五、二〇一〇年 東京―3 ①

文字数 2,942文字

 庭では満開のリラが午前の陽に揺れている。
 換気のために開け放った窓から、その香りが漂ってくる。暢子は掃除の手を止めて、甘い香りを吸い込んだ。都会のくすんだ空気も、狭い庭の緑のフィルターを透過してややシャープな感じになる。暢子は山の清冽な風を思い出した。あそこには都会では望むべくもない清々しさがあった。
(われわれ自身、もうあの頃の清々しさはとうに失っているのだから、似合いかもな)
 暢子はひとり肩を(すく)めた。
「田崎ぃ、茶菓子でも、買ってこようか」
 暢子の背後、書斎の方から綾乃の叫ぶ声がする。
「ああ、いいよ。来るときちょっと買い物してきたから。それより、気分転換したいなら拭き掃除にしといたら。肩を動かせば少しはコリがほぐれるよ」
 二十日締切分のネームを上げて、綾乃は少しだけ休息だ。編集者が打ち合わせのため、もうすぐここへやってくる。暢子は綾乃を外に出したくなかった。どこかでまた気まぐれを起こして時間までに帰ってこなかったら、ようやく入れた予定をまた設定し直さなければならなくなる。
「拭き掃除? 冗談じゃない。雑巾なんか絞れるか」
 綾乃は広間の扉から首だけ出して顔をしかめた。暢子は真顔で振り返った。
「腱鞘炎?」
「まあな」
 綾乃は大きく欠伸をした。そのまま肩をぐるぐる回す。
「仕様がないんじゃないか。このペースで仕事入れてたら。ある程度はな」
 他人ごとのようにそう言う綾乃の手首を、暢子は掴んであちこち押した。
「大丈夫だって。まだそんなに……あ、痛て」
 マンガ家にとって、手首や指の付け根の腱鞘炎は職業病である。仕上げの一部をPC上で行うようになってから手作業は少し減ったが、着想、構想、ネーム、原稿と、「描く/書く」ことばかりだからだ。
 暢子はいつもの鍼灸院に電話をかけた。
「まだ大丈夫だって。おい、田崎」
「これからまた忙しいんだから、早いとこ修理しとかなきゃ。あ、もしもし。予約お願いしたいんですが、……ええ、今日の午後。はい」
「午後からちょっと遊びに出ようと思ってたんだけどな。ったく、たまの空き時間だってのに」
 暢子がさっさと治療の予約を入れる後ろで、綾乃がぶつぶつ文句を言う。
「遊びにって、どこへ」
 電話を切り、暢子が訊いた。
「どこだっていいだろ。プライベートだ」
「……そうね」
 暢子は軽く何度か首を振り、湿布を取りに事務室へ入った。暢子が湿布を手に広間に戻ると、綾乃は窓枠に手をかけて庭を眺めていた。美容室になかなか行けず、弛んだウェーブが肩で陽に透けている。まろやかな曲線を描く肩から背、腰。大した運動もしていない筈なのに、そう崩れることなく歳を重ねている。年上の女性に憧れて熱い視線を送る少年のように、暢子はつい綾乃の身体を眺めていた。
「ん? 何だ」
 足音が止まったままなので、綾乃が振り返った。ふわりと髪が顔の周りで揺れた。古めかしいフランス窓を背に、優美な逆光のシルエットが浮かぶ。見慣れた形だが、暢子にとってそれはいつも新鮮だ。見るたびにはっとさせられる。
 暢子の目には天上の音楽のように甘やかに感じるその曲線が、しかし他のものの目にはそうは写っていなかろうことを暢子の理性は知っていた。そう見えているのは暢子だけなのだ。いや、もしかしたら北山辺りもそうかも知れない。
 そんな暢子の視界の偏りは、いつも登紀子の揶揄うところであった。
 綾乃は不思議そうに笑った。黙って突っ立ったまま暢子が動かないので、小首を傾げて訝しんでいる。生まれながらの専制君主のように傲岸な癖に、ときおりこうした少女のような可憐さを見せる。十五のときから何ひとつ変わらない。暢子のリラの精。
