一、二〇一〇年 東京―1 ③

文字数 3,059文字

 どうもひとの多く集まるところは苦手だ。
 北山はなかなか見つからなかった。知らぬ振りを通せない義理ある先に挨拶して回りながら、暢子は会場をうろうろした。宴会場を出て、「晴月社漫画賞受賞祝賀会会場」と書かれた案内板を通り過ぎても、北山はいなかった。
 手にした薄いジントニックを舐めながら、暢子はこの場を最短で脱出する手筈を頭の中でシミュレートしていた。だが、北山という肝腎なピースがはまらないのだ。
 暢子の知らないところで、暢子がマネジメントするマンガ家と担当編集者が何か会話を交わしたのなら、その内容を知っておかないと。
 綾乃は口を割らなかったが、何かあったのは明白だった。
 先週のある夜、自宅で作業をする予定だった綾乃に、進捗確認を兼ねて電話した。綾乃は家にいなかった。
 さり気ない口調を装って暢子が「どこにいたの」と尋ねても、綾乃は決してしゃべらなかった。
 仕事漬けの綾乃が行くところといえば、コンビニか、深夜まで開いている本屋か、たまに行く駅前のビストロだ。暢子には、綾乃がそうしたところへ行きたがるタイミングが分かる。ネームに詰まって休憩がてら甘いモノを買いたくなる、テレビをつけるには目が疲れすぎている、気持ちにゆとりがあるのでおいしいものを食べたくなる、などなどだ。先週のその夜は、それらのいずれにも当てはまらなかった。
 暢子にはたったひとつ心当たりがあった。勘、と言ってもいい。
 北山だ。
 手にしたグラスで氷が鳴った。こうした集まりを楽しんでいる演技も限界だ。
 綾乃はこうしたパーティが大好きだ。社交的で毒舌家、おまけにその美しさで、綾乃は目立った存在だった。業界内にもファンは多い。
 回転の速い綾乃のこと、歯に衣着せぬ鋭いトークは煙たがられることもあるが、綾乃が傷つけられる心配はなかった。仲のよい同業者や、もめ事を防ごうとする編集者に守られるし、何より綾乃の鉄のメンタルはちょっとしたことでダメージを受けたりしない。だから暢子の仕事はと言えば、パーティ好きの綾乃のために、スケジュール調整をすることのみで、パーティ会場への同行は不要だった。
 そう。本来なら、暢子はここへは来ずに済むはずたったのに。
 宴会場から華やかな笑い声が響いてきた。さっきから明るい綾乃の声がしている。またひとを食った辛辣なジョークでも飛ばしているのだろう。それを気の合う同業者たちが大喜びして、笑いさざめいているのだ。願わくば、それが誰かの気に障ることのないように、大御所のご機嫌を損ねるような際どい当てこすりでないようにと暢子は祈った。
 会場を隈なく見て回り、諦めて暢子は受付近くの椅子にかけた。北山はここにはいない。
 まあ、待っていればそのうち現れるだろう。
 何分待ったろうか。果たして北山は階段を上ってやってきた。暢子は溜息を漏らした。
「捜しましたよ。いらっしゃらないのかと思いました」 
 暢子が声をかけると、北山はいつもの人懐こい笑顔で寄ってきた。
「ずっといるにはいたんですけどね。あれですよ。その、高柳先生、ちょっと荒れちゃって」
 北山は頭を掻いた。暢子は理解した。少女マンガ部門の受賞を逃した高柳瑶子だ。
 高柳瑶子は、何年か連続でこの賞を逃している。今年はよりにもよってあまり関係のよくない、なるいなるみが受賞した。デビュー当初から何かと比較されるふたりだった。
 藤村綾乃もノミネートされていたが、綾乃はこのふたりよりデビューはあとで、歳も三つ四つ下。昨年から今年にかけては目立った意欲作もなかった。今年のノミネートも、まあ、数合わせのようなもので気楽だった。
 高柳がこの会を滅茶苦茶にするのを防ぐため、数人の編集者が動員されていたのだろう。仕事とはいえ気の毒なことだ。暢子は軽く同情した。
