七、二〇一〇年 東京―4 ②

文字数 2,356文字

 綾乃も秦野も、よくしゃべり、よく食べた。元気のいい十代の頃とふたりはあまり変わっていない。
 綾乃はガラスの猪口を持ち上げたまま空中で止め、言った。
「あー、気を悪くするなよ? あの、深谷の奴はどうしたんだ。卒業して、お前ら一緒にイギリス行ったろ」
 暢子はひやりとした。さっきから自分も気になってはいた。自分にはそう斬り込む度胸はなかった。秦野はにこやかな表情を変えなかった。
「あいつならそれこそ結婚したよ、早い時期に。そうだな……七、八年前だったな」
 結婚後は日本で暮らしてると思うけど、連絡は取ってないから分からんな。そう秦野は明るく言った。
「もう過去のことって訳?」
と恐る恐る暢子は訊いた。
 秦野は暢子に、
「君は今でも優しいんだね。そんなに気をつかってくれなくてもいいんだよ」
と笑った。
 秦野に見つめられ、微笑まれるとどきっとする。当時秦野は少女しか存在しない狭い世界で、みんなの、特に通学生と下級生のアイドルだった。この秦野は綾乃と、そしてオマケに綾乃にくっついていた暢子とも、戦友のようなものだった。そして今の会話にでてきた深谷さん。線の細い彼女と秦野はとても仲がよかった。
 破局が訪れたのだろうか。あんなに親密だったふたりに。
 結婚、したのか。そしてこの秦野も。
 暢子がぼんやりと考えにふけっていると、綾乃が不作法にも箸で暢子を差した。
「ほら、こいつが気にしてるから、もうちょっとサービスしてやれよ。お前らの逃避行の顛末をよ」
「あ、綾乃!」
 慌てる暢子を尻目に、綾乃は秦野に対しても鷹揚に笑っていた。相手が旧友とはいえ、その態度はいくらなんでも失礼だ。暢子は気を揉んだが、秦野は何とも思っていないようだった。
「ははは。『逃避行』なんて犯罪者のようだね。俺たちはちゃんと正規の手続きで留学したんだけどな。じゃ、しゃべるから、もう一件つき合ってくれるかい? 少し酒が入った方が話しやすいんだけど」
 暢子は計画通り同じホテルのバーへとふたりを誘導した。
 静かで夜景が見渡せる。そこへ、中身はどうあれ、それぞれ個性の違う美女ふたり。暢子はピンクのワンピースから伸びた綾乃の脚に見とれながら、自分は場違いな処に紛れ込んだ気がしていた。通学生として学院に通っていた頃のように。
 綾乃は仕事の成果を、秦野はかつての恋の顛末をそれぞれ語った。秦野のそれに比して綾乃の話は短いものだった。どんな苦労をしたところで、第三者に語って聴かせればそうなってしまう。どこへ行く訳でもなし、生活に変化らしい変化はとくにない。マンガ家とはそういう仕事だ。そして更に暢子には、語るべきことすらなかった。綾乃が先に全て話してしまったからだ。暢子に自分の仕事、自分の人生と呼べるものはない。
「ある意味、君らみたいのが究極のカップルなのかもしれないな」
 ひとりごとのように秦野がそう呟いた。暢子は赤くなって下を向いた。綾乃は「ふん」と鼻を鳴らしてごぶりとグラスを空にした。
「俺らは一緒に仕事場に泊まり込んでも、絶対ひとつの布団には入らんぜ」
「いやいやいや。セックスはパートナーシップの絶対条件じゃない。セックスレスでも仲よく幸福な夫婦なんて、ごまんといるだろう」
「そうしてお前は男と結婚するってのか」
「ははは。ついに逃げられなくなってしまった」
 綾乃は鋭く斬り込んだ。
「そんなことできるのか、お前に」
 秦野がレズビアンであることは、二十年前には事実だった。今、三十代半ばの秦野はスーツの下、スカートの裾からのぞく膝を、行儀よく閉じて笑っていた。
 秦野も「大人」になったということか。
 暢子は手洗いに立つふりをして席を立った。
 通路の途中では、窓が広く穿たれていた。都会の灯りはメリハリなく四方に拡がり、だだっ広いだけだった。
 これが田舎なら、例えば暢子の故郷の山あいの街なら、家々の明かりは可愛らしく並んで、楕円のような街の輪郭を形作っているものなのに。
 暢子は先日アップした「フューネラル・グリーン」の登場人物たちを思い返した。若い頃愛した女性と引き裂かれた青年が、失意のうちに海外へ飛び立つ。彼の傷心は月日によっても癒されない。十数年後彼の前にひとりの日本人が現れる。何とはなしにその世話を焼くかつての青年は、愛した女の幻をそのうちに見る。彼の孤独は癒されていい。
 だが、来月着手する後編では、愛された筈の「類」は抱きしめられたすぐあとに、自分が愛されたのではないことを悟り時計塔から飛び降りる。青年の孤独は繰り返され、決して癒されることなく話は終わる。
 綾乃は「その方がいいような気がした」と言った。
 幻を引き受ける人物として「類」を設定したのは暢子だった。「類」によって主人公の魂が救済される筋立ても可能だった。だが綾乃はそうしなかった。徹底的なリアリズムが綾乃の作品世界を貫いていた。綾乃は甘っちょろい救済など認めない。そんなに簡単に救われるなら、物語は必要ないと言わんばかりだ。
 救われないことばかりなのは現実だけでたくさんだ。
 現に、綾乃は暢子を救ったりしない。一生かかってもそうはならない。暢子には分かっていた。第一、暢子に優しく手を差し延べる綾乃など、暢子の愛する綾乃ではない。暢子が心底愛しているのは、ひとをひととも思わない、傲岸な、そのくせ無邪気で愛らしい、矛盾したリラの精なのだ。人間ですらない。
 だからいっそ、人間であって欲しくない。
 男に恋してそのために一喜一憂する、そこから新たな活力を得る、普通の女であって欲しくなかった。
 暢子の目から涙が落ちた。
 よくしつけられたボーイが音もなくやってきて、暢子に手洗いの場所を案内しようとした。暢子はいくどか頷いてその場から離れた。
 綾乃。
 それは暢子の女神の名前だった。
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