一、二〇一〇年 東京―1 ⑤

文字数 3,195文字

 カウンターでは北山が店のマスターと話していた。暢子は飲みもののお替わりを頼み、うるさくてすみませんと謝った。 
「ご迷惑じゃないですか? 先生方、普段外へ遊びに出ないから、こういうとき、ここぞとばかりに弾けちゃうんですよね」
 北山はその童顔に生真面目な笑顔を浮かべた。
「大丈夫ですよ、安心してください。元々そんなに客筋のいい店じゃないんで」
「悪かったな」
 カウンターの向こうでマスターが、むっとして北山を睨んだ。
「うそうそ。あ、でも、業界のひとはあまり来ないんで、身バレする心配もありません。どうぞ思う存分騒いでください」
「ありがとうございます。助かります」
 暢子はスツールに腰かけ、ジンフィズで咽をうるおした。ここからが暢子の今日の仕事だ。
「業界人が来ない店なら、北山さんはどうしてこのお店を?」
「ああ、コイツがね、僕の大学の同期なんですよ」
「マスターの各務です。どうぞごひいきにお願いいたします」
 各務がショップカード兼名刺を暢子に差し出した。暢子も名刺入れを取り出して挨拶を返した。
「大学では何を学ばれたんですか?」
「我々ですか? 考古学を少し」
「考古学」
「大学に残らないとなると、就職が厳しくてね。コイツは成績がよかったから出版社になんて潜り込みましたが、『奇跡だ』なんて言われてましたよ。わたしは学業よりバイト優先の劣等生で。そのまま無段階に飲食業界にズルズルと……で、今やこんな感じです」
 無段階にズルズルと。それは暢子も同じだった。親の手前一応大学を卒業はしたが、暢子も就職はせず、ズルズルと綾乃の側にいた。あの頃はマンガしかなかった。
 マンガと、綾乃。
 暢子の世界はそれだけだった。
「じゃあ、時代考証の必要な作品のあるときには、重宝されるんじゃないですか?」
「はは。まあ、そういうことは何回かありましたね」
「じゃあ、次に藤村が時代物を描くときには、北山さんの『ウェンディ』にお世話になりましょう」
「はい、北アフリカが舞台の折には、ぜひよろしくお願いいたします」
 自然な流れで本題に入れそうだ。暢子はカマをかけた。
「先日は、どんなお話になったんですか?」
「え?」
「……あ。藤村と、お話しになったんですよね? 先週の……いつでしたっけ」
「ああ」
 北山は礼儀正しい態度を崩さず言った。
「ご一緒にお食事させていただきました。田崎さんは来られませんでしたね。てっきりご一緒だと思っていたのですが」
 この口ぶりだと、出版社の経費で打ち合わせだ。暢子は何も言えず唇をかんだ。そういう場にこそ、自分も同席したいものなのに。
 北山は暢子の沈黙をどう取ったのか、グラスを軽く掲げて言った。
「さ来年の晴月社漫画賞は藤村綾乃ですよ」
「北山さん……?」
「描きたい話を、描いてください。読者アンケートを気にせず、枚数も気にせず、作品のクオリティだけを考えて、描きたいものを描きたいように」
 暢子は姿勢を正して隣に座る北山に向き直った。北山も隣のスツールで背筋を伸ばして続けた。
「藤村先生に新しく連載をお願いしたいんです」
「連載、ですか」
 暢子は手帳を開いた。そうしてスケジュールを確認するふりをする。
 連載か。そう来られるとは思っていなかった。

