五、二〇一〇年 東京―3 ②

文字数 3,129文字

 呼び鈴が鳴った。やって来た十二夜の池野を応接室に通す。いつも暢子の事務室として使われるこの部屋が、珍しく本来の用を果たす。
 池野はいつも自分の食べたい洋菓子を買ってくる。菓子によって綾乃が飲みたいものが変わるので、暢子は黙って池野が手土産を開けるのを待つ。今日はレモンパイだった。お母さんの手作りお菓子のような素朴なケーキ。これなら綾乃は紅茶を好む。暢子は華やかな香りのダージリンを淹れて応接室へ引き返した。
 若い池野はクレイジーなマンガファンだった。十二夜という出版社は、自社の看板雑誌の名前をそのまま社名にしている弱小出版社で、メジャーが載せない作品やマンガ家を世間に喧伝する、ファンが読みたいものを載せる、というのが編集方針だった。池野のようなコアな漫画マンガファンが、そのファンならではの感性と嗅覚を生かして仕事をするのを、戦力のひとつとして活用していた。
 近年、マンガを始めあらゆる創作が、商業誌での流通以外に販路を持てるようになってきた。こうなると、正直十二夜のような社の存在意義は薄れてしまう。何せ今や、同人誌で金を稼ぐことすら可能なのだ。山間の田舎町で育った暢子などには、想像もできない世界だった。
 折からの出版不況も相まって、十二夜の経営状態は厳しいものだった。暢子は、可能な限りこの十二夜に、綾乃の作品を供給しようとした。綾乃のアイディアには大きな幅がある。メジャーどころが歓迎しないテーマや描写を持つ作品は、十二夜をその発表場所として選んできた。綾乃が十二夜に発表してきた作品群を、待望するファンもついている。まさに「ファンが読みたいもの」を載せる誌面であった。世の中のすべてがものすごい勢いで変わっていく時代に取り残されそうなこの出版社を、暢子は応援したかった。
 三人分の菓子と飲みものを応接セットの卓に並べ、暢子は池野にネームを手渡した。
「拝見しまぁす」
 池野は嬉しそうに暢子の手からネームを押しいただいた。池野は、自分が一番幸せなファンだといつも言う。その思いが伝わってくる瞬間だ。この世の誰もまだ見ていない作品世界を、いち早く見ることができる。これを役得と言わずして何と言おうか。池野の口癖だ。暢子も用意していたコピーに目を落とした。綾乃はふんぞり返ってレモンパイを頬張った。
 数分して、池野は黄色い声で叫んだ。
「ええーっ、ここでこのふたり、ヤッちゃうんですか」
「うん」
 驚愕する池野に、表情も変えず綾乃は頷いた。暢子が冷静に口を挟んだ。
「それはわたしも思った。『悠一』が若かりし頃の『美緒』の幻を見て、目の前の『類』との相似に気づくんだったでしょ。気づいて、悠一は美緒への想いから解放され、類の存在に魂を救われる。このシリーズの一番の山場なのに。そのシーンはどこに入るの」
「ああ、それね。後にした」
「『後』って? 順番おかしくない?」 
「ない」 
「じゃあ、どこに入れるの」
「死ぬとこ」
「ええっ!」
 暢子と池野の叫びがハモった。
 変わらぬ無表情で綾乃は言った。
「何を驚くことがある? この次の四十頁で『類』は死ぬから。『悠一』が『類』の姿の上に『美緒』を見て、『類』は自分がオリジナルとして愛されたのではないことを悟る。そして失意のうちに……ってそこからは変更なし」
「……ってことは、センセイ、『フューネラル・グリーン』は次の話で完結するってことですか。終わっちゃうんですか」
 池野は真っ青になって震えていた。
「うん、そう。長いことありがとね、池チャン」
「そんな……」
 がっくり肩を落とす池野を尻目に、綾乃は悠然と紅茶をすすっていた。
 おかしい。
 暢子は手にしたコピーをたたんだ。描く予定のエピソードはまだ結構残っていた。話数にして最低あと三、四話分はあった。このネームを受け取ったときに、もっと綾乃を問い詰めておくんだったと暢子は悔やんだ。ストーリー的に無理はないが、打ち切られる訳でなし、終結を急ぐ必要はない。おかしい。
