一、二〇一〇年 東京―1 ⑨

文字数 3,997文字

「分かった。明日は来られる? ……うん。はい。じゃね。大事にして」
 ダンスパーティもできる広間に、ペンの走る音とPCを操作する音、数人の女性が息をする音だけがする。ミハル製作所は、只今仕事の真っ最中である。技術革新により、仕上げの一部がPC上でデジタルで行えるようになっていた。暢子が現役だった時代には考えられない進歩だった。新しもの好き、効率重視の綾乃はいち早くデジタル処理を導入し、アシスタントたちを地味なトーン貼り・削りの作業から解放した。
 綾乃は「いずれアシスタントも仕事場に集まらず、自宅のPCで作業できるようになる」と予言めいたことを言っている。暢子には想像もつかない。
「何ですか、ノブさん。いずみちゃん来られないって?」
 チーフアシスタントの登紀子が訊いてきた。暢子は肩をすくめた。
「風邪だって」
「こんな季節に?」
 サブアシスタントの亮子が眉をひそめた。臨時スタッフが乗ってきた。
「あら、結構あるのよ。ウチの母も先週大変だったんだから」
「でもさあ……」
 一度喋り出すと止まらない。わいわいと口を動かしても、みな手は止めない。
 暢子と一緒に資料の詰まった段ボールに首を突っ込んでいた亮子が、小声で言った。
「新入りのうちはあんまり間隔開けない方が、仕事覚えるんですけどね」
「うん。まあ、仕方ないね」
 早くいい新人を採用したい。
「ノブさん」
 登紀子がやって来た。
「そろそろ主線(オモセン)入れて貰わないと」
 オモセン。登場人物の絵のことだ。脇役やモブはアシスタントが描くが、これは漫画家本人の仕事である。
「うーん、そうだね」
 暢子は時計を見た。十一時半。
 できればもうちょっと寝かせておきたい。
 晴月社の依頼を受けてから、綾乃は期するところがあるのだろう、他の仕事をいつにないスピードで片づけ始めた。昨夜は日程的にはまだ余裕のある月刊誌のネームを、朝までかかって上げてしまった。暢子もつい綾乃を置いて帰りそびれ、事務室のソファで夜を明かした。
 締め切り前でもないのに、ここに泊まり込むなんて。普段綾乃はネームを自宅で考える。アシスタントや画材を必要としない、孤独な作業だ。
 綾乃から上がったネームを渡されたのが今朝の六時。崩れるように眠り込んだ綾乃をベッドに入れ、暢子は上がったばかりのネームを編集部にFAXした。それを見た担当者と最後の詰めを行い、今日の仕事の準備を整え、そのままここでスタッフの到着を待った。
「お登紀さん。原稿が『センセイ待ち』だけになったら、一旦中断して先に『オトメ』にかかってくれるかな。ネームは上がってるから」
「ええっ!? もうできてるってえの、『オトメ』のネーム」
 だってまだ日にちあるじゃないの、と登紀子は目を丸くしている。暢子は曖昧に笑った。
 ネームが決まっていれば、本人が寝ていてもそこから原稿を起こして作業できる。
 登紀子が驚くのも無理はない。連載が三本になってから、マネジャーの暢子とチーフの登紀子は、月に何度もやってくる締切をいかに乗り切るか、毎月ギリギリの調整をしていた。
「あった! これこれ。日比谷公会堂の周辺写真」
「よかったあ。これで今回の背景はバッチリっすよ」
 発掘した写真を手に、亮子は自分の机に戻った。以前に撮った資料写真を探し出すのに、ふたりがかりで十五分かかった。人材の確保と並んでこうした部分の効率化が必要だ。
 十二時を過ぎた。暢子が台所をのぞくとメシスタントのまなが、「すみません、遅くなって。今できます」と申し訳なさそうに振り返った。炊事担当のアシスタントを、業界では「メシスタント」と呼ぶ習わしだ。暢子は盛りつけを手伝い、皿をワゴンに載せた。
 綾乃は大正時代の洋館を、多少の修繕をした以外どこもいじらず使っていた。玄関を入って左は広間。右手に応接間、書斎と過ぎると建物の中央がホールになっている。二階へと続く手摺りの装飾も古めかしい階段があり、ソファなども配置したちょっとした談話スペースだ。台所はその右手、バスルームの奥にあり、会食もできる食堂は左手の、仕事場として使っている広間と隣合って位置している。台所の脇には陽の差さない小さな畳敷きの部屋――女中部屋まで完備していた。作った料理を食堂に運ぶのもひと仕事だった。
まなは若いが料理上手で、月に三本仕事が入っても同じ献立が続くことがない。
 暢子は食堂から広間へ続く大きな扉を開け放った。
「お疲れさま。ここらで一旦ご飯にして」
 チーフの登紀子を除けばあとはみな十代二十代の若者であり、食事の時間は大きな楽しみだ。出す食事の質は、実は臨時の応援の集まりを左右する。締切に追われるギリギリのいわゆる「修羅場」では、箸を使わずに片手で食べられるもの限定になったりするが、ミハルでは極力それのないようにした。どんな切羽詰まった状況でも、部屋を移動して、箸やフォークを使って温かいものを食べて、リフレッシュする。もちろん食べたあと眠くなったら、状況が許す限り二階の客間で仮眠を取ることもできる。プロダクションの会社化と並んで、こうした環境改善に暢子はこだわった。この業界に入ったからといって、人間らしい生活に別れを告げなくてはならないなんて、ナンセンスだ。それに、誰より綾乃が、締切前でもうまいものを食べたがる。