 少女マンガ家は十代から活動を始めることが多く、新人賞に応募したり、編集部に持込をすれば担当がつき、運良く雑誌デビューを果たすと、そのままその社と専属契約を結ぶ。優秀な新人を囲い込みたい編集部にも、一人前に育つまで面倒を看てもらえるマンガ家側にも好都合だ。契約期間はケースバイケースだが、一人前になって他社からも仕事のオファーが来るようになる頃までは専属状態が続く。もちろんそこに到るまでに、駆け出しマンガ家の多くが消えていく。暢子自身その消えたひとりだ。
 綾乃がデビューした福住書店との専属契約が終了してから、北山の晴月社では数度短編読み切りの仕事をした。それらは晴月社からまとめて単行本も出してもらっている。現在綾乃はつき合いの深い福住書店で月刊一本、隔週一本の連載を持ち、「十二夜」という弱小出版社に思いつくまま身体の空くままに連作ものを寄せている。これだけで年間の制作スケジュールはびっしりだった。
「有り難いお話ですが、スケジュール的に正直厳しいですね」
「いや、すぐにでなくてもいいんです。『――戦い』が終わってからで」
 あと何話かで完結でしょう、と北山は涼しい顔で言った。暢子は静かに手帳をカウンターに置いた。
「――戦い」とは、綾乃が福住書店のティーン向けマンガ誌で隔週連載している「桜桃(さくらんぼ)たちの大いなる戦い」の略称だ。
 女子高校生バンドが音楽業界で勝ち上がっていくストーリーで、単行本の売り上げもよく関連グッズの販売もいい。ドラマ化の話も何度かあった。稼ぎになる作品だが編集サイドの注文の細かい、自由度の低い仕事で意欲作とはなりにくかった。編集部はこの作品の高い人気に、連載延長を打診してきた。綾乃はストーリーの完成度を落としたくないからと、筋書きだけは当初の構想を譲らなかった。そしてそれは確かに、北山の言うようにあと数話で終了する。
「それなら可能かも知れません。ご依頼の内容によっては、ですが」
 そう言って暢子はちらりと北山の顔を見た。
「ウチは一切、口を出しません。先生の描きたいものでお願いします」
 福住では今の連載の終了後、希望すればまた次の作品で連載を続けられる。北山の処も同じようにいろいろ指示を出してくるなら、雑誌を移る意味はない。
 暢子は北山の表情から真意を探ろうとした。
 綾乃の本当に描きたいものを。
 駆け出しの頃から、マンガ家たちはみんなヒマさえあれば、お絵かきしたりプロットを練ったり。ふたりの住居兼作業場で、綾乃は暢子相手に、たくさんの作品の構想を語ってきかせた。少女マンガの枠をはみ出すそうしたアイディアが、デビューしてから十六年、いや、あの十五の春から二十年分貯まっている。
 本当に描きたいものを描かせてやりたい。あれらの中から、ひとつでも多く、日の当たる世界へ飛び立たせてやりたい。暢子はそのためにここにいる。綾乃の側にいて、マンガ家藤村綾乃が好きに活躍できる環境を作るために。
 二十年経って、ようやくここまで来た。
「でないと、世間をあっと驚かせる大作は産まれませんよ」
「北山さん」
「われわれ編集者は、所詮才能を持った作家さんたちには及ばないんですからね」
 北山は肩をすくめて笑った。北山らしい子供っぽい表情に戻っていた。
「商業誌ですからね。制約もある。編集も口を出す。これまではいわば『職人』藤村綾乃だった」
 北山は手にしたグラスを目の高さまで掲げた。
「次作では、手加減せずに全力で藤村ワールドを(ひら)いてください。読者の二歩も三歩も先へ行き、われわれをぐいぐい引っ張るような、スケールの大きな作品を」
 チャンスかもしれない。
 北山も綾乃の才能を見抜いているのだろうか。
 綾乃がプロの漫画家なら北山もプロの編集者だ。北山の言うように、本当に描きたい世界、思いついた物語の多くが大切にしまい込まれていた。それを暢子は歯痒い思いでずっと見てきた。綾乃本人の歯痒さはどれほどのものだろうか。
「……それで、先週藤村は何と?」
 暢子を外して、綾乃ひとりで向かった北山との打ち合わせの席上で、綾乃もこれと同じ話を聞いたのだろうか。これと同じ熱量で。
 綾乃は何と答えたのだろう。この真っ直ぐな瞳の編集者に。
「スケジュールなどは、マネジャーの田崎さんがいらっしゃるときの方がよいと思いましたので。先生からはまだ『描く』とも『描かない』とも」
「分かりました」
 暢子は手帳を閉じた。
「藤村本人がよく考えて、今月中にお返事します」
 カチャと小さな音を立てて、暢子と北山はグラスを触れ合わせた。「松村綾乃に晴月社漫画賞を獲らせる同盟」の成立だ。
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