一、二〇一〇年 東京―1 ⑥

文字数 3,168文字

「何盛り上がってんの。あたしも混ざっていい?」
 奥のテーブルからミハル製作所のメカアシ、リンがやってきた。
「何よ、ふたりとも黙っちゃって。ジャマしないから、続けてよ」
 リンはマスターに自分の飲みものを注文した。
「いや、こっちの話は粗方済みました。君、藤村先生のとこの……」
「はい。メカアシやってます。狩谷凛です。たまに『ギニョル』の鈴鳴先生のとこにも行ってます」
「鈴鳴先生……。ああ、じゃああの、ぐにょぐにょした鋼鉄の心臓を描いてるのは」
「そうそう、あれあたしです。覚えててくださったんですか。嬉しいな」
 リンは顔を真っ赤にして喜んでいる。
「君自身は、何か描いてるの?」
 北山にそう尋ねられて、リンは耳まで赤くして焦っている。これが漫画なら、「汗」の漫符が噴水状に飛び散っているところだ。
「え、い、いえ。あたしなんて全然。センセイ方に比べたら、もう全然あたしなんて」
 リンは両手を顔の前でぶんぶんと振った。
 機械(メカ)好きには男子が多いが、リンは女性のメカ担当である。本業は大学生で、確か工業デザイン専攻だと聞いている。「機械の生命体」をテーマに生々しい描写をする鈴鳴蕩治楼にも重宝され、ミハルと鈴鳴のところでアシスタントをかけもちしている。大学の単位は順調に取れているのか、学業に差し障らないよう、暢子はリンの現場入りの日数を無駄に増やさないよう工夫して呼んでいた。月産枚数四十枚にも満たない鈴鳴のところは大して負担にならないはずだが、鈴鳴は筆が遅いことで有名だ。拘束は長くなりがちだろう。
 北山とリンの会話を聞くともなしに聞いていると、綾乃に呼ばれた気がした。暢子は振り返った。 
「おーい、田崎ぃ」
 奥のテーブルから綾乃が呼んでいた。酔っている。
「んー。何」
「お前もこっち来いよ」
「うん」
 近づくと目も眩まんばかりの満艦飾、そう言って悪ければいずれ劣らぬ美人が悪趣味一歩手前の衣装に身を包み、ここぞとばかりのメイクをしていた。この集団では綾乃の扮装が普通に見える。暢子はほとほと自分の凡人さ加減を痛感した。暢子は一次会で挨拶し損ねていたマンガ家に頭を下げ、隣のスツールに浅く腰かけた。
「ご無沙汰してました、アマモト先生。いつも作品は拝見してるんですけど」
「ノブさんはこうした集まり、苦手だものね」
「恐縮です」
この店に一緒に流れてきたマンガ家たちはとみな長いつき合いだった。暢子がアマモトと話していると、綾乃が暢子の鼻先にグラスを突き出した。
「呑んでるかあ、田崎ぃ」
 乱暴に差し出された綾乃の手をそっと包み込んで、暢子は白く細い指からグラスを受け取った。落とさないよう、割れたグラスの破片がこの白い肌に深紅の模様を描き出すことのないよう、慎重に。
「呑んでる。呑んでるよ、綾乃。……綾乃、何だかオッサンみたいだよ」
「悪かったな、オッサンで」
 綾乃は拗ねて赤く塗った唇を尖らせた。
「ノブさんがセンセイのこと名前で呼ぶの、初めて聞いたあ」
 先月からミハルに出入りしているいずみが、そう甲高い声を上げた。サブアシスタントの亮子が止めようと横で慌てた。暢子は亮子に「いいよ」と軽く笑ってみせ、小さな声で言った。
「仕事のときと、使い分けてるから。もともとは、『田崎』と『綾乃』」
 綾乃が会社組織を立ち上げ、暢子がマネジャー業に徹すると決めたとき。あのときから暢子と綾乃は、「ノブさん」と「センセイ」になった。
 綾乃が上機嫌で暢子に言った。
「田崎。あかりがな、晴月社の『ぷりてぃ』で連載だって」
「ああそう! よかったねえ、あかり」
「はい、ありがとうございます」
 派手な格好をした漫画家たちの中で、若草色のスーツを身に着けた木野あかりが控えめに微笑んでいた。綾乃ほどの華やかさはないが、綾乃が牡丹ならあかりはさしずめ鈴蘭といったところだ。芯のしっかりした努力家だった。
「もう『あかり』なんて呼べないね。先生とお呼びしなくちゃ」
