第2話

文字数 2,602文字

 山の朝の空気は、ひんやりと地面の近くに沈んでいた。夕べの雨のせいか朝露のせいか、石畳も土の地面もまだしっとりと濡れている。敷地内のあちこちにうっそりと茂る木々が、緩やかに流れる朝もやに覆われていた。
 にぎやかな鳥の鳴き声がする。
 九月に入ったとはいえ、日が昇ればたちどころに汗ばむほど暑くなって、屋外の作業はさぞ骨が折れるだろう。しかし、朝の空気はそれを感じさせないほどにずいぶん清々しくなっていた。
 中庭の回廊をシーラは無言で進んだ。回廊のあちこちからほかの修道女たちが、三々五々姿を見せていた。みな同じように濃い干しぶどう色のすその長い修道服を着て、シーラ以外は服と同じ色のかぶりもので髪の毛を覆っている。
 夜は明け、空は明るい色で広がっていた。
 回廊から外に出て宿舎の外を回っていくと、すぐに二つの塔が見えてきた。礼拝堂の入り口の両わきにある鐘楼だ。
 ぞろぞろと列をなした修道女たちの間で、シーラも早歩きに足を動かした。
「ああ、眠い」
 前にいる二人組の一人が、大きなあくびをしたようだった。
「昨日、あんな時間まで起きてるから」
 もう一人が、あきれたように答える。
「ねえ、昨日の夕食、あれはないと思わない?」
 後ろからは、憤慨したような声が聞こえてくる。
「スープにあれっぽっちしか入ってないなんて、私、お腹が減って寝られなかったよ」
「ははあ、じゃあ夜中に聞こえてきた大きな音は、あんたのお腹の音だったんだ」
「え、うそ!」
「うそ」
「ちょっとあんた、いいかげんにしてよ」
 シーラはこっそり笑った。確かに昨日の夕食は、質素といえば聞こえがいいが、わびしいものだった。
 修道院に入ると聞いたとき、シーラにはそこがどういうところかあまりよくわからなかった。神様にお祈りしながら静かに暮らすところ、というくらいのものだ。
 実際に入ってみると、確かにそういう部分もあった。一日は、お勤めと呼ばれる神への祈りで始まり、祈りで終わる。ほとんど家事と変わらないような作業も毎日割り当てられた。食事の支度や後片付け、掃除、洗濯。
 日々の生活は静かにつつましく過ぎる。同時に、おしゃべりや噂話、にぎやかな笑い声にちょっとしたいさかいもあって、それは修道院の外の世界とあまり変わらなかった。特にこの修道院は、ほかに比べれば比較的年令の低い修道女が集まっているらしく、そういう意味では予想以上に騒々しい。
 それはそれで、シーラはいくらかほっとしていた。祈りと奉仕だけの厳格な修道院だったら、そしてそこで常に己の行いを振り返らないといけないとしたら、それは自分には苦しかったかもしれない、と思う。
 礼拝堂の入り口には当番の修道女が数人並んでいた。その間を抜けて、軽く片ひざを曲げる礼をしてから中に入る。いきなり薄暗い中に入って目の前が真っ暗になるが、なんとか定められている席について、小わきに抱えていた聖典をひざの上に置いた。壁にずらりと灯された燭台の灯りに目が慣れてくると、祭壇を正面にして同じ服装をした修道女が長椅子の間に何列も並んでいるのがわかる。さすがに私語をする者はほとんどいない。
 ほどなく、頭上の高いところで高らかに鐘の音が響き始めた。澄んだ音が礼拝堂のしんとした空気を震わせて、アーチ型の梁の連なる高い天井いっぱいに響く。
 鐘の音とともに、みなが一斉に立ち上がった。
 前方の大きな祭壇の前に、副院長様が姿を見せた。その合図でみんなが手にした聖典を開き、祈りの言葉を唱和する。
 鐘の音が静かな反響を残して消えようとするのと入れ替わりに、みなの祈りの声が天井にゆっくりと広がっていく。
 始課と呼ばれるこの朝のお勤めが、シーラは嫌いではなかった。これより三時間ほど前の未明に行う朝課は、さすがに起きるのがつらく、まだあたりも真っ暗で怖いくらいなのだが、始課は、夜が明けたばかりのあたりの風景が心に染みるように美しく、空気もひやりとして気持ちいい。
 唱和が終わると再び一斉に腰を下ろした。副院長様が聖典の朗読を始める。シーラは手元に視線を落とした。細かな文字が、ページを埋めている。
 ここに来るまでは、文字など読めなかった。シーラの家は貧しく、学校に行くなど思いもよらなかった。修道院に来て初めて、一から読み書きを教わった。字が読めるようになると、シーラは聖典を読むことに熱中した。
 今ではもう何度も何度も読み返して、だいたいの内容を把握してしまっていたので、シーラは顔を上げて、ずらっと並んでいる修道女たちをなんとなく見渡した。こくりこくりと首が揺れている者もいたし、横を向いてあくびをかみ殺している者もいる。
 やがて、副院長様の合図でその場にひざまづき、再び祈りを唱和する。
 最後に黙祷をささげて、お勤めは終わった。ぞろぞろと修道女たちが入り口から外に出て行く。このあとは当番が朝食の準備を始め、それ以外の者は部屋で身支度や今日の作業の準備をする。雨があがったのできっと予定通りぶどうの収穫だ、とシーラはすっかり明るくなった空を見上げた。
 後ろから肩をたたかれて、シーラは振り向いた。
「おはよう、シーラ」
 りすのようにくるくるした瞳の修道女が、シーラをのぞき込んでいる。
「ファイーナ、おはよう」
「ああ、まだ寝たりないよ」
 あふ、とファイーナはあくびをした。シーラは思わず、くすっと笑った。
「そうそう、あんたさ」
 一つ伸びをしてから、ファイーナが笑顔を向ける。
「今日は作業に行かなくていいよ。朝食が終わったら北棟の前においで」
「え?」
「院長様が村へ下りられるのに、シーラもお供するように、って」
 驚きにシーラは目を見開いた。院長様付でもないのに、なんで突然シーラが院長様の、しかも外出のお供をするなんてことになるのだろうか。
「もちろんあたしも一緒に行くんだけどさ」
「……どうして、あたしも……?」
「さあねえ。院長様はなんでかっていうことは言わなかったけど」
 ファイーナも少し不思議そうに首をかしげたが、すぐに笑顔になった。
「まあいいんじゃない? せっかく院長様がそう言ってくださってるんだから。気分転換にもなっていいと思うよ。あたしは道中話し相手ができてうれしいしね」
 屈託のない様子で、ファイーナが言う。
「じゃあ、遅れずにおいでね、北棟の前ね」と言いながらファイーナが小走りに去っていくのを、シーラは黙って見送った。
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