三、二〇一〇年 東京―2 ①

文字数 3,323文字

 暢子はチーフアシスタントの登紀子と晴月社を訪れた。アシスタントの採用面接をここでするのだ。
 綾乃が来るはずだったが、仕事が押しているのと、不採用者に綾乃の面が割れるのを(おもんぱか)って変更した。「この子なら」という子が見つかったら、面接後ミハルに同行させる。最終選考は仕事場での働きぶりを見て、綾乃が行う。
 希望者には事前に課題を提出してもらい、候補を三人に絞っていた。暢子と登紀子は、三人の履歴書と提出させた課題を手に、軽く打ち合わせをした。
 面接会場に借りた会議室で、暢子が一枚の原稿をぺしっと叩いた。
「わたしはこの子がいいと思う。ペンタッチが藤村綾乃の画面になじむ」
 風に揺れる木々とその枝の下に佇む人物が描かれていた。画面を乾いた春の風が吹いていた。
「タッチは、ある程度描けるコなら、いかようにも調節するって。それよりもこっち。『建物を描け』って言われて、鳥瞰で皇居描いてくる、普通? この感覚。面白いこの子」
 登紀子が別の原稿を振った。
「クリエーター魂は確かに買うわ」
 暢子は呟いた。
 暢子が求めているのは使えるアシスタントだ。それもすぐにデビューして出ていってしまうのではなく、それなりのスパンで藤村綾乃を支えてくれる人材だ。
 ノックの音がして北山が顔を出した。
「応募者の方々揃いました。ひとりづつ、お通ししてよろしいですか」
「はい、お願いします」 
 北山には本当に面倒をかけている。この面接だって、北山がつき合う必要はなかったのだ。社の事務員にでも任せればいいものを、彼自身があれこれ動いてくれた。
 来る予定だった綾乃のためだろうか。
 応募者は三者三様で面白かった。春の木々と人物を描いてきたものは、カラフルな街着をおしゃれに着こなした二十歳。皇居を描いてきた方は、かっちりした身体つきに紺のスーツで現れた。
 三人目は、送ってきた課題は可もなく不可もなくといったところだったが、会ってみるとハキハキして明るい。福住書店の綾乃の担当である長沼が抱えている新人で、この春親許から出てきてマンガ家修業中とのことだった。
 登紀子が履歴書を見ながら尋ねた。
「高校を卒業して現在ひとり暮らし、と。もしウチが決まったら、よそとかけ持ちはしにくくなるけど、暮らしていけるの」
「はい、家賃安いとこ見つけましたから」
 暢子が横目で確認すると、最寄り駅はミハル製作所から二駅先。近所だ。暢子は改めて名前を見た。篠原美香留。「みかる」と読ませるらしい。今どきのイカれたネーミングだ。
「篠原さん……。これはペンネーム?」
「あ、いいえ」
 その子はスッと背筋を伸ばし、笑顔で口を開いた。
「ウチの母が、あ、クリスチャンなんですけども、つけました。天使の名を取って。『ミハエル』です」
 暢子は登紀子と顔を見合わせた。
「だからわたし、藤村先生の大・大・大ファンなんです。『天使の翼は紺青に輝く』、あれを読んで育ちました。そして、マンガ家になろうと決めたんです。どうか、お願いします」
 わたしを藤村綾乃先生のアシスタントにしてください。
 そう言って、その子はパイプ椅子から転げ落ちそうに深く頭を下げた。
「どうする」
 応募者を全員下がらせてから、暢子は亮子の顔を見た。
「『どうする』って……」
 登紀子も困惑したような表情を暢子に向けたが、うきうきと面白がっている様子は隠しきれない。
「ああ言われたら、採るしかないでしょ。何てったって『ミハエル』だもの」
 暢子は咽の奥で「うぐぅ」とくぐもった息を漏らした。
「天使」と名付けられた人造生命体。宇宙開発時代に、それらを造り出した人間とそれらとの受難と葛藤を描いた「天使の翼は紺青に輝く」は、マンガ家藤村綾乃がそのタイトルの通り大きく羽ばたいた記念碑的作品だった。
 少女マンガの世界で、SF作品は特別な意味を持っている。まずなかなか描かせてはもらえない。短いページ数だと設定や世界観を伝えられないし、編集部の求める「少女の成長」以上に「面白い」と読者に感じさせる実力が必要だ。読者アンケートで高評価を取れるマンガ家だと認められ、綾乃はついに自身初のSF長編の連載を許された。
