七、二〇一〇年 東京―4 ⑤

文字数 2,651文字

 暢子はグラスに口をつけたまま固まった。顔を上げると綾乃を見てしまいそうで、自分の表情を綾乃に見られてしまいそうで、動くことができなかった。
 耳の後ろで拍動が響く。ばくん、ばくんと重苦しく。暢子は呻いた。
「そんなにわたしのことが嫌いだったの」
 フューネラル・グリーン。
 弔いの緑。
 葬り去りたい、緑が象徴するもの。
 それが。
 自分であったというのか。
 綾乃は長い髪を空いた片手でかき上げた。
「違う」
 そう言った綾乃の声は疲れてかすれていた。暢子の頬を涙が伝った。綾乃は髪のウェーブごと頭を抱えてまた言った。
「いくつになっても歳を取らない、成熟しないお前。それが『緑』だ」
「え……」
 暢子は視線を上げた。綾乃の美しい白い肌がぼんやり霞んでいた。
「ずるいよなあ。同じ歳に同じ場所でスタートしたってのに。俺は胸にも腰周りにもだぶだぶと肉がついて、その重りが枷となって地上に縛りつけられる。ほんの数センチだって飛べやしない。なのにお前はいつまでも軽い身体のままで、あの頃の透明な目のままで」
 そこで綾乃は言葉を切り、グラスのワインを大きく仰った。空になったグラスにワインを今度は自分で注ぎ、綾乃は大きく息を吐いた。
「今回の『類』は美しかったろ」
 主人公の「悠一」が恐る恐る手を伸ばし、やっとつかまえた彼の天使。愛されたそのときの類はとまどいと幸福とでせつないほどの表情をしていた。快楽に身を捩るその姿もキレイで、これぞ藤村綾乃の真骨頂といったところだった。発売日には全国の綾乃ファンが雑誌を手に取り、一斉に溜息を漏らすだろう。
 そして愛する悠一に抱きしめられたそのあとで、悠一が見ていたのは、愛していたのは別の人間だと類は知る。類の絶望は、時計塔に差しこむ薄日の中でその姿を羽に変え、類はその身を空へ躍らせる。今回「フューネラル・グリーン」完結話で、描かれた類の最期は美しい一幅の絵のようだった。その溜息の出る美しさがあって初めて、主人公の絶望が読者に納得されるのだ。
 視界を曇らせたまま暢子は僅かに頷いた。
「あれ、お前だよ。別に死ぬってとこじゃないよ。永遠に成長しない、永遠に緑の若芽のまま。そんな命の有りようのことさ。羨ましいよ。羨ましくって羨ましくって」
 勢い余って憎んでしまいそうだ。
 長い睫毛を伏せて、綾乃はグラスに顔を埋めた。
「きっとピーターパンを見るウェンディの深層心理だ。自分はもうとうに飛べなくなってるのに、いつになっても軽い身体のままでってな」
「それ、皮肉?」
「え……」
 凍りついたように冷たい暢子の声に、綾乃はふと顔を上げた。
「田崎……?」
「あたしも歳を取ったよ。疲れやすくなったし、肌だってカサカサだ。綾乃みたいにいつまでもキレイじゃないよ」
 もともと見た目はこんなだから、変化するほどの余地はないけれど。そう暢子は投げやりに言った。荒っぽい仕草でグラスをあおった。綾乃の言葉は暢子の中で消化されず、暢子は綾乃が何を言いたいのか理解できなかった。ただ暢子の身体の中で、心臓とそれに連なる一連の臓器が、激しく脈打っていた。その鼓動は暢子のあらゆる機能を乱し、自分の上体を支えているだけで暢子は精一杯だった。
 綾乃はふっと目を閉じた。
「お前って、本当に俺の言うこと理解しないのな。ちっとも変わらないや」
 どんなに近くにいても、異なる種族の動物同士、コミュニケーションすら成り立たない。そんな諦めが語尾に滲んだ。綾乃は笑った。
「だが、知ってるか?.訳知り顔で中途半端に知ったふりをされるより、その方が何百倍も、俺には心地いいってな」
 どうして。どうして今になって、綾乃はこんなことを言うのだろう。
 この間秦野に会って話したからだろうか。
 北山に心身を満たされているからだろうか。
 分からない。暢子には何も分からない。綾乃のことは何も。
 綾乃のことは全て知っていた。趣味も好みも息遣いも生理周期も。
 綾乃のことは何ひとつ知らなかった。こども時代も目標も見ているものも性感帯も。
 綾乃が暢子のことをどう思っているかなんて。そんなこと考えもしなかった。
 暢子が綾乃を思っているほど、大切に思っていないことだけ明らかだったから。それ以上に考えることなど暢子にはなかった。
 綾乃。
 今、暢子には、綾乃の微かな息づかいが聴こえていた。
「じゃあわたし、ここを離れた方がいいね」
 暢子はグラスを床に置いた。綾乃が息を呑む気配がした。
「田崎……?」
「わたしさえ側にいなくなれば、もう綾乃もそんな言葉づかいしなくていい。花も実もなかった頃にこだわる気持ちもなくなるよ。わたしにはよく分かんないけど。そして、その方がきっといい作品が描ける」
 性に別のない単性の生きものだけを閉じ込めた、あの学院。あそこでは皆がピーターでいられた。世界には飛べないウェンディもいるなんて、あそこでは知られていなかった。暢子の前ではいつまでもその世界に戻ろうと、綾乃はしていたのかもしれない。綾乃を地に縛りつける女性の肉体。暢子が恋い焦がれたその優美な曲線を、意識から閉め出そうとしていたのかもしれない。
「俺をひとり、置いていくのか」
 綾乃の声が震えるのを初めて聴いた。暢子は五十センチ離れて座る、綾乃の身体を強く感じた。
「綾乃はひとりじゃないでしょ」
 わたしと違って。その部分は呑み込んだ。暢子はグラスを床に置いた。綾乃の厭うその丸み。その手触り。温かさ。その鋭さ。あのしっとりとした肌に触れるとあの肉体はどうなるのか。膝、太腿。そして。
 暢子は毎夜夢に見ていた。多分登紀子だけがそれを知っている。耳許で心臓がしつこくしつこく鐘を鳴らす。暢子は膝を抱え耳を塞いだ。
「田崎」
 綾乃は離れてうずくまる暢子に手を伸ばそうとした。暢子は飛び上がった。
「止めて!」
 恐怖に、暢子の瞳は凍りつく。
「触らないで」
 宙に浮いた手を綾乃はゆっくりと引っ込めた。暢子が本気で綾乃を拒絶したことはこれまで一度だってなかった。綾乃は傷ついた目をしていた。
「……ごめん」
 暢子はまた膝を抱えた。両腕できつく押さえておかないと。自分の身体が何をするか分からなかった。
(綾乃。綾乃。綾乃綾乃……あやの)
 呪文のように頭の中で暢子は女神の名を繰り返した。
 どこかでピロピロとメロディが鳴った。
 綾乃が重そうにその身体を持ち上げた。
 広間の向こうで、もしもし……と電話に出る綾乃の声がした。携帯電話を握り締め、首を振りながら通話する綾乃。
 暢子は洋館から飛び出した。
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