一、二〇一〇年 東京―1 ④

文字数 2,314文字

 初めて会ったとき、綾乃は、まだ咲かないリラの下に立っていた。
 すらりと長い手脚に都会の匂いのする春のコート。いわゆるお嬢さまの類を見慣れていた暢子でも、思わず見とれてしまう姿だった。
 その年の五月、WHOの国際疾病分類から「同性愛」の項目が削除され、夏には中東で戦争が始まり、浮かれた世間のお祭り騒ぎが崩壊を始めた。丘の上の学園に、ふらりと綾乃が現れたのは、そんな年だった。出身地の中学校を卒業し、高等部から転入してくる、外部入学生のひとりだった。
 曇りのない勝気な瞳をした十五の綾乃。脱色もパーマもない黒髪がさらさら風に揺れて、固くごわごわした癖毛の暢子はそれが羨ましくて憧れた。
 三十五歳の今の綾乃は、あの頃のような子鹿のような細さはなく、緩やかな曲線が優美なラインを描いていた。腰周りや腹の辺りの柔らかなふくらみは抑揚のあるおとなの女性に相応しい。赤いドレスの胸許は、それを抱きしめたときのマシュマロの質感を生々しく想像させる。本人の気にしている目の下のシワも、傍から見れば愛らしい。
 修羅場明けのやつれた姿を気にした綾乃。暢子はそこにボタンを掛け違ったような違和感を感じた。あのとき綾乃が気にしたのは、この北山の視線だったのか。
「ちょっと、ノブさん。聞いてんの」
 綾乃が苛立たしげに暢子を呼んでいた。ノブさーん、と他のマンガ家も小さく手を振る。暢子は我に返った。
「ああ失礼失礼。何だっけ」
「だから、久し振りだからこの面子でどっか呑みに行こうって。ノブさん、どっか、いいとこ知らない?」
 綾乃は上機嫌だった。アルコールのせいもあり、頬と目の周りにうっすら赤みが差し、今日の衣装と相まって何とも麗しい。
 役員の挨拶で祝賀会は終了した。
 このメンバーで行ける店。暢子は思案した。仕事が仕事なだけに、日頃の鬱憤を晴らさんと、彼女らが繰り出せばいつも大騒ぎになる。店や他の客に迷惑をかけるだけでなく、濃いファンは彼女らの顔を知っている。どこでどんな悪評が広まるか。無名の頃には考えもしなかった気苦労だった。
 北山がいい店を知っていると言った。これ幸いと暢子は北山に下駄を預けた。タクシーをつかまえて、マンガ家たちを順に乗せていくとき、暢子は横目で抜ける隙をうかがった。
「ノブさん、行きましょうよ」
 暢子ともつき合いの長いマンガ家、木野あかりに見つかってしまった。
 木野あかりは十代の頃綾乃の許にいて、サブアシスタントに昇格してすぐの頃、晴月社の「ウェンディ」でデビューし独立していった。彼女に見つけられては逃げられない。暢子はあかりの後から車に乗り込んだ。
 
「あ、いたいた!」
「こんばんはぁ、センセイ方」
 店のドアが開き、若い女性が三人入ってきた。狭い店内が更に賑やかになる。
 綾乃がふざけて顔をしかめた。
「ちょっとぉ、なあにあんたたち。どうしてここが分かったの」
「あかりセンセイが教えてくれたんですぅ。わあ、あかりセンセイ、お久し振りー」
 サブアシスタントの亮子があかりの手を取った。あかりも古い馴染みの肩を抱いた。
 綾乃のところのアシスタント達が合流したのだ。亮子のほかには、新人の吉森いずみ、メカアシの狩谷(リン)がやって来ていた。いずみとリンは学生である。きゃいのきゃいのと、店中に高い声が響き渡る。
「あかりセンセイ、またウチのスタジオに遊びに来てえ」 
 亮子が言った。亮子は暢子には覚えられない変わったペンネームでマイナー誌の仕事を始めたが、まだまだ綾乃の許を離れそうにない。
 奥の席で綾乃が片眉を上げた。
「亮子、『スタジオ』じゃないって。『製作所』だって。何度言ったら覚えるのこのコは」
「だぁって、センセイ」
 綾乃にたしなめられても、亮子はつらっとしたものだ。
 綾乃の仕事場は、その名を「(株)ミハル製作所」という。「ミハル」の名は、綾乃のヒット作に由来する。少女マンガ誌では珍しい、SF作品のヒットだった。ミハルとは作品中のアンドロイドのコードネームである。
 メジャー誌デビューを果たして何年目のことだったろう。当時専属契約を結んでいた福住書店の「週間フルール」で、初めて綾乃の描きたいSFテイストの作品の連載が許された。
 少女マンガには既製の(ルール)が存在する。読者の少女たちが共感できて、少女たちの夢や憧れを満たす、可愛らしい画面であること。主人公の少女たちが、恋愛や友情を通じて成長するさまを描写すること。そんな編集サイドの要求を充たす作品をコツコツと発表し続けて、ファンを増やし、アンケートの順位を上げていかないと、意欲作の企画を持っていっても通らない。デビュー以来注文を的確にこなし、職人技を磨く数年を経て、ようやく得られたチャンスだった。それは綾乃の初期のヒット作の一本となり、綾乃はこの作品で少女マンガの枠を越えたファンをつかんだ。
 久し振りに会う木野あかりと亮子たちは、大喜びで近況を報告し合った。やれセンセイがこうしたの、前回の修羅場は本当に危なかったの、あかりが植えていった水仙は今年も芽を出したのと、話題は尽きない。
 木野あかりもミハル出身だった。綾乃のところには二年ほどいたろうか。高校を卒業してすぐやって来て、本名は何と言ったか、初めからペンネームで通していた子だった。高校在学中からメジャー誌に入選歴があり、ミハルにも編集部の紹介で来た。早くからプロになると決めていたのだ。こういうところは綾乃と同じだ。
 だが、綾乃は本名も藤村綾乃である。何と派手な名前であることか。(はな)からこの仕事に就くと決まってでもいたように。
 若い連中が合流して賑やかさが増した。暢子は軽い頭痛とともにカウンターへと避難した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み