七、二〇一〇年 東京―4 ③

文字数 1,833文字

 リンが現れない。
 時計塔のシーンだけが残され溜まっていく。
 北山から電話が鳴った。
「どうですか、狩谷さんから何か連絡ありましたか」
 暢子は「いいえ。今回はもう駄目かも知れません」と力なく答えた。他社の仕事なのに、北山は伝手を手繰って「ギニョル」の鈴鳴担当編集と連絡を取ってくれた。だがそこから先へは進めなかったようだ。
「鈴鳴先生も連絡がつかないようです。『ギニョル』の方でも、てんやわんやになってました」
 嫌な感じがした。晴月社の矢代の葬式、その光景が目に浮かぶ。
 暢子はこの会話を綾乃の耳に入れたくなくて、応接室にこもっていた。十二夜の池野には代わりのメカアシの手配を頼んだが、難しいかも知れない。
 最悪締め切りには間に合わなくてもいい。それよりも、リンが無事であることを暢子は祈った。それはリンのためではなかった。冷たい人間だ。暢子は自分のことが怖ろしくなった。
 綾乃の今のこの上昇気流を吹き消されたくなかった。新しい仕事にいきいきと瞳を輝かせる綾乃の、この勢いを邪魔されたくない。自分の許に出入りしていたコに何かあったら、姉御肌の綾乃は落胆するだろう。もしその生死に鈴鳴が関わっていたとしたら、今度こそ綾乃がどんな行動に出るか予測がつかない。
 綾乃がもし万一、数週間仕事が手につかないような事態にでもなったら。新連載を控えたこの大事なときに。
「僕はこれから、鈴鳴先生が以前描いてた出版社をいくつか当たってみます」
 それはさらに期待薄だ。暢子は言った。
「いえ、もう充分です。ありがとうございました」
「田崎さん……」
「それよりも北山さん。もし藤村のことを思ってくれるなら、この修羅場を脱けたタイミングで藤村のこと誘ってください。海でも遊園地でも、どこか明るい気持ちになれるところに」
「田崎さん」
「松村に白いドレスを着せるようなことも効果的だと思います。何とか藤村のモチベーションを落とさずに済むように。お願いします!」
 暢子は必死に頼み込んだ。綾乃にエネルギーを与えること。それは自分にはできない。それができるのは北山だった。なら、暢子は頼み込んででもやってもらう。編集者の立場に訴えかけてでも。どんな手段も厭わない。
 北山は静かに分かりましたと電話を切った。
 暢子は知り合いのマンガ家たちに電話をかけた。それぞれの抱えるメカアシを貸して貰えないかと頼みこんだ。何軒もかけてかけて、終いに手帳が破けてしまった。それでも暢子はかけ続けた。時間だけが過ぎていく。
 時間が、過ぎていく。
 暢子の手から長い時間がすべり落ちていった。
 離れたくなくて、側にいたくて、必死に働いた暢子。
 だがその手には何も残っていない。
 始めから分かりきったことなのに。ほんの欠片も後悔などしていないのに。
 過ぎ去った過去を悔やむ気持ちは暢子にはない。
 だが。
 綾乃はどうだろうか。
「グリーン」の結末を変更した綾乃。それは単純なエピソードの変更ではなかった。
 副主人公の存在が与える主人公の救済を、綾乃は拒んだ。
 暢子の設定した救済を、綾乃は受け取るのを止めたのだ。
 綾乃はくよくよといつまでも考えていたりしない。いつもパッと決めパッと行動する。暢子に対してもイラつけばぶつけ、心地よければ笑ってくれる。それだけだ。そして暢子はそのどちらでも、綾乃から与えられるものなら何でもよかった。全て嬉しく享受してきた。
 永遠に救済の存在しない関係。
 若い頃は永遠を怖れたりしなかった。「永遠」がどのようなものか分からないからだ。
 人生も半ばに差し迫ってようやく、暢子は時間の意味を理解し始めた。人間にとって、永遠という言葉がどのような意味を持つのか、。
 いつまでも。いつまでも同じ場所から、同じ景色を、同じゴールを見ていたい。
 だが、同じ場所に立っていても綾乃と自分とは異なるそれぞれの景色を見ている。好みも、優先順位も、才能も、綾乃とは違いすぎる。焦点をどこに合わせるかすら。
 リンは、鈴鳴はどうだろう。
 彼らは今どこにいるのか。一緒なのか、それとも。
 リンよりもきっと二十歳は上の鈴鳴。彼にとって、若いリンは救済をもたらす恩寵だろうか。己の罪を購うための貢ぎものとしてリンを連れていくなら、返して欲しい。すぐにもあのコを手離して欲しい。わたしたちのような下らない魂を救済するためには、あのコはもったいなさ過ぎる。鈴鳴はそのことを理解しているだろうか。
 暢子は時計を見た。
 時間だけが過ぎていく。
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