第1話:良家の末っ子の幼少期

文字数 1,526文字

 和泉智則は、日本舞踊の名門・和泉家の出身で3人兄弟の末っ子として1970年2月11日、東京目黒区の豪邸に生まれた。しかし、生まれて、物心つく頃になると、完璧主義、几帳面できちんと挨拶ができる良い子に育った。ところが、不眠や体調不良を訴えて、寝込んでしまった。小児科を受診しても神経質なだけですよ言われるばかりだった。

 そこで、大学病院で脳の精密検査をしても腫瘍も脳内の奇形もないと診断された。幼稚園に通い始めても気になると登園拒否をして自分の部屋のベッドにもぐりこんだ。それでも世間体もあり小学校、中学校は、欠席が多かったが何とか卒業できた。高校には、とても通えないと本人からの訴えがあり通信高校講座を選択した。しかし、悪い事ばかりではなく、計算が早く、記憶力、洞察力に優れていた。

 その分、感受性も強く、親は手を焼いた。仕方なく中学を卒業すると和泉家の葉山の別荘で管理人さんと3人で住むようになった。その管理人さんの池住利信さんと奥さんの池住早苗さんは、優しい人で、子供もいなかったので和泉智則をまるで我が子の様に可愛がった。池住利信さんは、競馬が好きで、土日は、ラジオで必ずと言って良いほど競馬放送を聞いていた。たまに賭けることもあった。

 しかし、なかなか当てることができずに、すってばかりで、上限金額を決めて競馬をした。そんな、ある日、池住利信さんが和泉智則に競馬馬って可愛い目をしているだろうと言った。その後、テレビで競馬放送を実際に見ると和泉智則は、本当だ!可愛い目をして、かっこ良いねと競走馬が気に入った。その後、1985年4月のある日、池住利信さんが実際に目の前で競馬馬を見ようかと言った。

 それを聞いた奥さんと和泉智則が行きたいと言った。そこで美浦トレニンーグセンター見学の予約を取ってに車に乗って早朝、葉山を出発した。2時間余りで美浦トレニンーグセンターに到着した。その後、競走馬が真剣に競争している姿をまじかで見た。馬は懸命に走り、その走る姿は美しいが豪快で素晴らしかった。その後、和泉智則は小さい馬のせてもらった。

 すると、和泉智則の視野が広まり感動的に映った。館内には、美浦トレーニング・センター所属馬の優勝パネルやレプリカ、ゼッケンが貼ってあった。その経験をした後、和泉智則は競馬に興味を持った。1986年が明けると1月28日、アメリカのスペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げ72秒後に爆発し、来月7人全員が死亡した。それが新聞にのり和泉智則はショックを受けた。

 5月18日、日曜日、池住夫妻と和泉智則が電車で府中の東京競馬場に出かけた。最初、大勢の観客を見て和泉智則がたじろいだ。しかし、しばらくすると慣れてきた。その後、競馬馬の出走前に行われるパドックでのレースに参加する競争馬の様子を見に行った。すると和泉智則が10番・メジロラモーヌと9番・ユウミロクが気合が入っていると話した。

 そして、3頭とも、やる気満々だか言い出した。そこで、試しに奥さんが和泉智則の言う通りに推奨する馬の複勝を20枚「2千円」ずつ買ってみた。すると、10番・メジロラモーヌが1着で複勝120円。9番・ユウミロク2着で複勝540円と合計、9200円の利益を出した。それで儲けたお金で3人は帰り寿司屋に入った。

 酒が入った池住利信さんが今度は、俺も和泉智則君の言う通りに馬券を買うよと笑った。そして配当金は、折半してくれと言うと和泉智則も面白そうだからその話にのったと笑いながら言った。こうして和泉智則は、久々に楽しい時間を過ごすことができた。5月27日、ファミコンソフト「ドラゴンクエスト」が新発売され和泉智則もこのゲームに夢中になった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み