 みなが箸をつけるのを見ながら、暢子は改めて時計を確認した。そろそろ綾乃を起こさないと。食い意地の張ったあの女は、料理が冷めているとまたぞろ文句を言う。睡眠か、食欲か。つくづく因果な商売だと暢子は一瞬綾乃のことが哀れになる。それくらいしか日々の生活に歓びがないのだ。
 電話が鳴った。晴月社の北山だった。折り目正しい挨拶のあと、北山は言った。
「アシスタントの面接の件なんですが、ご希望の日時をおうかがいしたくて」
「は?」
 何のことだろう。今回の募集は福住書店経由だ。
 北山は晴月社の会議室を使わせるよう、綾乃から申しつかったと言った。
「先日先生に、履歴書が集まってるので面接を早く済ませたいとうかがいまして。……何かまずかったですか」
 寝耳に水だった。北山は、言葉を失う暢子を気づかうようにそう訊いた。
「あ、いえ。この度はお世話になります。藤村のスケジュールを確認しまして、折り返しご連絡いたします」
 咄嗟に暢子はそう誤魔化した。北山の携帯電話の番号はキープしてある。礼を言って暢子は電話を切った。
 綾乃の奴、一体どういう積もりだ。それならそうとひとこと断ってくれればいいものを。段取りをつけるこちらの都合を考えて欲しいものだ。
 暢子は足音も荒く書斎へと向かった。もう若くはないセンセイはお疲れだろうが、そろそろ起きてもらわなければならない。そうして、ことの真意を問い質さねば。
「センセイ、起きてください」
 ノックもせず、暢子は書斎の扉を開けた。
「……センセイ?」
 暢子は人型に膨らんだ毛布をそっと押した。何の手応えもない。
(綾乃……)
 暢子は書斎から事務室につながるドアを開いた。いない。
 再び廊下に出ると微かに水音がした。バスルームか。
「綾乃」
 暢子はバスルームに続く洗面所のドアを静かに開けた。
 空色のタイルに白い陶器の洗面台。ほんの僅か青い小花が散っている。バスルームの便器やバスタブも揃いだった。タオル掛けやシャワーヘッド、バスタブの縁飾りは真鍮を模した柔らかな金。明かり取りの窓が穿たれる、明るいバスルームだ。余り使わないが、二階のバスルームは同じデザインのピンクバージョンである。洗面所とバスを隔てるすりガラスの向こうで、カーテンがシャワーに揺れていた。
 きゅ……と蛇口を捻る音がして、カーテンの向こうから綾乃が現れた。大雑把にバスタオルを身体に巻いて、大股にバスルームの扉を開けた。
「何」
 綾乃とともに湯気がもわっと洗面所に溢れた。
 湯上がりの潤んだ綾乃の肌を水滴が伝う。青いバスルームに白い肌が赤く染まって、濡れた髪がそこに張りつく。そのコントラストが暢子を射貫いた。
 立ちこめる湯気は綾乃の好きな石鹸の濃厚な薔薇の香りで、綾乃の肌の匂いと混じって暢子の身体の深いところを熱くさせた。ぽたぽたと滴を垂らしながら、暢子の方へ向いた綾乃の顔には何の表情もない。
「垂れてるよ」
 暢子は戸棚から予備のタオルを取り出して、綾乃の身体をそっと包んだ。そのままそのタオルで濡れた床も拭いてしまう。綾乃の髪から垂れた滴が暢子の頬に当たった。
目の前に柔らかな曲線があった。綾乃の脚の間で昼の光が眩しかった。
 綾乃は暢子に構わず、身体に巻きつけたバスタオルの端でわしわしと髪を拭く。
「何か、用があったんじゃないのか」
「あ……うん」
 暢子は手にしたタオルを使用済みの籠に入れるため、綾乃に背を向けた。
「食事、できてるよ」
「うん」
 綾乃はごしごしと髪を拭いていた。綾乃に背を向けたまま暢子は唾を呑んだ。
「今、晴月社から電話があって」
「ああ、北山か」
 暢子は心持ち身体を反らし、ぎゅっと目を閉じた。
「アシの面接、場所借りるなら借りるでそう言っといてくれないと。困るんだよね」
「ああ。悪かった」
 暢子の背後で、綾乃が衣服を身につける気配がしていた。暢子は瞼を伏せたまま声を潜めて綾乃に尋ねた。
「……どうして、晴月社に頼んだの」
「福住に募集の手間をかけさせたから。会場は晴月社を使ってやろうと思って」
 理屈が通っていない。
「自宅からもここからも、福住よりは近いしな」
「ふーん」
 トレーナーにゆったりした綿のパンツ。楽な仕事着を身につけて、綾乃は暢子の鼻先からドライヤーを手に取った。薔薇の香りが濃くなった。綾乃の汗の匂いを含んで湿って香った。暢子は奥歯を嚙み締めた。
「綾乃」
「ん」
 暢子の耳許でガーガーとドライヤーが音を立てる。
「あとで日程詰めよう」
 俯いたまま暢子はバスルームを後にした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み