 たっぷり数十秒女神の微笑みを堪能して、暢子が返事をしないのに苛立った綾乃が悪魔に豹変する寸前、暢子は手にした湿布のフィルムを剥がした。
「手出して」
 綾乃はおとなしく右手を上げた。ほっそりとしなやかな指が上品に動いて、暢子の鼻先に突き出される。不思議な香りがした。綾乃の好きな石鹸の薔薇の香り。窓の外の満開のリラ。それらが綾乃の肌の温かみと混ざり合って、暢子の官能を刺激する。その誘惑に抗って、暢子は雑な仕草で綾乃の手首を握った。「痛……」と綾乃が漏らすのを再び確認し、そこへ白い湿布を貼った。暢子が作業を終えると、綾乃は暢子の手を乱暴に振り払ってこう言った。
「何てことするんだ。わざわざ確かめなくったって分かってるだろ。同じところを何度も何度も」
 綾乃は湿布の上をさも痛そうに擦って、終いには暢子のことを「このサディスト」と罵った。
「サディスト結構」
 暢子はフランス窓の掛け金を外した。
「少しの手をかければそれ以上痛い思いをしなくてすむとき、いくら自分の身体だからってあえてそれをしないのは、よっぽどサディスティックだと思うけど」
 口ではいつもやり込められてばかりの暢子だが、ときにはこうして反駁してみる。一方的にやられっ放しでは、獲物をいたぶる綾乃の気分も出なかろう。どっちみち暢子には、こうした言い合いで勝とうが負けようが全くどちらでもよかった。負ければ綾乃が「してやったり」とほくそ笑む顔が見られる。まれに勝てば悔しそうな綾乃が見られる。どちらにせよ魅力的なことこの上ない。
「それともマゾヒスティックなのかな」
 暢子はにやっと笑って綾乃をちらりと見た。この笑いは綾乃の専売特許ではないのだ。綾乃の眉が吊り上がった。暢子は窓枠に力を加えた。
「だったら、愉しみを奪って済まなかったね」
 窓が開き、リラの花びらを載せた風が吹き込んできた。綾乃の髪が煽られて大きく踊った。暢子も綾乃も一気に吹き寄せた風にむせてコホコホと咳こんだ。すがめた目に春の陽が眩しい。ふたりとも黙って風の香りを嗅いだ。リラの枝々が揺れるのを眺めた。この瞬間、十五歳のふたりに戻っていた。広い世界の手前で、まだ何をも知らずまどろんでいたあの頃。満開のリラ。暢子の記憶の中で、それは常にすらりとした子鹿のような綾乃と対になって現れる。繭にくるまれたようにぼんやりとした暢子のこども時代は、綾乃の出現によって破られた。綾乃はどうだったろう。刺激的な都会育ちの彼女は、のんびりとした田舎娘であった暢子とは違って、目覚めは早かったかもしれない。だが、山の上のあの学校で。まだあの頃は、実人生の荒波から隔離され、最後のこどものまどろみを眠っていた。
「やっぱり、春はリラだな。桜じゃなく」
 綾乃が呟いた。綾乃はぷんすか膨れるのを止めて、暢子の隣に並んだ。庭を渡ってくる風を吸い込んだ。綾乃の肩が暢子に触れる。柔らかな髪が揺れた。
「ちょっと遅い春だけど」
 綾乃はそうつけ加えてふっと笑った。
 暢子の傍らで揺れる綾乃の髪。暢子は綾乃を盗み見た。綾乃は春の陽をシャワーのように浴びて、心地よさそうに顎を上げた。ざっくりと投げやりに引っ掛けた白いシャツの襟。その襟許から、濃密な薔薇の香が漂い出す。
 暢子は眩暈のような息苦しさを感じた。腹の底、暢子の丸みのない腰の奥で内臓がその温度を上げた。暢子は目を瞑り息を呑んだ。
 鼻先に漂うリラの香り、薔薇の香り。それらから逃れるように踵を返し、暢子は台所にとって返した。来客へのお茶の準備にかこつけて。
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