一、二〇一〇年 東京―1 ⑩

文字数 1,876文字

「センセイ、張り切ってますね」
 食事が終わって、コーヒーが振る舞われていた。休憩時間はまだ少しある。
 暢子が入っていくと、食堂にはベテランの登紀子と亮子が残っていた。亮子にそう声をかけられ、暢子は無言でにっと笑って見せた。「手応えあり」だ。
「でもねえ。このテンションをどう維持してゆくか。そこが問題なのさ彼女の場合」
 流石にチーフだけあって、登紀子が厳しいところを突いてくる。
「今回はね、ちょっと違うと、わたしは見てる」
 暢子はひとことひとこと嚙み締めるように言った。
「そお?」
 登紀子がからかうような目を暢子に向けた。暢子の咽を薔薇の香りのする滴が伝って、胸の下着の内側へと流れ落ちた。暢子はコーヒーカップで登紀子の視線からそれを隠した。
 スタッフの休憩時間が終わる頃、綾乃が食堂に現れた。暢子は広間へと続く扉を閉めた。
「北山さん、センセイには何て?」
「ああ。新連載よろしくって。『マネジャーの許可はもらってる』って言ってたぞ」
「『許可』って……」
 暢子にそんな権限などない。それは北山も百も承知だ。暢子にできるのは綾乃のわがままに振り回されて、日程を調整することと、そのためにあちこちに頭を下げて回ることだけだ。暢子は綾乃の瞳の奥を読み取ろうとした。長い睫毛のその下には、黒目がちの大きな瞳。
 まなが暢子にサンドイッチを持ってきた。
「ノブさん、このくらいなら食べられますか?」
 少しは食べないと身体持ちませんからと言い添えて、まなは彩りよく並べた皿を暢子の前に置いた。暢子が食べものに興味なく、放っておくといつまでも食べないのをまなはいつも心配する。
 そのせいか暢子はいくつになっても棒きれのような身体つきから変わらない。食べることも着飾ることも大好きな快楽主義者、綾乃のしっとりした身体とは対照的だ。
 暢子はまなが台所へ下がるのを待って続けた。
「それから? アシの面接に会議室貸せって、そう言ったの?」
 綾乃はまなの用意した昼食をぱくぱく口に運んでいる。今日の献立は魚の煮付けを中心にあっさりしたものだった。綾乃を始め三十代の胃腸にはありがたく、若者たちには日頃取り難い栄養が取れる。味つけも薄めで好ましい。綾乃は頬張ったまま「ああ」とも「むう」ともつかない返事をした。
「それだけ? 他には? 何か話した?」
 暢子は努めて事務的に言った積もりだった。だが綾乃は口の端でにやっと意地悪く笑った。
「ああ。『話した』のはそれだけだよ」
 暢子はかっとして開きかけた口をへの字に曲げ、少しのあと「……ああそう」と言ってそっぽを向いた。顔が熱い。暢子は自分の頬が赤く染まったことに気づき顔に手をやった。悔しい。唇を噛む暢子を見て、綾乃は箸も休めずくっくっと咽の奥で笑った。
 赤くなったまま無言でコーヒーをすする暢子に、綾乃がもぐもぐ口を動かしながら言った。
「せっかく作ってくれたんだから、食べたら」
 そう言って暢子の前のサンドイッチを指差す。暢子は皿を脇へどけ、手帳を開いた。
「面接は、いつにしますか。『――戦い』の完成(アップ)があさって。睡眠がどのくらい取れるか分からないので、その次の日の、午後にしときますか」
 暢子は早口でそう畳みかけた。ことさらにむすっとした風を装う暢子に、綾乃はゆったりと鷹揚に答えた。
「睡眠は取る。あさっては残業なしに一八時で終わって、その翌日は通常営業。わたしとあんただけここを抜けて、一四時面接開始。当たりつけた子がOKだったら、そのままここへ連れ込み、仕事をさせて最終選考だ」
「……センセイらしい予定ですね」
 暢子は手帳に要点を書き込みパタンと閉じた。
「分かりました。そのセンで晴月社と話をつけます。福住書店とも」
 椅子から立ち上がり、暢子はきっと鋭く綾乃を睨んだ。
「それとも北山さんにはセンセイからお話になりますか」
 綾乃は鼻先で軽く笑った。
「バーカ。いいよ」
 そう言うなり箸の先で「もう行け」という仕草をする。
 暢子はまたかっとして、カップとサンドイッチの載った皿とを乱暴に掴んで歩き出した。暢子の背に綾乃は言った。
「いい子が採れるといいな」
 暢子は足を止めた。綾乃は続けた。
「夏までにはメンバーを固めたいところだ」
 暢子の耳にそれは「晴月社の新連載には、万全の態勢で臨みたい」と聴こえた。
「……うん。そうだね」
 暢子は綾乃を振り返った。
 逆光の中で綾乃は頼もしげににっと笑った。
 綾乃の背にした窓の向こうに、リラの蕾が揺れていた。
 光の中で微笑む綾乃。怒りに染まった頬の赤みもそのままに、暢子は諦めてふっと笑い、ドアを閉めた。
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