五、二〇一〇年 東京―3 ④

文字数 2,882文字

 長く続いた「桜桃たちの大いなる戦い」最終回のネームも昨日上がり、急遽描くことになった「フューネラル・グリーン」前後編のうち、前編をこうして制作中である。後編も順調に進められるだろう。
 アシスタントたちには法規上の問題なく休ませているが、綾乃はもうほとんどぶっ通しだ。編集者との打ち合わせで一日、ネームを早めに上げて一日、計二日だけ半日休めた日があったが、打ち合わせの日は鍼灸院で二時間は潰れている計算だし、予定より早くネームが上がった昨日も、綾乃はどこかへ出かけたようだ。綾乃の身体が心配だった。
 昨日、「――戦い」のネームを上げて、綾乃は仕事場に出勤していた暢子に手渡しにやって来た。わざわざ持参する必要もないのに。自宅にもFAXをつけているのだから。
「早いね。『グリーン』の原稿上げてからかかると思ってたよ」
「いや、何だか気が急いてな。家に帰っても落ち着かなくて、やっちゃったよ」
「……気味悪いな。雪でも降るんじゃないの」
「そういう嫌みを言うもんじゃないよ」
 暢子はさっそく受け取ったネームを確認して、福住書店の長沼にFAXしようとした。その間、落ち着きなくその辺をうろうろしていた綾乃だったが、パチンと何かを閉じてポケットに仕舞い込み、「じゃ、あとよろしく」と出ていった。
「あ、はい。お疲れ……」
 呆気に取られて暢子は、辛うじて廊下に首だけ出して綾乃の背を見送った。
(何を焦っていたのだろう……)
 暢子は首を捻った。豪胆な気性の綾乃の言動は、いつもふてぶてしいほどだ。それがあんなにそわそわとして、一体どうしたというのだろう。
 暢子ははっとして隣の机に飛びついた。ほとんど使われることはないが、一応綾乃の事務机ということになっている。抽斗には数年分の埃にまみれたガラクタと一緒に、綾乃の携帯電話が放置されているはずだった。
(……ない)
 なくなっていた。ぐちゃぐちゃに丸められたままだった充電器も。
 暢子がどんなに頼んでも持ち歩いてくれなかったのに。さっきパチンと音がしたのがきっと携帯電話だったに違いない。何のために突然持ち歩くことにしたのだろう。答えは決まってる。誰かと連絡を取るためだ。では誰と。最近知り合ったか、または距離を縮めたひと。
 考えるまでもない。晴月社の北山しかいない。
 綾乃は昨日、北山と逢っていたのだ。
 暢子は午前のうちにまなが淹れてくれたコーヒーをざばっと胃に流し込んだ。すっかり冷たくなっていて、暢子の荒れた胃粘膜に刺さった。暢子にはその刺激すら心地よかった。自分の身体を(さいな)みたくなっていた。
 北山と遊び回って、身体を休めていないのではないか。暢子は綾乃の過労を心配した。今倒れられたら、順調に次のステップへ踏み出そうとしている仕事の方はどうなる。暢子はマネジャーの立場で綾乃が心配だった。
 いつもの手順で。暢子は韜晦を繰り返す。
 自分の心もそうして煙に巻いてしまう。
 だが。
 これまで綾乃に夢中になった男たちはどれも、綾乃の美貌と収入とネームバリューに惹かれて寄ってきたようなものだった。綾乃もはっきり暇つぶし、もしくは気分転換と割り切っていたのが明白だった。誰とつき合うことになっても、綾乃が暢子にそれを隠したりしなかった。ひどいときなぞ、目下の恋人との逢い引きのスケジューリングすら暢子にやらせたほどだった。
 綾乃が携帯電話を自分で持ち歩いて、暢子の知らないところで男とつき合うようになるなど初めてだった。それも、相手があの好青年だったとしたら。人懐こい純朴そうな笑顔の下で、なかなかしっかりした仕事をする切れものでもある。これまでの軽い若者たちとは違う。
 今朝仕事場にやってきた綾乃は、いつもと変わりなく見えた。暢子に対する横柄な口調も普段通りだった。暢子はほっとする一方、胸の奥ではむくむくと成長する不安をどうすることもできなかった。
 綾乃は、きっと、恋をしている。
 そのエネルギーが、仕事への意欲をさらに燃え上がらせているのだ。
 長年つき合ってきた福住書店との仕事が一本じき終わり、自由度の高い場所を提供してくれる晴月社で、心置きなく新しい仕事ができる。意欲作を発表できる。綾乃を今凄い勢いで突き動かしているのは、そうした仕事上の希望だけではないのだ。
 そうでなければ、暢子の段取りを軽々超える仕事を次々に片づけてしまえる訳がない。二十年、これまでの人生の半分以上をともに過ごしてきた暢子が、綾乃のキャパシティを見誤ることなどない。
 暢子の知らない部分で、綾乃は熱量を受け取っている。
 暢子は、もっと自分を痛めつけたくなっていた。
 カップは、空だ。吐き気がした。
 まだだ。まだ足りない。
「ノブさん……」
 遠慮がちに応接室のドアが開いた。まなが顔を出す。何か食べないと身体に毒だというのだ。
「ありがとう、まな」
 椅子から立ち上がり、「いつも気を遣わせちゃって……」と暢子はまなに優しく礼を言って、食堂へ向かった。そこで暢子は綾乃に負けないほどの分量をぺろりと平らげた。まなはやっと安心したらしく、食後のコーヒーを運んできた。開け放した広間との扉の向こうで、登紀子がじっと暢子を見つめていた。
(そう心配そうな顔、しなくていいのに) 
 自分なぞ、まともな人間に心配されるような代物じゃない。いつも登紀子は訳知り顔で暢子のことを心配するが、そんな風に思ってもらえる価値は自分にはない。
(こんな出来損ないのことなぞ放っといてくれ)
 自分に才能がないことが分かると、真の天分を与えられた人間にくっついて、そのお裾分けにあやかろうとする意地汚さ。創作の女神に愛されたその高貴さに嫉妬しながら憧れるいじましさ。そして、そのまろやかな女神の造形を、心底愛おしく思っている捻じ曲がりぶり。
 暢子は、綾乃を愛していた。
 その才能も、性格も、姿かたちも、全て。
 もうずっと、ずっと前からだ。
 十五の春、まだ咲かないリラの林に現れた、綾乃の姿を見たときから。あのときから、暢子は綾乃にただただ夢中だった。そしてそれは、今も変わらない。
 綾乃だけでなく、暢子もこれまでに数人の男とつき合ってきた。綾乃がデートに出かけている時間を、暢子もそれなりに誰かと潰したりしてきたのだ。この男なら自分に綾乃への迷いを振り切らせてくれるかもと、暢子に期待させてくれたものもいた。だが、結局駄目だった。男に抱かれていても、暢子の心はどうしようもなく綾乃の許にあって、彼らが抱いた身体の中は常に空っぽだった。それに気づくと、心ある男は皆去っていった。心のないものたちだけは暢子の空っぽの身体と丁度よく釣り合っていたが、暢子の方でそういう男に期待を持てず、関心が続かないのだった。
 まなの笑顔に見送られて、暢子は食堂を後にした。食卓を離れたとき、開いた扉の隙間から広間で机に向かうリンの横顔が見えた。幼い造りの顔を生真面目に強張らせて、定規で細かく線を引いている。引き結んだ唇は、大きな怒りをこらえているようにも見えた。
 二階のバスルームは、しばらく暢子の占有物件だ。
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