三、二〇一〇年 東京―2 ③

文字数 3,871文字

 みんなを帰したあと、綾乃はしばらく仕事場に残る。暢子も今夜は一緒に残った。
「今夜は」と言っても、綾乃をひとり置いて暢子が先に帰ることはない。自分では勤務時間を管理している積もりだが、暢子にそんなことはできていなかった。
 食堂にはまなが作ってくれた綾乃の夜食が並べられていた。そしてその横には、健啖家の綾乃には軽すぎる少量の皿。また暢子を心配して、まなが別に用意してくれたものだ。
 食卓を見て暢子は軽くため息をつき、肩越しに広間の綾乃に声をかけた。
「センセイ、今日十二夜の池野さんから電話もらいました」
「ああ。返事しといてくれた?」
 綾乃は振り返りもせず、今日一日の原稿の進み具合を確認していた。
「一応、その場で断りはしなかったです」
「『断る』? 何でそうなるの」
 感情の入らない綾乃の声に、暢子は焦れて広間へ戻った。
「だってセンセイ、このタイミングで、『グリーン』なんていつ描くんですか。まだ『――戦い』だって、あと二回あるんですよ」
 綾乃は原稿に目を落としたまま不敵に笑っている。
 全くどうかしている。この女、頭がおかしい。
 暢子は心の中でそう毒づく。綾乃が続けた。
「今日来たコ、いいコだったね。何てったっけ。ええと」
「篠原美香留」
「おお、それそれ。ミカル。あれだったら本採用だ。正社員枠でもいいな」
「そんなに気に入ったのなら、本人に言ってやればよかったのに」
 明日の集合時間を確認したとき美香留にもみなと同じように伝えたが、その時点では綾乃の意向を確認できず、不安そうな顔で帰っていった。採用になったのか、そうでないのか。今頃思い悩んでいるのではなかろうか。
 暢子がそう言うと、綾乃はようやく顔を上げた。
「そんな、あんたじゃあるまいし」
 綾乃は手にしていた原稿を置いた。
「ああいうタイプはね、そういう考えてもしようのないことを、いつまでもうだうだ考えてたりしないものだよ」
「よく分かるね」
「ああ。似てるだろ、若い頃の俺に。だからお前も気にしてるんだ」
 そう言って綾乃は暢子を見て目を細めた。暢子が何も言えなくなるのを、さも面白そうにニヤついて眺めている。その瞳の奥にはいつものように冷たい何かが凍っている。ぐっと言葉に詰まったまま、暢子は腹立たしい気持ちでいっぱいになる。
(何て性悪なんだ)
 そう憤りながら、暢子は自分の心の端っこに不安が揺らめくのを感じた。いつの頃からか生まれた不安。
 綾乃が自分に向ける感情のどこかに、憎しみが紛れているのではないか。
 暢子は綾乃が分からない。綾乃の思考は大体分かる。が、綾乃の心の奥でどんな感情が動いているかは、全く分からない。「分かる」くらいなら、綾乃と同じくらいスケールの大きな物語を紡げるのだ。自分はその世界から降りた。それならと、日常をエッセイマンガにつづれるほど、自分を晒けだすこともできない。
 結局、「描き手」でい続けるためのハードルを、自身で越すことができなかったのだ。
 にらみ合うような数秒が過ぎた。 
 暢子の表情を心ゆくまで味わって、綾乃は「さーて、メシにするかな」と大股で食堂へ歩いていった。
 暢子はさっきまで綾乃が手にしていた原稿を、ノンブル順に揃えながらぱらぱらと眺めた。「花咲くオトメ探偵の事件ファイル」というタイトルの現代物で、主人公の女子高生が、頼りない兄の探偵業をキビしく助けながら事件を解決するという「爽快活劇(編集者のつけたアオリ)」、略称は「オトメ」だ。毎回サスペンスの要素が必須で、原稿にタッチしなくなって久しい暢子も、この作品のネタ出しには参加する。毎回苦労させられる作品である。今回はアクションシーンも多く、綾乃の手になる描線が軽快に踊っていた。絵は荒れていない。暢子はほっとした。
 そうだ。「十二夜」の仕事の話をしなきゃ。暢子は綾乃を追って食堂に入った。
「お。来たな」
 暢子が近づくなり、綾乃はグラスを突き出した。
「ん、何」
「へへへー」
 暢子は突き出された綾乃の手許を見た。
 仕事場に、綾乃は数本のワインを用意している。暢子は酒に興味がないが、ここに泊まり込むこともある綾乃は、常にワインを何種類かキープしておきたがる。テーブルに置かれた瓶には、綾乃気に入りのラベルがあった。
「何か、呑みたくなってな。いいだろ? 今日の仕事は終わったぞ」
 綾乃は屈託なく笑った。さっきの意地悪げな笑みとは全く違う、ティーンエイジャーのような素直な笑顔だった。暢子は黙って深紅の液体が揺れるグラスを受け取った。綾乃は暢子に手渡したグラスに、自分のグラスをかちゃと合わせて、立ったままくいっくいっとワインを飲んだ。
「座って飲みなよ。行儀悪いよ」
 暢子はグラスを置いて、綾乃のための料理を温め直しに台所へ立った。回るレンジのオレンジの光に、にこっと笑う綾乃の顔が浮かんだ。天真爛漫なあの笑顔。