 しばらく背中を丸めて考えていた池野は、やがてパッと明るい笑顔で綾乃の方に向き直った。
「じゃ、センセイ。番外編ってことであと数話、よろしくお願いします。描ききれてないエピソード、まだまだいくつもありましたよね」
 こんなノリでも編集者だ。すかさず藤村綾乃の原稿の確保に回る。
 上司に早く報告したい池野が、挨拶もそこそこに帰っていった。暢子が玄関まで見送りに出て重い扉を開くと、勢いよく風が吹き込んできた。広間の窓をまだ閉めていなかった。リラの香りが洋館に満ちた。
 暢子は広間のフランス窓を閉め、金具を留めた。錆びかけたそれをいじるときには、いつも指先が痛くなる。応接間で何やら軽い物音がしていた。扉を開閉するようなくぐもった音。パタパタとスリッパが歩く音。綾乃が応接間と書斎を行き来している。
「フューネラル・グリーン」とは、もともと暢子が温めていたアイディアをベースにした作品だった。この洋館を仕事場として買い取る前、綾乃が当時つき合っていた男の紹介で十二夜の依頼を受けることになったとき、マイナー誌の読者の好みが分からず、綾乃はネタに詰まってしまった。綾乃と同じくメジャーを目指した暢子であったが、読者としては綾乃に勝っていたというか、とことん陽性の綾乃に比べ、暢子の「陰」の部分が生きたというか、十二夜向きのネタを暢子が持っていた。
 舞台を東京からヨーロッパに替え、失恋を忘れるため主人公が没頭した職業を銀行員からピアノの調律師に替え、少女に好まれる舞台装置は綾乃が設計した。だが、初恋相手が嫁いでいった地へ流れつき、迫害に耐えながらも仕事を着実にこなして次第に評価されるようになった主人公が、二十年後同郷の少年と出会って、頼られ面倒を看るうちに初恋の痛手から回復していく……という陰影ある話の筋は、暢子の作ったそのままだった。「死」と「生」、「エロス」と「タナトス」といった人間の暗い側面を扱うには、暢子に一日の長があったのだ。
 初恋相手は不幸のうちに身体を壊して故郷へ去っており、彼女がひとりで産んだ子供は父の住むヨーロッパを目指し、そうしてそこで主人公と出会う。主人公はそうとは知らず、懐かしい面差しの宿る同胞を無碍(むげ)にできない。
 一度作品として走り出してしまうと、そこから先は綾乃に全ての裁量権があった。暢子はマネジャーとなって筆を折った身であり、ブレーンとして助言はするが、決して綾乃をプロデュースすることはしなかった。綾乃はひとに自らの手綱を握らせておくような、そんな謙虚さは持ち合わせない。暢子も自分が綾乃をどうこうできると思わなかったし、そうする必要も感じなかった。
 前回の掲載話で、少年は母と同じ病にその身をむしばまれていることが示唆されたところだった。時代設定から、少年を病から回復させることも選択可能だった。
「綾乃、どこ行くの」
 綾乃が書斎のドアをパタンと閉めて、玄関の方へすたすた歩き出すのを暢子は慌てて追った。
「鍼灸院。お前が予約入れたんだろ」
 綾乃はさっさと靴を履いた。
「どうして」
 暢子は綾乃の背に言った。
「どうして『グリーン』、終わらせちゃうことにしたの。こんなに早く」
 その声の硬さに、暢子は自分でも驚いた。暢子の詰問を綾乃はどう聞いただろうか。
 綾乃はドアの把手に手をかけたまま立ち止まった。何かを言おうとしたのか。横顔に髪が緩く波打った。少しして、その形のよい唇が動いた。 
「さあな。その方がいいような気がしたから」
 それきり振り返ることなく、綾乃は「お疲れ」と出ていった。ぎいと低い音がして扉が閉まった。
 暢子はコーヒーを濃く淹れて、応接セットに身体を(うず)めた。
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