第17話

文字数 1,822文字

 院長は、ヘルベルトから目を離せなかった。がっしりとして幅広の背中が、なぜか妙に揺らいで見える。呼吸の音さえも潜めて、ヘルベルトの次の言葉を待った。
「それでも、いい兄だったのだ」
 少し柔らかな口調になって、ヘルベルトはゆっくりした動作で二人の方に向き直った。あのいかめしい顔に、わずかな笑みを浮かべていた。
「四六時中おかしいわけではなかったからな。私は兄に剣を習った。病弱だった兄は、ことさらそういう武道に熱心だった」
 穏やかな笑みが、わずかにゆがむ。
「あの頃父も病が篤くなって、医師からはこのひと月くらいが山だろうと言われていた。それを聞いた父は言った。爵位は私が継ぐように、と」
 ヘルベルトがかすかに喘ぐように息を継いだ。
「私は……、父に尋ねた。では兄はどうするのか。このまま幽閉を続けるのか、それとも……」
 窓の外に、はらはらと雪が舞っているのが見えた。部屋の中はしんとして、暖炉の炎だけがぱちぱちと乾いた音を立てていた。
「父は、私に始末をつけるように言った」
 ヘルベルトの肩が一度大きく上下した。が、その言葉は、相変わらず淡々としている。
「私にも異論はなかった。やつには、王に仕えることも領地を治めることも無理だ。だが、兄が存命なのに私が父の跡を継ぐことになれば、不満を持つ者も多かろう。と言ってここでごたごたを起こして爵位を空けては、この地を狙う者どもにつけこまれる。そうすればどうなる。このブレニー地方は? ルマーリアは? 一旦戦場になったら、回復するのに何年かかると思うか。どれくらい人が死ぬと思うか」
 穏やかな口調にもかかわらず、最後はまるで二人に詰問するようだった。
 院長は、しばらく黙ってヘルベルトを見つめていたが、やがて静かに立ち上がった。ヘルベルトのカップに新しい茶葉を入れる。
 人とは、外からは見えないところに、いったいどのくらいの真実を隠しているのだろう。同じ真実も、見る者によってその形は異なるのだろう。なにが正しいかなど、神でなければわかるまい。重苦しい思いが胸を満たす。
「この剣は、本来なら兄のものだったのだ」
 窓枠にもたれかかって茶を入れる院長を見ながら、ヘルベルトはつぶやくように言い、腰に差した剣の柄に手をやった。
 手を止めて院長はその剣を見やった。磨きこまれた年代ものらしいその剣の柄は、鈍く光っている。ヘルベルトの表情は落ち着いていて、その顔に刻まれたしわも白髪まじりのひげも、いつものヘルベルトだった。院長は無言で視線を手元に戻した。湯を注ぎ、ヘルベルトに座るように手で促した。
「どうぞお召し上がりください。今日は特に空気が冷たいようでございますから」
 ヘルベルトはしばらくじっと茶器を見つめていたが、やがて無言でそれに従った。
 椅子に腰を下ろすとカップを手にとり、ゆっくりと口に運ぶ。ふう、と息をはいて、少し恥じるような声になった。
「つまらぬことを言ったな。忘れてくれ」
 院長は黙って頷いた。が、それだけではどうしても済ませられなかった。
「ですが、つまらぬとは思いません。お話しいただいて感謝いたします」
 なんだか嫌そうな顔で院長を見て、ヘルベルトはまたぐいと茶を飲んだ。
「まあよいわ。このディールも悪くないが、本当は葡萄酒がよかったな」
「それは……、気がつきませんでした。昼食には用意させておりますので」
「それはよい」
 にやりと笑い、打って変わって妙に機嫌よく、ヘルベルトは一人頷いている。
 院長は副院長にちらと目をやった。副院長はまだ驚き覚めやらぬように少し青ざめた顔で固まっていたが、院長の視線に気づいてあわてて姿勢を正した。
「これは他言無用に。みなの心を騒がすこともないでしょうから」
「は、はい、承知いたしました」
 副院長はがくがくと首を振った。
 カップを逆さまにして最後の一滴まで茶をすすろうと苦労しているヘルベルトを、院長はそっと見た。
 どんな理由にせよ実の兄を手にかけたことは、この先ヘルベルトの心から一生消えることはないのだろう。それをヘルベルト自身も承知しているのだ。兄君のものになるはずだったというあの剣を身につけることで、それを己に課しているのだろうか。
「さて、昼食前にちょっと中を見せてもらおうか」
 はっと院長は顔を上げた。ヘルベルトが、空のカップをぶらぶら揺らしている。
「は、はい、それでは、こちらへ」
 あわてて副院長を促して立ち上がると、院長は自ら先導して扉を開けた。
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