(あれは、変わらないなちっとも)
 この笑顔で世の中渡って行っちゃうぞ、という、勢いがあるというか、登紀子の言葉を借りればまさに「怖いもの知らず」なストレートな笑顔。さっきの美香留が似ているところは顔立ちよりもこの笑顔だ。
 どんな賞より、金銭より、社会的名誉より。暢子はこの笑顔があれば報われてしまう。
 現に笑ってグラスを差し出され、暢子は暴走の理由を詰問することを忘れた。
 ダメだこんなんじゃ。
 暢子は首を振った。昼間登紀子にも言われたではないか。手綱をしっかり握っておけと。
 もっともあれは、ミハル製作所立ち上げ以前から一緒に仕事をしてきた、登紀子一流のリップサービスだったのだが。
「五月二十日〆で『グリーン』一本描くぞ。人の手配はつくか?」
 綾乃は屈託なくそう言って笑った。暢子は向かいの席に着いた。いつもいつも食事どきに悪いな、と思い、素直にそう謝った。遠慮なく対等な口を利くとなると、アシスタントたちの前ではやりにくい。
「センセイ、勝算あるの」
「あるよ」
 事もなげに綾乃は頷いた。
「勝算のないことを、俺が言ったことあるか?」
 綾乃の頬にふっと赤みが差した。ワインのアルコールに瞳が潤む。その瞳に食卓の灯りが映り込んで、暢子は気が遠くなりそうになる。
「綾乃……」
 この笑顔に、誤魔化されちゃいけない。しっかりしなくては。
 暢子は自分もワインをひと口飲んで、咽の滑りをよくしてみた。
「もちろん、普段の月なら可能だよね。問題は――」
「問題は晴月社のプロットをいつ練るか、……だろう? 田崎」
 綾乃は暢子の言葉を先取りした。暢子の目をのぞき込んで、いたずらっぽくまた笑った。暢子はその視線を、急いでグラスで遮った。
「今やってる『オトメ』はあと二日で終わる。待ってろ。アイデアは何本かに絞り込んであるんだ。この仕事が終わったら、北山も呼んで作戦会議だ。ま、あいつが何を言ってきてもカンケーないけどな」
 好きなものを描いてくれって依頼なんだろ、と綾乃は鼻先で笑った。
 空きっ腹にアルコールは、やはり回りが早くなる。暢子は自分が酔ってきたのを感じた。
 外で、それも仕事絡みの席では幾ら呑んでも酔わないが、こうして内呑みをしてると結構くる。綾乃が自分のグラスに注ぐついでに腕を伸ばして、暢子のグラスも再びワインで満たした。まくり上げた袖口からのぞく、肌理細かな白い腕。
 暢子はグラスを揺らしながら、反対の手で頬杖をついた。
「いい仕事してよね、綾乃」
「うん」
「本当にね。今度は、描きたいもの、描いてよね」
「うん。そうだな」
「……わたしの分も、ね」
「分かってる」
 こうしてしみじみふたりで呑むのは何年振りだろう。暢子は記憶を遡ってみようとしたが、もう頭が回らなかった。
「考えてる話があるんだ」
 綾乃の目が輝く。酒が入っていても、こうなるとマンガ家藤村綾乃になる。
 暢子はじっくり聞きたいと思った。グラス以外の食器を片づけ、暢子はワインとまなの料理の残りを持って事務室に移動した。綾乃も隣の書斎から、数日前に運び込んだアイデアの束のうち、最近鉛筆を入れた部分を持ってきた。時間を巻き戻したように、ああでもない、こうでもない、といくつかのアイデアについて熱く話し合った。
「こんなのはどうだ? 中世ヨーロッパ風の世界観をベースにしたファンタジーなんだけど」
「中世ヨーロッパか。イメージはどっち? 宗教対立に揺れる南欧? 王位継承戦争が膠着してるイングランド?」
「あー、どっちかってえと、イングランドかな。それかフランスか」
「オッケー。で、この『両性具有が王位を継ぐ』ってのは?」
「ああ。国家が危機に陥るときには、救国の『王子』が生まれるという伝承がある……という設定でな。伝承を許に、その年に生まれた子供が国土の隅々まで調べられて」
「『過越の祭』みたいな?」
「そうそうそう」
「性別の揺らぎみたいなのは、ウケるね。でも政治の話はダメ。権謀術数は背景に留めて、冒険活劇を前面に出そう。それと、ロマンスね」
 クリエーターとしての綾乃の情熱に、マネジメントのプロとしての暢子の戦略的な分析がかんでいく。新しい企画を立てるときはいつもこうした作業が入るが、こんなに和気あいあいとした時間はしばらく持てていなかった。
 昔に戻ったみたいだ。
 そう暢子は思った。
 この和やかな時間。
 数年ぶりに綾乃とゆっくり話し込んだ暢子は、仕事場に泊まっていくことにした。綾乃はもとよりその積もりだったようだ。
 殺風景な自宅より、機嫌のいい綾乃の笑顔の側の方が、いいに決まっている。
 その夜暢子が見た夢は、甘美な感触に満ちていた。
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