第1話

文字数 1,950文字

「もう、笑うのを我慢するのが大変だったよ」
 ベッドの上でひざを抱え、シーラはふるふると体を震わせた。開けた板戸から差し込む光で、壁の石の模様がちかちかと光る。
「院長様も、なんて言っていいのかわからないって顔で……」
 院長様のそんな顔は見たことがなくて、他の修道女たちも目を丸くしていた。
「ほんとにカレルっておもしろいなあ。あんなこと今まで思いつかなかったな、あたし」
 また笑いがこみ上げてきて、シーラはくつくつと笑った。笑いながら、壁に触れる。硬くて冷たい石の感触が気持ちいい。
 なにがあったのかというと、数日前の朝食のときのことだ。食事はいつも食堂で全員でとる。朝食のメニューはだいたいいつも同じで、パンとスープと、あればちょっとしたサラダか果物、という感じだ。パンは修道女たちが交代でここで焼いているものである。その日も、食卓には取り分けたスープとサラダ、かごに盛られたパンが並べられていた。
 院長様のお祈りの言葉のあと、みなが無言で食べ始めたが、しばらくすると、なんとなく控えめなざわめきがそこここに沸き起こってきた。
 シーラは首をすくめながら、その不安げなざわめきには加わらないように、黙って食事をしていた。
 やがて院長様がそれを聞きとがめ、問われた修道女はおずおずと立ち上がって、ためらいがちに言った。
―院長様、あの……、その、パンが……、パンが、カメでございます。
 何人かがぷっと吹き出す声が聞こえた。
 確かにその日のパンのかごには、いつもの丸い形のパンの他に、カメやカニや魚のような形をしたパンが、いくつも紛れ込んでいた。シーラは、ますます体を小さくして、院長様と修道女のやりとりに耳をすませていた。
 院長様はいっときなにかをのどにつまらせたような珍しい表情をしたが、落ち着いた口調で言った。
―パンがカメでも、パンはパンなのだから、食べられるでしょう。
 聞きようによってはなぞかけのような意味不明の院長様の言葉に、修道女は、はい、と仕方なさそうに腰を下ろした。さざ波のように、小さな笑い声が広がる。が、副院長様のわざとらしい大きな咳払いで、それも静かになった。
 シーラはほっとして、黙って食事を進めた。そっと隣を盗み見ると、カレルがそ知らぬ顔でスープをすすっている。シーラが見ているのに気づくと、にやり、とさも得意げに笑った。思わず、はあ、とため息が出て、それからシーラも笑いがこみ上げてきた。
 その日の分のパンを焼いたのは、当番にあたっていたシーラの班だった。
 しばらく前から、カレルもディークスさんの仕事のないときは作業に加わるようになっていた。シーラの隣でおもしろそうに生地をこね、丸めて成形しているうちに、カレルの周りには、カメやカニの形をしたパンがいくつもできていた。シーラは驚いて、そして焦った。こんなパンを作ったら怒られてしまう。しかしカレルは、どうしてもそれを焼くんだと言って、ちょっと目を離したすきに釜に入れてしまったのだ。
 焼きあがったパンを見た班の先輩は、目を丸くした。
―まあ、いったいこれはなんですか。
 作りなおしますというシーラに、先輩は、院長様にうかがってみましょう、と困った顔で言った。そしてその結果、無駄にするのはもったいないということで、そのまま朝食の食卓に供されたのだった。
「久しぶりにあんなにおもしろかった」
 ひざにあごをのせて、シーラはまた口元をほころばせた。それ以来二度ほど、パンの形がいつもと違うことがあった。それは、花の形だったりうさぎの形だったりした。ほかの班がやっているのだろう。院長様もことさらに言うことはなかった。副院長様は少し顔をしかめていたけれど。修道女たちにとっては、ちょっとしたいたずら気分と変化が楽しめて、いい気分転換だったに違いない。
 ふと、砂利を踏むひづめの音が聞こえてきて、シーラはベッドから下りた。かすかな人声も風に乗って届いた。背伸びをして窓から外をのぞく。
 ディークスさんが、見慣れない武人の馬の手綱を引いていた。門の方からそのまま北棟の方へ向かうようだ。すぐに、壁の向こうに見えなくなった。
 なんだろう、ご領主様のお使いかな。
 ご領主様がパウアの出城にいるときには、呼ばれてこちらから院長様が出向いたりするが、ルマーリアの居城にいるときにはこうして使者を寄越すこともある。
 シーラは、しばらく前に初めて見たご領主様のひげもじゃの顔を思い出した。そういえば、食事に来ないか、とか言っていたような気がする。なんだか変な人だ。
 空に吸い込まれるような鐘の音が、高らかに響いた。同時にお腹がぐうとなって、シーラは急に空腹を覚えた。
「シーラ、昼飯だってー!」
 外から怒鳴るカレルの声に飛び上がり、急いで部屋を走り出た。
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