一、二〇一〇年 東京―1 ②

文字数 1,820文字

 レギュラーメンバーも助っ人もみな帰し、暢子はひとり事務室に当てた応接間で相手先への対応に追われた。十一時の約束はこれまで数回仕事をしたことのある社の編集者だった。数カ所に電話をかけ、どうやら詫びを言うことができた。
 約束が四度流れても、編集者は意に介さず次を設定しようとした。綾乃は乗り気ではないのかもしれない。暢子は返事を保留とした。
 相手は晴月社の北山という男だった。中堅出版社の中堅編集者だ。数年前、初めて挨拶に来た彼は童顔で、綾乃は彼をこども扱いして随分と困らせた。その後彼が相応のキャリアを積んでおり、すでに若手ですらないことを知っても、綾乃の態度は変わらなかった。歳だって綾乃や暢子とそう違わないのに。せいぜい二、三歳下なくらいだった。
 とは言え、綾乃は十代の頃から仕事をしている。プロとしてのキャリアは確かに北山より遙かに長かった。綾乃が彼をいじめるのがあまりに楽しそうで、暢子は正直彼をこの仕事場に入れたくなかった。
 受話器を置き、暢子は改めて手許の手帳を眺め、壁のホワイトボードに目をやった。相変わらず余裕はない。スケジュールはびっしりだった。
 少女マンガ家、藤村綾乃。彼女に描きたいものを描かせることが暢子の目標であり、仕事であり、人生だった。
 そのために、綾乃のマンガ家としての価値を上げる。同時に仕事の場を拡げること。つき合いの深い一社に絞っていては、幅広い綾乃のアイディアの一部分しか表現できない。北山の晴月社などはいい相手先だった。
 このボードの向こう、壁の向こうに、綾乃は疲れた身体を横たえ夢の世界に遊んでいる。見なくても分かる。この上なく安らかな眠り。原稿がアップしたあとの、満足しきった綾乃の寝顔。
 暢子の胸に鈍い棘が刺さっている。暢子は自分のその昏い気持ちが何であるか知っていた。
 己の才能と美貌に胡座をかいて、傍若無人な振舞いを続ける女主人。綾乃は暢子を含めた周囲の人間に、もうずっとそのように接してきた。周囲の人間もみなそれを許した。藤村綾乃という存在には、それだけの価値があった。
 だが、何としたことか。先ほど綾乃は「この姿をひと前に晒せない」と言った。
 その綾乃が一介の編集者を「ひとさま」扱いするなどと。
 編集者など、マネジャーの自分と等しく、自分の腰掛ける椅子ほどにも思っちゃいない。綾乃はそういう女だったはずだ。
 年齢とともに少しは謙虚というものを学びつつあるのだろうか。
(あの綾乃が?)
 それとも中年に差しかかった自分のくたびれ果てた姿を恥じたのか。土気色して白目も濁る疲労しきったその姿を許せないとでも。花冠の美少女も寄る年波には勝てないということか。
 暢子はもう一度ため息を()いた。そしていぶかしむのを止め、帰り支度を始めた。
 応接室から書斎へと続く扉のノブに手をかけて、回そうとしたところで手を止めた。帰る前に、もう一度綾乃の寝顔を見たかった。本人の気にしている目の下のシワを、大したことなかったよ、と言ってやりたかった。だが暢子はそうしなかった。
 もうひとつの扉から廊下へ出て、音を立てないように洋館を出た。
 暢子は仕事場である洋館から徒歩十分の1DKに住んでいる。大正期の建築である洋館よりも駅に近い。
 自室に着き、暢子は軽い眠気を感じてシャワーを浴びた。こうすると自分が眠りたいのかそうでないのかがはっきりする。
 風呂場から出た暢子の舌と咽はコーヒーを欲した。腰にバスタオルを巻きつけたまま、暢子は自分ひとりのためにコーヒーを落とした。豆を買うときにはいつも反射的に「トラジャを」という言葉が口をついて出る。酸味と苦味のバランスの取れた、ふくよかな香りのそれは、綾乃の好みだった。
 かつて共に暮らした日々、原稿料で懐が潤い始めた頃から、綾乃はいつもそれを好んでいた。
 仕事場に用意する豆は必ずこれだが、自宅用を買うときも暢子は機械的に同じものを注文してしまう。暢子には豆の好みなどないのに。暢子がコーヒーを飲むのは思考をはっきりさせるためと自分の胃を痛めつけるためだけだった。
 シャワーの熱気が冷めてひんやりしてきた胸がコーヒーで再び温まった。暢子は床に落ちたバスタオルを蹴飛ばして、大股で部屋を横切った。眠気は暢子の(もと)を去った。暢子は仕方なくひとりの生活の雑用を始めた。コーヒーで覚めた頭に、ふくふくと眠る子猫の寝顔を思い浮かべて。
 白い和毛の柔らかな感触を想像しながら。
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