼で即位を宣言し、158ヶ国・2国際機関の代表が出席した。12月20日、1989年の世界各国の海外直接投資額は1979億ドルとなった。

 その結果、日本の441億ドルが英米を抜いて世界一になった。1991年が明けると以前から金沢農協の経理をしている佐竹仁美さんと親しくなった。そして、好きな映画のジャンルが似ているので一緒に映画を見るようになった。1月17日、米軍を主体にペルシャ湾岸地域に展開する多国籍軍がイラク軍に攻撃開始した。この作戦は、「砂漠の嵐作戦」と命名され、湾岸戦争始まった。

 海部俊樹首相が「確固たる支持」を表明。映画の中でもバック・トゥ・ザ・フューチャーは、最初の作品を見た後、バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡを見た。その他、インディ・ジョーンズも気に入っていた。こうして親しくなった佐竹仁美さんに和泉智則が一緒にならないかとプロポーズした。それを聞き同じ年の和泉に親近感を感じた仁美さんが結婚を了解した。

 その後、5月の連休に和泉智則は佐竹仁美さんの実家へ行きたいと伝えた。すると5月3日の14時に来て下さいと言われた。そこで、和泉智則が金沢区六浦の佐竹さんの実家を訪ねた。佐竹さんの実家は、古くからの農家であった。そして、和泉は持参したお菓子を佐竹さんのお母さんに手渡した。すると、ご丁寧と御礼を言った。
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