六、一九九〇年 学院―3 ①

文字数 2,276文字

 ふたりの共同作業が始まった。
 課業が終わり、掃除当番や日直の役目を終えると、綾乃も暢子も一旦は美術部へ顔を出す。そこで夏の学生展のための油彩を描き、飽きると石膏デッサンもする。帰りが遅くなることがあっても、爪に絵の具がついていれば「部活で」と親に説明できる。
 だが実際は部活を一、二時間で切り上げ、寮の綾乃の部屋へこっそり移動する。綾乃は一年生のくせにひとり部屋なので、カギさえかけてしまえばそこで作業に集中できた。
「このために寮務委員なんて面倒でしかないものを引き受けたんだから」
とは、綾乃の謂いだ。
「でも、就職のときなんかは有利なんじゃないの? OGウケは確実によくなるでしょ」
 そう暢子が言うと、さも心外と言わんばかりに綾乃は口を尖らせた。
「だぁから。しないって就職なんて。マンガ家デビューするんだから、この二年以内に」
「そうでしたそうでした」
 暢子は逆らわずに頭を下げた。
 部屋の外では、寮生たちが賑やかに生活をしている。足音、おしゃべり、呼び止める声、ノックの音。女子高生が三百人、数棟の建物に起居しているのだ。
「ここってトーン貼るの?」
「え、どこ」
「ここ」
 今は綾乃の作業中だ。描いているのは、夏の新人賞への応募作。ページの短い学園ものに、いかに面白要素をブチ込めるか。綾乃の好きな不条理ギャグをセリフの端々に仕込んである。暢子の苦手な分野だ。
 綾乃がつけたアタリに沿って、暢子が仕上げを入れていく。マンガ原稿制作ソフトなどない時代、画面はすべて手作業だ。暢子が得意なのは、定規を使って引いていく線。背景や効果線をブレずにキレイに入れるのは、綾乃にだって誇れる暢子の特技だ。
「あー、そこは、集中線だな。消失点を入れなかったのは俺のミスだわ」
「オッケー。じゃあ点入れて」
「おお。……ここな」
「了解」
 賑やかな扉の向こうと正反対に、綾乃の部屋では時折こうした作業の確認が交わされるほかは、鉛筆の走る音、ペンが上質紙をカリカリ削る音、紙をめくる音だけがする。静謐な世界だった。それと、ふたりの息づかい。
 集中して作業していると、呼吸のペースも同調してくる。顔を上げるのも、飲みものが欲しくなるのも、首と肩を回したくなるのも同時だ。
 身体のペースが同期すると、不思議と思考も同期してくる。細かな指示を仰がなくても、暢子は綾乃がどんな映像を紙上に再現したいか想像できた。綾乃が主線を入れた原稿を暢子に渡すとき、あれこれ説明しなくなったのがその証左だ。
 ジリジリジリジリ……!
 時計の音に、ふたりの少女はビクッとして肩をすくめる。分かっていてもドッキリする。集中していると、時間が経つ感覚がどこかへ行ってしまう。
 アラームを止めて、ふたりは顔を見合わせる。まだ続けたい。まだまだ、あと何時間だって進めたいのに。
 寮の夕食は一九時が最終だ。そこに遅れると出食されない。麓へ降りるバスもそこが最終なので、暢子は絶対にここで帰らなければならない。
「……帰るよ」
「うん」
 言葉少なにそう言って、暢子はカバンを持ち上げる。声をひそめて別れを告げる。
「じゃね」
「ああ」
 綾乃は黙って廊下に耳を澄ませ、その瞬間誰もいないことを確認して扉を開ける。薄く開けた扉から、音を立てないようカバンを胸に抱いた暢子は素早く走り出る。
 寮の外はまだほの明るい。帰り際、ドアを開けるため腕を延ばした綾乃の瞳の色を思い出す。深い茶色。そこにうるんだ名残惜しい気持ちを思い出す。それと同じ気持ちを、暢子の黒い小さな瞳も浮かべていたはずだった。
 早く大人になりたい。大人になって、好きなだけマンガを描きたい。
 そのためには、綾乃も、暢子も、早くデビューして学生の身分から脱出しなければ。
 暢子はこのとき、思うさまマンガに没頭したい自分の願望の下にあるものに気づいていなかった。
 ここで気づいていれば、もしかして。


「見ーつけた!」
 揶揄うような楽しげな声が、バタンという大きな音とともに飛び込んできた。
 日曜日。朝食を摂るのも早々に、暢子は綾乃の部屋に入り浸っていた。綾乃の原稿を仕上げたら、次は自分の番だ。大詰めに入った仕上げを早く終わらせたくて、暢子はいても立ってもいられなかったのだ。
「……秦野かよ。何だよウルセえな」
 綾乃はペンを持ったままふてぶてしく言い放った。開き直りを決めこむようだ。
「祥クン」
 暢子は中等部時代の旧友の名を呼んだ。秦野祥子。背が高くてスポーツが得意で、下級生だけでなく同級生からも人気がある。とくに寮での生活を知らない通学生人気は高く、暢子の周りの少女たち多くが憧れていた。ニックネームは「祥クン」だ。一部の寮生以外はみな秦野をそう呼ぶ。
「おー、田崎だったのか、藤村の相手って。それは想像つかなかったな」
「『相手』って……」
 咽が詰まって、暢子はその先を言えなかった。
 綾乃は立ち上がり、秦野の背後の扉を閉めた。
「黙っててくれるんだろな」
「さあ、どうかな」
「盟友だろ」
「条件次第かな?」
 楽しそうな秦野の肩をつかんで、綾乃は目をスーッと細めた。
「『条件』?」
 暢子はふたりのやり取りに入れず、ただじっと黙っていた。幸いなのは、秦野がふたりを咎める風でなく、単純に面白がっているだけらしいこと。
 秦野はみぞおちを押さえて笑った。
「腹減った。とりあえず、今日の昼飯はお前持ちな。俺、久々にピザ食いたい」
「へーへー、喜んで。お付き合いさせていただきますよ。ちぇっ、この忙しいのに」
 綾乃は暢子を振り返って「ピザだと。いいか?」と確認した。もちろん暢子に否はない。
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