二、一九九〇年 学院―1 ②

文字数 2,345文字

 銀のトレンチコートを共布のベルトでキュッと締め、苺のアイスクリーム色の帽子からまっすぐな黒髪が肩まで垂れる。こんな田舎で見かけることのない、紐で編み上げられた革のブーツ。
 春の風に巻き上げられ、顔にかかる髪をうるさそうに手で払いのけた。その肌の白さと指の細さが、暢子の視線をとらえて離さない。暢子は魔法にかけられたように、その勝ち気そうな瞳から目を離せなかった。
 ふいに、紅い唇が動いた。
「美術室って、ここ?」
 外見からのイメージより低い声がそう訊いた。暢子はどぎまぎして口籠もった。
「え。あ、はい。そうですけど」
「ふーん」
 横柄なその物言いから、暢子は新しい先生かと思った。そのひとは窓から首を突っ込んで、無遠慮に中を観察した。ひと渡り見回したあとで、おもむろに暢子に目を向けた。
「こんな山奥に、よくガッコ―なんて造るよね」
 口の端をにやっと上げて、ぶっきらぼうにそう言った。
「えっ」
 まともに返事のできない暢子を前に、唄うようにそのひとは続けた。
「そう思わない? 思わないか。『住めば都』って言うもんね。何年もここにいれば麻痺しちゃって、もうそんなこと思わない」
 風が大きく吹いた。そのひとは、淡いベージュピンクの帽子を押さえた。黒い髪が暢子の鼻先をかすめた。爽やかな森の香り? 馥郁とした花の香り? 暢子は気が遠くなった。
 リラの精。そんなものがあるとすれば。
 その妖精が人間の姿で現れることがあるとすれば。
 それはきっとこんな具合だ。
 ぼんやりとそう思いを巡らす暢子の耳の奥に、そのひとの声が残った。
(また、会うかもね)
 そのひとは風に吹かれるように軽やかにリラの林へ消えた。銀のコートが見えなくなっても、そのまま暢子はその背を見つめ続けた。
 
 新学期が始まった。
 中等部で一緒だった通学生のうち、幾人かが消えた。彼女らは麓の、地元の高校へ進学していった。暢子はそうしなかった。
 運良く親の経済状態も悪くなく、好きな絵も描ける。面倒なら、大学も系列の私大にそのまま進むこともできる。受験勉強に貴重な時間を費やすのは真っ平だった。暢子にはすることがあったからだ。
 帰りのHRが終わると美術室に飛び込んで石膏像を描き、集中力が途切れて仲間同士のおしゃべりが始まる頃には鉛筆をしまう。通学バスに飛び乗って自宅へ帰り、真面目な暢子が自室にこもっていると、親たちは勉強していると安心する。
 いい循環だ。
 暢子は春休みに見たあのひとの姿を、幾度となく思い出した。
 自室で机に向かっていると、白い紙の上についあの都会風のコートを描いてしまった。苺のアイスクリームのように甘い色をした帽子。そこから流れるように風に吹かれた黒い髪。
 そんな人間(? リラの精?)が存在したら、どんな物語を生きるだろうか。
 あんな容姿に生まれつくというのは、一体どんな心持ちか。暢子には見当もつかなかった。
 見当がつかないから、自由に妄想できる。
 暢子は少女マンガ雑誌主催の新人賞を狙っていた。春のにはもう間に合わないから、次の夏の締切に向けて仕上げる。ストーリーを練っている間は作画量が少ないので、部活でデッサン力を底上げだ。
 昭和の時代に登場した多くの少女マンガ家たちのように、在学中にデビューしたい。そうでもないと、多分親を説得できない。
 それから、学生展に出品する油絵の構想と。
 ひとりで机に向かっている時間が、暢子の至福のときだった。
 

 あんな派手な顔立ち、そのうち嫌でも目に入る。焦ることはない。
 暢子はそう思って待っていたが、始業式でも全校集会でも、体育でも移動教室でも、あの姿を見ることはなかった。
 新作の構想を追うあまり、幻覚を見たのかと疑い始めた頃。
「入部、したいんだけど」
 五月。花盛りのリラの林に、再びそのひとは現れた。
「美術部のひとでしょ」
 学生展に出す作品のため、暢子はイーゼルを担いで、あちこち移動しながらスケッチを重ねていた。リラの枝の隙間から現れるリラの精。イメージに近い梢を見つけてスケッチしていると、梢ががさがさと揺れた。
 忘れもしない、あの黒髪。
 銀のトレンチコートではなく、制服の濃いグレーのスカートに、ベストを省略して同色のジャケットに身を包んで、胸の青いリボンタイは、蝶結びではなくあえて雑なネクタイ結びにしてある。
 学院では、始業式や終業式などの式典以外は、略装が認められている。暢子は今日は、グレーのスラックスにV首のセーター。咽許には赤いネクタイを締めていた。
 違和感。
 そうだ。タイの色が違う。
 青タイの着用は、特別な係を仰せつかったことを示す(しるし)だ。
 似たような、だが自分とは異なるディテールを持つ姿と数秒向き合っていると、高飛車な声が降ってきた。
「耳、聞こえないの」
 不思議と声色には棘がない。暢子は居眠りから覚めたようにびくっと肩を震わせた。
「ごめん、聞こえてる。入部ね」
 暢子は先立って美術室へ案内した。がたぴし言う木の引き戸を開けて暢子がそのひとを招じ入れたとき、美術部の先輩たちは、入ってきた人物を見て絶句した。しばらくして副部長が口を開いた。
「田崎、そいつは何だ」
 副部長は当然ながら寮生だ。暢子は端的に答えた。
「入部希望です」
 部室の空気がざわっと揺れた。
 暢子には先輩たちの動揺の意味が分からない。
 案内の暢子の背後からぬっと前に進み出たそのひとは、後ろ手を組み、すっと背筋を伸ばして足を開いた。
「高等部一年五組藤村綾乃、楓寮二階所属。美術部入部を希望します」
 そのひとは腹の底から響く声でそう宣言し、並み居る先輩たちを睥睨(へいげい)した。
 暢子は唖然とした。たった一ヶ月でこの学院の寮生活に、こうも順応する人間がいたとは。
 それもあの爽やかなリラの精が。
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