四、一九九〇年 学院―2 ②

文字数 2,815文字

「その空白部分、描かれてやる」
 ある日唐突に綾乃が言った。
「え……?」
  
「人物入るんだろ、そこ。知ってるよ。前にスケッチブックに描いてるのが見えてた。田崎の画力なら、描いてる間中ずうっと立ってる必要もなさそうだし」
 俺がモデルになってやる。綾乃の言葉に、暢子の心臓は止まりそうになった。
 綾乃は少し顎を上げた。白い咽。長い睫毛が暢子を見下ろすようにしばたいた。
「描きたくないか? 俺を」
 暢子は唾を飲み込んだ。
 描きたい。
「……描きたい!」
 綾乃は「ふふふ」と得意そうに笑った。
 暢子の向かうキャンバスは、リラの枝の下が空白のままだった。モデルを誰に頼もうかと迷ったままで数週間経っていた。
 四月に現れたリラの精。その可憐な、かつ生命力にあふれた姿を描き出すのが、今年の暢子の作品のテーマだ。生き生きした自由な魂が瞳にキラキラ輝いて。綾乃の姿を見てしまうと、他の女子を大量生産のフィギュアか何かのように感じてしまう。
 毎日本物を見るのに、どうして乾いた代理物で作業ができようか。
 だが、本人にモデルを頼む勇気はなかった。この矛盾を解消できず、数週間を無駄に過ごしてしまったのだ。
 綾乃は舌なめずりせんばかりに微笑んだ。黙っていれば清楚な美少女なのに、毒婦のような悪い顔だ。
「いいぜえ。思う存分描かせてやる。その代わり、取引だ」
「取引?」
 暢子の胸がざわついた。自分は何も持ってない。
「わたしに何ができる?」
 綾乃は片目をつぶった。
「寮務委員を引き受けたらひとり部屋へ移れた。一ヶ月もロスしたからな。部屋にこもって、描いて描いて、描きまくるぞ、って。俺、今燃えてんの」
「『描く』って、何を……」
 暢子の語尾が震えた。まさか、こんな屈託のない自信に満ちあふれたひとが、自分と同じ世界を見ている?
「そうだな、やっぱり、まずは普通の恋愛ものだろうな。起承転結がはっきりしていて、短くまとめられる。需要が多いから、評価もされやすい」
 暢子は絶句した。そんな風に、ビジネスのような言葉でマンガを考えたことはなかった。暢子はがんばって反撃してみたが、その声は震えていた。
「『何を』って訊かれたら、普通まず『絵』とか『小説』とか、そういう『媒体』を答えるんじゃない? いきなり作品の内容じゃなく」
 綾乃はパレットに絵の具を絞り出す手も止めず、平然と言い放った。
「もちろん、その必要があればな。今の会話では、その必要を認めなかったけど?」
 悔しい。この綾乃のひと言は、暢子の全身を甘く満たした。こんな短い言葉ひとつで有頂天になってしまう自分が悔しい。
 暢子は憮然と鉛筆をキャンバスにこすりつけた。
「どうしてわたしがマンガを描くって分かったの」
 暢子はキャンバスから顔を上げられない。肩越しに、綾乃がまた笑ったのを感じた。
「見えたんだ。お前のスケッチブック」
「……ああ」
 家庭では隠していた。クラスではとくに話題に出さなかった。だが、美術室では、暢子は自分がマンガ家を目指していることを隠さなかった。暢子にとって美術部で絵を描くのは、マンガのための基礎トレーニングだった。だから受験のために描いている先輩たちとは別メニュー。マンガ表現のため、デフォルメ以前のデッサン力を身につけたかった。
 そしていたずらに、思いつくままに描きなぐったスケッチブックに、デフォルメ後の絵柄も描いていた。それを綾乃にいつの間にか見られてしまっていたのだ。
 綾乃は垢抜けた都会の美少女だ。しかも編入してすぐ上級生に一目置かれるほど優秀な。そんな日の当たる世界の代表選手のような彼女の口から、「マンガ」などという暗い世界の言語が飛び出すとは驚きだった。
 地味で野暮ったい、人づきあいの下手な暢子が、誰とも共有することなくひっそりと蓄えてきた空想を、大切に仕舞ってある異空間。それが暢子にとってのマンガだった。その後ろめたい思いを、綾乃に突然暴かれてしまった。
「だからさ。今はいいけど、作画に入ったら手伝ってもらえないかな。仕上げまで全部自分でやっていたら、卒業までに間に合わない」
「間に合わない? 何が?」
 綾乃はさも当然というように「デビュー」と答えた。


 田崎は――。
 綾乃の口からその名が飛び出たとき。
 暢子はその声の響きに胸が詰まった。耳の中でその響きがこだまする。酒を飲んだことはないが、その酩酊のように、余韻は暢子を酔わせる。
「田崎は、何か描いてるのか?」
 綾乃は暢子にそう訊いた。
 返事が遅くなると不審に思われる。暢子は自分の胸を大急ぎでなだめながら答えた。
「まだ遊び程度。一本ちゃんと完成させたことはないんだ」
 そっちは? と暢子は言ってみた。さりげない風を装いながら。
「俺? 去年一本入選した。あ、『入選』ではないか。『選外』佳作だから」
 綾乃は形の良い眉毛をひそめた。
「受賞したら記念品がいろいろ届いて、親にバレてさ。あんまりうるさいから家を出て、ゆっくりマンガ描こうと思ったのに、ここの寮ときたら全く……」
 綾乃が愚痴る。ぶちぶち言うのも、何だか可愛らしくって、暢子の耳には快い音楽のように聞こえた。その響きに耽溺する暢子と、同い歳の少女が着々とプロへの階段を進んでいるのを驚き、妬む暢子とが、互いに矛盾なくそこにいた。不甲斐ない自分が悔しいけれど、このひとになら遅れを取ることすら誇らしい。このとき生まれた捻れた気持ちは、その後ずっと暢子の中心となった。
 そのとき、十五の暢子は、感嘆を素直に伝えることができなかった。気恥ずかしすぎて。悔しくて。嬉しすぎて。あえて論点をすり替え暢子は言った。
「すごいね。もうすっかり寮生の口調だ」
 一人称からしてすでに「俺」だ。
「ああ」
 綾乃はくすっと笑った。黒い髪がさらさら揺れる。きれいだ。
「意外と違和感なかったみたいだ。この傲慢な性格に、ちょうど合ってたんじゃない?」
(傲慢……)
 確かに。
 その通りだ。
 綾乃の豪胆な性質を、ぴったり表す言葉だ。綾乃という人間は、自分をよく分かっている。
 眩しく綾乃を見やる暢子に、綾乃はにやっと笑った。
「次に描くヤツの、仕上げを手伝ってくれよ。田崎のデッサンは正確だ。当然そっちの作品も仕上げのときは俺が手伝う」
 一緒にやらないか。
 綾乃はこう言って暢子を取引に誘った。
 甘い誘惑だった。
 暢子はおずおずと、しかし迷いなくうなずいた。
 誘惑者たる愛の神の手を、危険を知りつつ取らざるをえない神話の乙女。暢子はこのとき神の手に堕ちた。
 綾乃は言った。
「商談成立だな。よろしく頼むぜ、相棒」
(相棒)
 何て甘美な響きだろう。
 その甘さは、耳から脳髄に入り込み、暢子の魂の構造を作り変えた。ウイルスにやられたコンピュータのように、暢子の中のアルゴリズムは、綾乃を中心に、綾乃が出発点に、綾乃のメリットを最大化するように答えを出す。
 不可逆的な変化だった。
 もう出会う前には戻れない。
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