第12話

文字数 2,348文字

 日が暮れてしばらくすると、部屋の中が少しずつ冷たくなってきた。開け放してある窓の板戸の向こうから、夜の空気がそっと忍び込んでくる。
 ろうそくの炎がかすかな音を立てた。
 扉をたたく音に、院長は顔を上げた。
「どうぞ」
「失礼します」
 副院長が入ってきた。
「どうでした?」
「よく眠っていましたので……」
「そう」
「でも、ずいぶん元気になったとマルテが言っていました」
「それはよかったわ」
 院長はゆっくりと椅子の背に体を預けた。
「実は、しばらくここにおいてあげては、と思っているのですが」
「院長様、私もそう考えていました。あのような話を聞いてしまうと」
「そうですね。不憫なこと」
 数日前、院長は副院長とともに看護室を訪れて、シーラの見つけた少年に会った。
 少年はベッドに半身を起こしていて、興味津々という顔で二人を見ていた。
―食事も少しずつ取れるようになってきましたし、しばらくすれば体力も戻ってくると思います。
 マルテの説明を聞いて、院長はカレルというその少年に向き直った。
―今、少し話しても大丈夫ですか。
 少年は、屈託のない様子で頷いた。
―どこからきたのですか?
―どこって……、おれ、船に乗ってたんだ。父ちゃんと兄ちゃんも一緒に。
―お母さんは?
―おれが生まれてすぐ、死んだんだって。
―そうですか……。それでは、三人で旅をしていたのですか?
―旅っていうか、父ちゃんは船乗りだったから。
 そうなの、と院長は大きく頷いて見せた。
―でも、嵐にあって、父ちゃんも兄ちゃんも海に流されてどこに行ったかわからない。おれだけ、漁船に拾われたんだ。
 副院長が、まあ、と痛ましげにつぶやいた。
―そのあと父ちゃんの知り合いが引き取ってくれて、その人の仕事を手伝ってたんだけど、そっからまたその人の友達って人のところにやられて、そしたら。
 少年は、げーというようにひどく顔をしかめた。
―そいつ、ひでえやつで、酒飲んですぐおれを殴るんだ。だからそこは逃げて、それで、いろんなところへ行って、お金もらったり、仕事させてもらったり。
 院長は胸が痛んだ。少年の手を取り、頬のこけた顔を見つめた。シーラよりもまだ幼いようなのに。それでなくても、世の中はいつも厳しい。親のいない子供には、なおのこと。
―あの村にはいつ来たんだったかな。礼拝堂で粘ってたんだけど、あんまり実入りがよくなくてさ。暑いし、いいかげん違うところに行こうかと思ってたんだ。でも、ずいぶん食ってなかったから、どうもだめだったみたい
 そう言って、少しぼんやりした顔でえへへと笑った。その拍子に、体が不安定に揺れた。
 それを潮に、院長は腰を上げた。
 ゆっくり体を休めなさいと言うと、体を横にしながら少年はにやっと笑った。
―ありがと、おばさん。あんた、いい人だな。
 目をむく副院長を促して、看護室を後にしたのだった。
「あの様子では行くあてもないようですし」
「ただ、ここは女子修道院ですので、問題とならないでしょうか」
 心配げに副院長が眉を寄せる。
「そうですね。まだ子供ですからそれほど気にする必要はないと思いますが、ゆくゆくはどこか落ち着き先を探さなければいけないでしょうね。まあ当面の間、ということになるでしょう。これからだんだん寒くなるのですし。それに……」
 言いながら、院長は少し考え込んだ。
「それに、シーラが気にかけているようなのですよ」
 院長は、今朝方ファイーナに聞いた、シーラが礼拝堂であの少年のために祈っていたという話を、副院長に聞かせた。
「それで、あの子のためにもしばらく一緒にいるのがよいのかも、と思うのです」
「シーラがそんなことを……」
 副院長は意外そうな声を出した。
「確かに、あの子がなにかを気にかけるのは珍しいことですね。自分が見つけたから、と思っているのでしょうか」
「それもあるかもしれませんね。それとも……」
 無意識に院長は窓の方に視線を向けた。
「シーラには、あの子のことがひとごとではないのかもしれません」
 つられたように副院長も窓を見つめた。その外はもう夜の闇に包まれて、礼拝堂の影も溶け込んでしまっている。
「ここへ来てもう一年もたつのに、まだみなと打ち解けないように感じます」
 副院長の言葉に、院長は頷いた。
「そうですね、最初の頃に比べれば話をするようになったとは思うのですけれど……」
 初めてこの修道院に来た頃のシーラは、今よりもまだ小さくて、その小さい体をこわばらせ、周りのものを全身で拒否していた。めったに口も利かず、いつも硬い表情でじっと遠くを見つめているばかりだった。
 それを思えば、今ではほかの女の子たちと話をするようにはなったし、ときには笑顔を見せることもある。
「ともあれ、あの少年の体が元通りになるまでは、ゆっくり休んでもらいましょう」
「ずいぶん痩せていますしね」
「それで、元気になったらディークスさんの手伝いをしてもらっては、と思うのですが」
「それはいい考えだと思います」
 副院長は、なるほどというように頷いた。
「では、ディークスさんには私の方からお願いしておきましょうか」
「そうですね、では頼みますね」
 部屋を出て行く副院長を見送って、院長は静かに立ち上がり、窓辺に立った。
 ホウホウ、と夜に鳴く鳥の声が聞こえる。風は弱く、窓のすぐ外の大きな木がさわさわとかすかに葉を鳴らしていた。
 宿舎は礼拝堂の向こう側なので北棟からはほとんど見えないが、まだいくつか明かりが灯っているのが見えるような気がした。
 就寝前のわずかな時間に、あの子たちは祈っているのだろうか、それともおしゃべりをしているのだろうか。家族と離れて遠い山の中の修道院で暮らす、何人もの娘たち。
 院長はしばらく窓辺にたたずんでいたが、やがてそっと板戸を閉めた。
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