「やだノブさん。ノブさんにそんなこと言われたらどうしていいか」
 あかりは嬉しそうに頬を染めて恐縮した。暢子はそんなあかりの様子に目を細めた。
(そうか。それは、嬉しい酒だねえ、綾乃)
 綾乃は自分のペースで周囲を振り回す「王さま気質」だが、面倒見のよいところもある。一度自分の下についたものはとことん大事にする。デビューこそ早かったがなかなか軌道に乗らないあかりを心配して、綾乃があれこれしてやっていたのを暢子は知っている。それだけに綾乃の喜びもひとしおだろう。
 連載ともなればその雑誌の看板の一枚になるし、何より収入が安定する。読者の目に毎月触れ、固定ファンも付きやすい。単行本の売れ行きも違ってくる。業界のトップランナーになるためには、まず連載ありきだった。
 綾乃は上機嫌であかりの肩を叩いた。
「ピンチになったら、俺も修羅場に呼んでくれよ」
「そんなセンセイ、恐れ多い。……でも、お願いします」
 あかりはぴょこんと頭を下げた。
「そのときはミハル使えばいいじゃん。みんないるからさ。メカでも効果でも、何でもやって貰えるよ」
 そう暢子が言うと、合流組が「そうだそうだ」と同意した。綾乃の人柄のせいか、ミハルの連中は卒業生も含めて仲がよい。その場にいた他のマンガ家たちが、羨ましそうに彼女らを眺めた。
「綾乃なんてさ、最近人物しか描いてないから、定規の使い方忘れたもんね」
 暢子はからかった。
「何おー。黙っておれば。俺様の『絶技……必殺おどろカケ』を忘れたかっ」
「それ定規要らないじゃん」
 一同どっと大爆笑。
 綾乃も暢子も、久し振りに腹の底から笑った。昔に戻ったようだった。ひとしきり笑ったあと、綾乃は目を細めて暢子に言った。
「だが軟らかな曲線を引かせたら、俺は到底お前には敵わん」
「ええっ、ノブさんってマンガ描くんですかあ」
 いずみが黄色い声を上げる。亮子がまた慌てていずみを黙らせようとするのを、暢子は笑って押し止めた。
「いいよ、亮子。昔のことだよ。なあ、綾乃」
 綾乃も手許のグラスを揺すって笑っていた。いつものキツい目がアルコールのせいか緩んでいた。その眼差しは暢子の胸をじんわりと甘い何かで満たした。久しぶりにこの甘さに酔ってしまおうか。
 アマモトが尋ねてきた。 
「でも、どうして綾乃先生は『綾乃』で、ノブさんは『田崎』なの」
 暢子と綾乃は顔を見合わせ、くすっと笑った。
「ああ、それはだな」
「どうしても慣れなかったんだよ、名字の呼び捨てって。あの頃寮生はみんな名字だったよね、呼び合うの」
「おおよ」
 ふたりの通った山奥の学院は寮生が多く、女子校だから殊更にか、寮には明治大正の空気が色濃く残っていた。生意気盛りの少女たちの、精一杯の背伸びの形。
「つまり、『バンカラ』だな」
「綾乃、それ、今のコには分からない」
「お、そうか」
 親の家から通学した暢子はどうにもそれに馴染まなかったが、高等部から編入してきた綾乃は数週間のうちにすっかりその風習を身につけた。中等部から鍛えられた猛者たちとじきに見分けがつかなくなったものだ。
「へえ、じゃ、センセイとノブさんって、そんなに長いつき合いなんだ」
「ああ、そうだな。ええと。ひい、ふう、みい……」
 綾乃がふざけて指を折る。暢子は即答した。
「二十年」
「はっきり言うなよ。歳が分かる」
「何を今更」
 ふたりのかけ合いにあかりが微笑んだ。
「おふたり、本当はすごく仲がいいですよね。仕事場でも、別にビジネスライクにしなくっていいのに」
 暢子はぐっと返事に詰まった。綾乃が言った。
「いやあ。やっぱり、示しがつかんだろう、ひとを使うようになったらば。まして俺たち会社勤めってしたことないし。それならいっそ、きっちり切り替えよう、と」
 エライ、ひとの上に立つ人間はこうでなくっちゃ、と調子のいい亮子が囃した。
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