第3話

文字数 1,867文字

 昼前から降り始めた雪が、夕方にはずいぶん激しくなってきた。風も出てきて、雪の白い筋がかなり斜めになっている。
「わざわざお越しいただかなくても、お呼びいただければ宿舎の方まで参りましたのに」
 院長は、あわてて散らばっていた書類を片付けて小さな応接机の上を空けた。
「かまわぬ」
 長椅子にどかりと座って、ヘルベルトは珍しそうに部屋の中を見回している。
 院長室で本部からの書簡を見ながら考え込んでいると、突然ヘルベルトが訪ねてきたのだ。応接室にと言ったが、ここでいい、と腰を下ろしてしまった。
 院長室は応接室よりも狭いし、一応は応接机と長椅子があるものの、ほんの小さなものだ。素焼きの壺に炭を入れて置いてあるだけで、暖炉もない。
 ファイーナは食事のために帰してしまい、副院長も今はいなかったので、院長は急いで茶の支度を始めた。なんのお茶が置いてあっただろうかと内心あわてて棚を探る。
「けっこう吹雪いてきたぞ。こんな天気にそんな格好でうろうろされてもな」
「まあ……。ありがたいお言葉ですが、それもお勤めのうちでございますよ」
 ヘルベルトなりに気を使ってくれているらしいことがわかって、院長はこっそり微笑んだ。が、すぐに顔を曇らせた。茶を入れるための湯を切らしていた。
 扉の外には兵が待機しているだろう。しかし、食堂は修道女の宿舎に隣接していて、兵はそのあたりには入れない。
「ヘルベルト殿、カレルはよくお仕えしておりますでしょうか」
「ああ、あの小僧か。あれはいいな。なかなか悪くないぞ」
「それはようございました。……今は?」
「外で待っておる」
「少々用を頼んでもよろしいでしょうか」
「なんだ、遠慮するな。もともとここの者であろうが」
 扉をそっと開けると、直立不動で立つ兵がさっと片手を胸に当てる礼をした。その横で、カレルが退屈そうに立ってこっちを振り向いている。
「カレル、お願いがあるのですけれど」
 カレルに湯を頼んでおいて、院長は机に茶器を並べた。これも普段院長が仕事の合間に使っているもので、応接室のものに比べると明らかに普段使いとわかる質素なものだ。
 まあ本人がいいというのだから、と院長は気にしないことにした。
 ヘルベルトは珍しそうに、書き物机に積まれた聖典や本に手を伸ばしている。
「聖典はよくお読みになりますか?」
 手渡しながら聞くと、ヘルベルトは嫌そうに横目で院長を見た。
「なんでそんなことを聞く」
 ヘルベルトはその聖典をぱらぱらとめくり始める。
「聞いてはまずかったでしょうか」
 思わず笑みをこぼしながらも意地悪く重ねる。
「ま、たまにはな、読まぬこともない」
 いかにも気のないふうに言うのが、その言葉とは反対のことをうかがわせて、院長は胸のうちで微笑んだ。そのうちにカレルが湯を持って戻ってきたので、礼を言って下がらせ、茶葉を入れた器にポットからゆっくりと湯を注いだ。
「今日は普通の穀茶でございます。お口に合うとよいのですが」
「なんでもかまわん。茶などそうたいして違わぬだろう」
「ディールのお茶がお好きなのでは?」
「まあ、あれはな。ちょっとは味がわかるが。ほかのものはなにを飲んでもどう違うのかわからぬわ」
 葡萄酒は別だが、と急いで付け加えている。
 院長はなんとか笑いをこらえて二つのカップに順に湯を注いだが、薄褐色の茶の表面がゆらゆらと波だった。
「それで、今日はいかがなさいましたか」
 向かいの長椅子に腰を下ろしてヘルベルトに茶を勧める。
 茶をすする間、ヘルベルトは無言だった。それから、ゆっくりと器を置いた。
「よくない知らせでもございましたか」
「……なぜそう思う」
 ヘルベルトはなんとなく恨めしそうな顔になった。院長は無言でそれを見つめ、それから少し声を潜めた。
「今は副院長も出ておりますから、なにをお話しになってもかまいませんよ」
 ヘルベルトはふいと窓の方を見て、そのまま黙っている。珍しくためらっている様子だ。
 仕方なく、院長は少しだけと思って口を開いた。
「ヘルベルト殿が援軍を頼んだというライドール伯は、お父上の頃にあった騒動でも、一度お父上と交わされた約束を反故になされたことがあると聞いております」
「さすがに、よく知っているな」
 あきらめたような顔でヘルベルトが振り向く。
「……すぐには援軍は送れぬと言ってきた。都で北の一派を抑えているために、今は動かせぬと。雪どけまでにはなんとかすると言ってはいるが」
 院長は思わず小さくため息をついた。やはり。だいたい予想の中の悪い方へ向かうことになっているのだ、物事というものは。
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