 作品中の生命体のコードネームが「ミハル」だった。大天使ミハエルの表徴だと作中で描かれている。壮大な世界観の中で繰り広げられる、繊細で悲しい、美しい物語。悲劇でありながらも未来への希望を持って閉じられるその結末は、若年層への影響が大きかった。現ミハル製作所のメカアシであるリンも、「天使」を読んで進路を決めたひとりだ。
 そして、暢子に自身でペンを持つのは止めようと決心させた作品だった。
 暢子は綾乃の作品世界を愛した。暢子には決して到達できない遠い地点へ、綾乃は、綾乃なら、辿り着くことができる。
 ならば、暢子は綾乃の乗りものでいい。綾乃の推進力を最大限発揮するための。空気抵抗を減らし、加速感を快適にして、綾乃がどこまででも行けるように。暢子はそのためなら何でもするとそのときに決めたのだ。以来ふたりは、公式には「センセイ」と「ノブさん」になった。
 あれから九年。
 長いのか短いのか。暢子には分からない。ただがむしゃらにやってきただけだ。
 技術面でチーフのダメがないならいい。暢子はこの篠原美香留を連れていくことにした。
「ノブさん、ああいうこわいものなしの、キラキラ光る強気な目、大好きだもんね」
 登紀子がからかうように肘でつついてきた。そちらへは答えず、暢子は北山に残りのふたりに手渡すよう、複製原画とグッズの入ったお土産を渡した。福住書店の用意したものだった。
 そうと決まれば急がなくては。今頃ミハル製作所では仕事の真っ最中だ。
 新人候補を仕事場へ連れていく途中、暢子の携帯電話が震えた。
「はい、田崎です」
「十二夜」の綾乃の担当、池野からだった。綾乃が「十二夜」で不定期に描いている連作ものについて、次の原稿は来月の二十日でどうか、と言ってきた。
「来月ですか? いきなりどうしたんです」
 晴月社での新連載の企画を固める時期に。不可能だ。向こうから一方的に締め切りを設定するような切り出され方も初めてだ。
「綾乃センセイからご連絡いただいて。『次の話さくっと描いちゃうから』って」
 耳に響く池野の高い声が、「あれ、ノブさんとお決めになったことだと思ってましたけど」と困惑気味に続けた。
(綾乃のヤツ……)
 暢子は青くなった。何を暴走しているのか。
 やる気になるのはいい。だが、天下の藤村綾乃といえど人間だ。物理的に限界というものがある。手当たり次第に引き受けて、持て余すことにでもなったら。そうなったら、日程調整に手間取るのはこちらの方だ。
 暢子は、この話はいったん保留にして、こちらからの連絡を待って欲しいと頼んで電話を切った。
「どうしたの。池チャン、何だって」
 登紀子が助手席から心配そうな目を向ける。
「センセイが、『グリーン』の次の話、来月描くって言ったんだって」
 暢子は後部座席を気にしながら、小さな声でそう答えた。
「ええーっ!? 何か勘違いしてんじゃないの。来月ってったら、まだ『――戦い』終わってないんだから」
 普段の月なら入れれば入る仕事である。だが今は新連載の構想を練らなければならない。それはチーフも当然把握している。
「何だか……すっかり暴走モードだねえ」
「お登紀さんも、そう思うかい」
「ああ。気合い充分なのは頼もしいけどね」
「うん」
 暢子は眉をひそめた。
 登紀子が、
「あんたたち、最近ちゃんとコミュニケーション取れてんの」
と訊いた。
「あの暴れ馬の手綱、しっかり握っててくれなきゃダメじゃないか」
 あのワガママ姫さん、あんたの言うことしか聞きゃしないんだからさ、と登紀子は優しい口調でつけ加えた。
 綾乃は大人しくひとに手綱を握らせておくような女ではない。それを知った上で登紀子はあえてそう言うのだ。
(綾乃が聞き入れるのはあんたの言葉だけ。あんたはお姫さまの特別なんだから)
 その言葉が暢子の励みになるように。たとえそれが事実でなくても。彼女なりの気遣いだ。
 暢子はビルに呑まれていく夕陽を横目で見上げて呟いた。
「……最近は、そうでもないみたいよ」
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