「大変でしたね」
 北山はいたずらっぽく舌を出した。
「早めに『高柳先生二次会』にお移り頂きました。かねてからお気に入りのウチの若手をお伴につけて。これでもう安心ですよ」
「まあ、それはそれは」
 編集者がこうした内幕を話してしまっていいのだろうか。暢子は北山の表情をうかがった。苦笑した北山の顔が一瞬悲しげに歪んで見えた。意外だった。
 そんなにナイーブな男だとは思わなかった。こんなんで、よりナイーブなマンガ家相手の仕事が務まるのだろうか。世間ずれした苦労人もいるにはいるが、どちらかというと、実社会の経験の少ない、独特な世界観を持つ人種が多い業界だろうに。
 まあ、北山自身のことはいい。藤村綾乃に挨拶させなければ。
「先日は大変失礼をいたしました。何度も日延べしていただいた揚句、締切日にお約束を入れてしまうなんて。マネジャー失格でした」 
 暢子は約束を反故(ほご)にした非礼を詫びた。北山はさきほど見せた悲しげな顔が見間違いだったかと疑うほど、快活な笑顔で、
「いえいえ。お目にかかりたいとご無理申し上げているのはこちらですから。田崎さんはどうかお気になさらないでください。もちろん藤村先生も」
と応えた。お邪魔にならないタイミングまで、何度でも待ちますからと。
 暢子は北山を綾乃のところへ誘導した。
「藤村先生、お世話になっております。『ウィンディ』の北山です」
 綾乃が振り返った。ゆるやかなウェーブがふんわり揺れて、辺りがぱあっと華やぐ。大輪の牡丹が開いたがごとく。
 真っ赤なドレス。広めにくられた胸許の白さとのコントラストの鮮やかさ。
 想像していた通りの映像が、こんなに暢子の息を詰まらせる。
 綾乃が今夜このドレスを着るのは知っていた。こんな素っ頓狂なドレスをわざわざ選んだ綾乃の意地悪な瞳を覚えている。たまに行くブティックで、トルソーに飾られた赤い服に、暢子は、
(こんなの日本で着る人間がいるのか)
と目を剥いた。綾乃は暢子のその一瞬の表情を見逃さなかった。試着すると言って聞かず、着てみるとサイズは綾乃にピッタリだった。即買いだった。
 いつも綾乃は、暢子の驚くことをする。あきれかえってものも言えずにいる暢子を、面白そうに眺めている。楽しそうに、ばかにしたように。このときも、暢子のあきれ顔を、綾乃は充分堪能したろう。
 綾乃が笑うと、暢子の鼓動は一拍飛ぶ。
 そんな笑顔も、とてもキレイで。
 普段仕事仕事で忙しい綾乃は、暢子に笑顔を見せるヒマもない。笑ってみせる理由もない。だからこそ暢子は、綾乃が自分に笑顔を向けるそんな瞬間を手放せない。
 自分の心臓がギュッとつかまれるあの感覚。それが唯一、暢子に生きる意味をくれる。二十年、自分が離れられずにいる甘い蜜。
 綾乃は暢子には一瞥もくれず、礼儀正しく頭を下げた北山に言い放った。
「いいなあ、高柳瑶子先生は。気に入ってたあのコをお持ち帰りでしょ。売れっ子は待遇が違うよね。晴月社、マンガ家によってこんなに差をつけるワケ?」
 北山は「うぐ」と絶句した。暢子はハラハラした。
 自分はいい。綾乃のどんな挑発にだって耐えられる。だが、数回会っただけの仕事相手に、この高飛車な放言が通用するか。暢子に一瞬だけ見せた北山のナイーブさが、綾乃の攻撃をどうしのぐのか。
 しかし、北山もプロだった。瞬時に仕事モードを取り戻し、
「差をつけたのではありませんが。ご出席の先生方みなさまに、なるべく楽しんでいただきたいということでして」
と礼儀正しく説明した。さらりと受け流されて、綾乃は頬をぷくっと膨らませた。
 童顔の北山より、よほど子供っぽい。大輪のバラの花が含んだ露に揺れるさまに似ている。暢子は再び息を呑む。
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