七、二〇一〇年 東京―4 ⑥

文字数 1,697文字

 そろそろと触れると、白い肌がふっと潤んで赤く染まった。
 咽の奥に絡んだ喘ぎとともに、唇から吐息が漏れた。
 暢子が指を這わせると、柔らかな膝がふるっと震えて微かに開いた。
 暢子はその膝に唇を寄せる。太腿に口づけると愛らしい悲鳴とともに丸い尻の肉が揺れた。
 膝の先、腿の奥。この唇を触れるすぐ向こうには、蜜を湛えた暗闇が眠る。そこはまどろみから目覚めて暢子を迎えてくれる。ゆるやかに濡れてほぐれた芳しい蘭。
 ずっと。ずっとそれが欲しかった。暢子の欲望をいつも吸いつけて離さなかったその核心は綾乃だった。これまで暢子の肉体を自由にしたどの男にも、暢子はこうした欲望を感じたことはない。暢子の衝動を呼び起こすのはいつも綾乃だった。綾乃の香り、弾力のある胸、腰周り。そして暢子と同じつくりのとろける花心。幾人もの男と快楽を分かち合ったであろうその部分。彼らは暢子の女神を穢した。そのたび暢子は苦痛に身をよじった。耐えられず自身も男と遊んでみたりした。だが効果はなかった。暢子の身体はただひとり、綾乃だけを求めていたのだ。これを恋情と呼ぶのだろうか。綾乃の描く美しい恋愛譚。それを何作読んでも暢子には分からなかった。
 その女神を暢子は抱きしめていた。女神は暢子の好きなようにさせてくれる。暢子は触れ、口づけ、思うさま吸いついた。
 夢だ。
 まごうことなき、これは悪夢だ。
 現実には決して開かれない天国の扉。
 下界の芥である暢子には許されない永遠の禁足地だった。
 暢子は涙を拭いて寝床を出た。
 もうずっと何もしていない。食べていないし眠れもしない。することは何もなかった。息をしているのが不思議なくらいだ。
 暢子は何もない自分の部屋で、ただ呼吸をしていた。時間の経過も分からなかった。
 目の前に現れ続ける綾乃の姿、声。青春の悪夢に翻弄され続けていた。
 青春の悪夢。
 綾乃にとっても、暢子は青春の悪夢だった。
 二十年、ふたりを縛り合ったその幻から、ふたりは卒業しなければならない。綾乃は今以上にいい仕事をするエネルギーを受け取るために。暢子は達せられない欲望から解放されるために。
 暢子は自分の人生に戻らなければならなかった。
 これまで全てを綾乃に丸投げしてラクをしてきた罰を受けているのだ。
 そろそろ自分の畑に鍬を入れる時期なのだ。
 何度か自宅の電話が鳴った。古いつき合いのマンガ家たちだった。登紀子も数度かけてきた。登紀子は本当に、本当に心配して、この部屋まで様子を見にくると言いはった。だが、それは丁重に断った。もうその世界から完全に足を洗いたいのだと暢子が言うと、ようやく登紀子は退き下がった。だが彼女は、気が変わったらいつでも帰ってこいと言うのを忘れなかった。だってそうじゃないとあんたのセンセイなんかもう。暢子はそこで電話を切った。
 携帯電話はなかった。仕事で使っていたのを洋館に置いてきたからだ。暢子にはプライベートはなかったので、ミハルと手を切れば何も残らなかった。
(何か食べようか……)
 気は進まないが、ひとりになることを選んだのなら、自分で自分を養わなければならない。暢子は台所に向かおうとした。空っぽの冷蔵庫をのぞく。何か、作ってみようか。
 浮かぶのは、香草を効かせた鶏ももの焼いたの、同じようにした魚、切り干し大根、茶碗蒸し。登紀子にいつか揶揄われた。
(何? この取り合わせ。こんなのばっかり出してたら、来るアシスタントも来なくなっちゃうよ)
 暢子にはどうしようもなかった。どれも綾乃の好物だったから。
 学院を出て東京でふたり暮らしを始めて、仕事で忙しい綾乃に代わって炊事をするのはいつも暢子だった。暢子はついつい綾乃の好物ばかり作ってしまい、それをいつも登紀子に笑われていた。
 暢子は冷蔵庫の扉に泣き崩れた。何十分かそうしていたが、気を取り直して立ち上がり顔を拭いた。
 台所に立つのを諦め、弁当を買ってコンビニから帰ると、部屋で電話が鳴っていた。出ようかどうしようか考えた揚げ句、一五回数えても鳴り止まない呼び鈴に遂に暢子は受話器を上げた。
「もしもし」
(あ。田崎さん?)
 北山だった。
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