四、一九九〇年 学院―2 ①

文字数 2,037文字

「どうして、今になって入部する気になったの」
 暢子は三メートル向こうでイーゼルに向かう綾乃に尋ねた。
 辺りは肺の中まで薄紫色になりそうなリラの香り。綾乃は首許の青いタイを引き抜き、それで長い黒髪をひとつに束ねた。
「『今になって』じゃないさ。美術部に入ることは決めていた。入寮して一ヶ月はあっという間でね。忙しくてそれどころじゃなかったよ」
(「入寮」ね…) 
「随分ご活躍のようだものね」
 暢子はそう言ってしまってから、自分の言葉が皮肉と取られかねないことに気づいた。綾乃はとくに気にする風もなく鉛筆を取り出した。綾乃のペンケースに4Hから4Bまでずらりと揃ったステッドラーの鉛筆を、暢子は心底羨ましく思った。暢子の住む麓の町には、そんな高級画材を並べる文房具屋はなかったから。
「別に、普通にしてるだけなんだけど」
 綾乃は大した抑揚もなくそう言った。風がリラの花びらを散らした。
 たった一ヶ月で藤村綾乃の名前は高等部中に鳴り響いていた。寮生でもない綾乃の耳にまで。十二の頃から鍛え抜かれた猛者(もさ)どもを、簡単に打ち負かした恐怖の外部進学生として。
 風にそよぐリラの枝々の角度をためつすがめつして、暢子はやっと構図を決めた。
 暢子の頭の中には、あの日美術室の窓から外を見た、あの風景が焼きついていた。リラの枝をそっと払って、林の奥から現れる長い髪の少女。頸を僅かに傾げてリラの枝をよけた清楚な風情。暢子が思い描いたとおりの姿で、綾乃はそこに現れた。暢子はあの姿を写し取りたいと思った。
 この白いカンバスに、あの美しい姿を描ききりたい。
 このカンバスの上でだけは、その姿は完全に暢子のものだ。
 だが、隣で同じく作品に取りかかりつつある彼女に、「モデルになってくれ」とは言えなかった。
 暢子はクラスの友人たちの誰かにモデルを頼もうと思っていた。が、みなイメージからは遠すぎて、正直創作意欲が湧きそうにない。いくら最後は自分の腕だといっても、気分が盛り上がらないモデルだと妄想も回らない。
 暢子は画面中央の枝の下を、そこだけ空白にしたまま、リラの林をスケッチした。
 綾乃は鉛筆を目の前にかざして対象物の角度を測りながら、言った。
「寮に入って何週間か、先輩たちが新入生の部屋を回る訳。始めは自分の棟、それが終わると他の棟を順番に。『新入生いじめ』というか、『気合いを入れる』というか。通過儀礼だよね。何というの? 『ストーム』? 昔の小説に出てくるよね」
 暢子は曖昧に頷いた。そんな言葉、聴いたこともない。
「んで、いろんな議論をふっかけられんの。テーマはいろいろ。哲学的なのもあれば、下らん、『紅茶とミルクはどちらを先に入れるか』みたいなことまで。言葉に詰まると徹底的に質問される。親許を離れたばかりのひよっこの性根を叩き直して、ここの学生として教育するってことなんだろうね」
 なるほど。そういう訓練をされるから、寮生は暢子たち通学生よりも大人っぽいというか、何というかその、独特の雰囲気を獲得するのか。暢子は納得した。
「自分の考えをはっきり主張する、とか、信念を持つ、とか。規律と責任あっての自由だぞ、というかね。特に高等部からの外部進学組は念を入れてもてなされた」
 それはそうだろう。持ち上がり組はすでに一度、中等部入寮時にそうした歓迎を経験しているだろうが、そのときはみな昨日まで小学生だったのだ。高校からの外部進学生は、子供たちと同じように手加減はしてもらえなかろう。
「毎晩毎晩これでもかってくらい、次から次から上級生がやってきて……」
 綾乃はそこで言葉を切った。ちらっと暢子の方を見て、ちらっと赤い舌を出した。暢子はその赤さにどきっとした。
「連戦連勝」
 バケモノだ。絶句する暢子に、綾乃は「寮務委員を押しつけられた」と続けた。
 寮務委員とは、親許を離れて集団生活をする少女たちに規律を守らせ、日常細々と発生する争い事の仲裁をし、生活全般の面倒を見る、そういう役目だ。自治組織である学寮を管理運営してゆく寮務委員は、当局が配した寮監との交渉までこなす寮の幹部である。それにこの春入寮したばかりの外部進学生が仰せつかるなんて。いくら通学生で寮のことには(うと)い暢子でも、その異常さは理解できた。
「青いタイを買わされたよ。引き継がれたのはボロボロで、結ぼうものならすぐにも解れてバラバラになりそうな代物でさ。ったくこの忙しいのに、麓の街まで下りていって」
 綾乃はスケッチの手を止めずにそうぼやいた。寮務委員は一般生徒の赤タイでなく、青いものを締める決まりだ。大勢の中で素早くそれと分かる工夫だった。この学院では、そうした役割ごとのタイの色分けがいくつかある。暢子は綾乃の肩を、腕をぼんやりと眺めていた。
 頬から顎、傾げた頸のライン。美しい生きものだ。このたおやかな器のなかには、暢子には想像を超えた魂が宿っている。
 暢子はもう、この生きものから目が離せない。
 この美しくて力強いリラの精から。
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