七、二〇一〇年 東京―4 ①

文字数 2,156文字

「はい、ミハル製作所です」
 応接室にこもったまま、暢子は自分の机で電話を取った。
 暢子は毎号送られてくる晴月社の少女マンガ誌を、ここ数号分じっくり読み返していた。北山は「好きなものを描いてくれ」と言ったが、やはりその雑誌の読者の傾向は押さえておきたい。広間では「グリーン」の制作が続いている。暢子がマンガ雑誌を読むのは仕事だが、やはり〆切前の現場で読むのは気が引けた。
 かけてきたのは北山だった。彼にしては珍しくしどろもどろと要領を得ない。
「松村先生に、取材……? の申し込みなんですけど」
 口ごもる北山に、暢子は首を捻った。
「どういうことでしょう」
「それがですね、ウチの社の出してる堅い経済誌に、ドキュメンタリーというか、ルポルタージュというか、そういったものを寄稿して下さってる学者さんがですね、藤村先生にぜひお会いしたいとおっしゃって」
 北山の話を要約するとこうだった。
 ヨーロッパのある都市で、国連の関連機関で働いている国際関係学の学者さんがこのほど帰国して、いつも原稿を寄せている出版社に立ち寄った。そこで見た社の刊行物に藤村綾乃の名前を見つけ、大層喜んで、ぜひ会ってもらえないか訊いてくれ、と自分の担当編集者に頼み込んだ。頼み込まれた編集者が、綾乃の担当である北山にそう告げた。
「『国際関係学』ですか」
「ええ。そうなんです」
 マンガの取材で、学者の先生にお話を聞きにいくことはたまにある。SF作品のときの宇宙工学や、ファンタジーのときの服飾史や、そんな分野だ。政治や外交の突っこんだ知識はこれまでのところ不要だった。そんなものを専攻する学者が、少女マンガ家に会いたがる理由は何だろう。暢子はカマをかけてみた。
「……なぜこちらに? 直接藤村本人にかけられては?」
 息を詰めて答えを待つ暢子に、北山はあっさり、
「万一先生のストーカーだといけないと思いまして。先にマネジメント担当の田崎さんにご記憶あるかうかがっておこうと」
と答えた。それに、マンガ家のビジネス上のことなら、マンガ家個人ではなく、マネジメント担当者に持っていくのが筋だからと。至極まっとうな意見だった。
(本人に直接電話する可能性そのものは、否定しなかったな)
 決まりである。綾乃が携帯電話を持ち出した理由はこれではっきりした。暢子は苦々しい思いで手帳をめくった。今の綾乃に時間の余裕はない。だが人脈はどんなところからどう拡がっていくか分からないものだ。
「分かりました。直接こちらから一度先方にご連絡してみます」
 受話器の向こうで、北山がほっと安堵の溜息を漏らすのが聞こえた。素直な人間だ。
 学者さんの名前を聞いて、暢子はえっと驚いた。
「ええっ。秦野祥子ですって」
「ご存じですか」
「ええ。ふふふ。これは北山さん、取材の申し込みではないようですよ」
 訳が分からず「はあ……」などと呟く北山に礼を言って、暢子は受話器を置いた。
 暢子の口許に自然と笑みがこぼれる。懐かしい名だ。胸に温かな気分が湧いてくる。暢子は立ち上がった。
(祥クンかあ……)
 綾乃に伝えなきゃ。暢子は急いで応接室を後にした。


「やあ、久し振り。相変わらず君らふたりでいるのか。ちっとも変わらないんだな」
「おう、お前もな。秦野」
「そうだよ。祥クンこそ変わらないよ。元気だった?」
 多忙の綾乃のスケジュールを縫って、暢子は都内のホテルのレストラン、その個室を予約した。彼女らが顔を突きあわせれば学院時代の言葉遣いで放言が始まること請け合いで、ほかの客に迷惑をかけないための用心だった。それに秦野の父は政治家で、そろそろかなりの歳になっているはずだ。万が一秦野の帰国がその父に関係したことだったら、ひと目につかない方が都合がよかろう。
 挨拶もそこそこに、綾乃はいきなり尋ねた。
「お前、オヤジさんを継いで政治家になるのか」
 秦野は老酒を吹き出しそうになり、口許を拭いた。
「ならないよ。何だよそれ」
「いや、お前ずっとあっちにいただろ。急に帰ってくるなんて、何ごとかと思うじゃないか」
 あはは、と秦野は明るく笑った。
「今度俺、結婚するんだ」
 えっ、と暢子は綾乃と顔を見合わせた。
「結婚って、……男とか?」
「はは。ここは日本だからな。ほかにどんな選択肢があるんだよ」
 相変わらず面白い奴だなお前って。そう言って秦野はまた笑った。
 その秦野は明るいベージュのスーツ姿。スーツの下は意外にもスカートだった。学院で秦野を見かけていた六年間、暢子は式典の正装でしか秦野のスカート姿を見たことがなかった。いつも筋肉質なその脚をスラックスに包んでいたものだ。綾乃もスラックスの着用が多かったが、この秦野ほどではなかった。たまに濃色グレイの箱ヒダを翻したりもしていたのだ。
 綾乃の今日の装いは、白い肌の映えるパープルピンクのワンピース。同色、少し濃いめのコサージュを肩に飾っていた。緩やかに上げた髪は、暢子が結ってやった。綾乃自身が一〇分で仕上げたメイクも、同業者とのパーティへ行くときとは違って、上品な薄化粧に留めていた。
 暢子はこのふたりの中で気後れしながらも、モスグリーンのパンツに黒のカットソー。きちんとした格好とカジュアルとの間でどっちつかずな衣装だった。我ながらいかにも中途半端だと暢子は思った。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み