第9話

文字数 6,036文字

 呼び出し音が延々と続く。これで十三回目だ。
 ウェインは椅子に腰を下ろし、携帯をテーブルに置いた。
 イーシンは逃げた。カリムとミーアに会ったことはない。鍵は道端で拾った。
 ――……見え透いた嘘を。
 サイードはカリムとミーアを知っていた。二人が外出するのを見計らい襲ったと考える方が自然だ。
 しかし、サイードの言葉を否定すればカリムとミーアに危害を加えたと、イーシンは既に処刑されたと認めたことになる。
 ウェインは深く俯いた。
 アース本社社長ロバート・ロッシュに電話をかけた。
 ロバートは「イーシンから連絡は来ていない。カリムからも報告がない」と沈んだ声だった。
 テレビをつけても『男女二人が行方不明になった』という報道は流れていない。それどころか訓練場襲撃事件の報道すらなかった。
 サイードの支配地域だからサイードに関わる事件の報道は規制がかかっているのかもしれない。
 平然と訓練場襲撃事件の首謀者は自分だと認め、人質として捕らえたイーシンの存在を忘れたかのように反応は薄かった。
 笑顔で再会を祝い、懐かしむように昔を語る。ジュディの死を口にしても顔色一つ変えなかった。
 妹想いの人だった。ジュディと義理の母親に毎月仕送りをしていた。ジュディの誕生日には手紙とともにプレゼントを送っていた。ジュディはとても喜び、そして悲しんだ。
「私に仕送りしなければダリウスはもっと楽に暮らせるのに」
 ジュディは奨学金と生活費を稼ぐために軍隊に入った。ダリウスの負担になりたくなくて、義理の母との生活を支えたくて、市民権がほしくて……。病気がちの義母に軍の病院で治療を受けさせたい、とも言っていた。
 軍に入隊すれば、移民にも市民権が与えられ、本人だけでなく家族も軍の病院で治療が受けられた。
 ジュディは義母を実の母のように慕っていた。実の両親は、移民としてアメリカに入国して間もなく死んだ、と聞いた。病死だったと。ジュディはアメリカで暮らす同じ移民の家族に引き取られ、ダリウスは新しい家族には加わらず、一人働きに行った。
 ダリウスが帰ってきた時は決まってジュディは幼な子のように片時も離れず、ダリウスも打ちとけた様子でジュディに付き合っていた。
 あんな兄さんがいたらなと、二人の関係を羨ましく思っていた。
「ひ弱な精神しか持たぬのに軍に入った報いだ」
 別人のような冷たい言葉が胸に突き刺さっている。
 泣き崩れる義母をよそに、ジュディが眠るベッドの傍らで佇んでいた。
 あの時ダリウスの心も死んだのかもしれない。
 ダリウスがジュディを亡くした絶望と怒りから武装組織の指導者になったのなら、ジュディを自死に追いやった自分が彼の行いを止めなければならない、そう思っていた。
 両手を広げ歓待するサイードに、時折見せる冷淡さに、十二年という歳月を思い知らされた。
 昔の彼と今の彼はあまりにも違いすぎた。
 ジュディを追いつめた、カリムとミーアを巻き込んだ、イーシンを助けられなかった。
 いや、サイードの言う通り三人とも生きているかもしれない。サイードの中に昔の彼が残っているなら。
 一縷の望みを捨てきれずあがく自分を見下ろすもう一人の自分がいた。
 その顔がサイードに重なった。

「シエナです。開けて下さいますか」
 ウェインは重い頭をゆっくり起こし、扉を開けた。
 ニカブを目深に被ったサイードの妻シエナがいた。身長は自分の鎖骨あたりしかなく、なで肩で、腰が細い。手の甲はきめが細かく、爪も滑らかだ。声は高く澄んでいる。
「夕食の時間になります。本宅へおいで下さいませ」
 ウェインはシエナの目を見た、見てしまった。さっきはサイードとの話に気を取られ分からなかったが、シエナの目元には深くニカブを被っていても分かるほど大きな火傷の痕があった。鼻をまたぐ形で右目と左目にかけて皮膚がケロイド状になり、まつ毛が欠けていた。
 黒く大きな瞳は暗く沈み、哀しみを湛える。不意に「絶望」という言葉が浮かんだ。
 視線が目に集中していることに気づいたのか、シエナは暗い瞳で顔を伏せる。ウェインは罪悪感にかられた。
 謝れば余計彼女を傷つけてしまう。
 ウェインは黙ってシエナの後を歩いた。

 サイードとシエナ、ウェインの三人で食事を囲む。
 鶏の腹に香菜を詰めて焼いたもの、豆を炒ったもの、豆のスープ、ライス……、一人で作るには大変な量と種類だった。
 しかし、「これをシエナさんが一人で作ったのですか」などと労う気分ではなかった。食事には感謝するがここには話をしに、交渉に来たのだ。
 ウェインは口火を切った。
「カリムと連絡がつきません。私を客人というなら明日、イーシンを捕らえていた場所に案内して下さい。そして私を解放してほしい。カリムとミーアの安否も確かめたいのです」
 サイードはにこやかに応対する。
「十二年ぶりの再会だというのにせっかちだなぁ。この料理はシエナが四時間以上かけて調理してくれたものだ。話はあとにして食事を楽しもう」
「イーシンが逃げたというなら何かしらの連絡が私にあるはずです。しかし、どこからも連絡がない。重傷を負っているならここに長居はできない。助けに行かなくては」
 サイードは豆料理を口にする。
「イーシンは君のなんだい。恋人かな」
「違います」ウェインは即答した。「同じ職場の仲間です」
 サイードは「ふーん」と軽く首を傾げる。
「さっきの返事をまだ聞いていない」
 ウェインは訝った。
「私の妻にならないかという話だよ。明日帰るというなら私はフラれたのかな」
 ウェインはさっとシエナに視線を走らせた。英語で話しているとはいえシエナがいる前で、無神経すぎる。
「……お断りします」
 ウェインは小声で言った。シエナには聞かれたくなかった。
「……そうか、残念だ」
 サイードは微笑んだ。
「では、明日監禁場所だったところに案内しよう。それでお別れだ」
 違和感が拭えない。
 人質が逃げてもサイードは平気そうだ。身代金が手に入らず、部下が七人負傷したにも関わらず追手をかけるわけでもなく、イーシンの代わりに自分を捕らえようともしない。それどころか「妻になれ」とは。その余裕はどこから来るのか。
 世界が割れる瞬間を。
 不意にサイードの言葉が浮かんだ。
 単刀直入に聞いてもはぐらかされる、ウェインは遠回しに聞いた。
「なぜ、訓練場を襲撃したのですか」
「資金が欲しかったのだよ」
 サイードはさらりと答えた。
「身代金を手に入れたいなら二人と言わず、五人でも十人でも捕らえた方が理にかなっています」
 サイードは声をあげて笑った。緊迫した場にそぐわない明るい笑い声が通る。おかしくてしかたがないというふうに床に手をつき、体を傾ける。ひとしきり笑い、ああ、面白かったというふうに大きく息を吐く。
「堅物のウェインからそんな物騒な提案が出るとは思わなかった。身代金をあてにして襲撃したんじゃない。実績をあげ組織の存在をアピールしないと寄付金が集まらないんだ。部下に払う給料や軍資金、いろいろと要りようなのだよ。私は訓練場があってもなくてもよかった。出資者の意向でね。リー・イーシンを捕らえたのは面白そうな男だったからだ。指導者になると対等に話す者がいなくてね。あのイーシンという男は殺されるかもしれない状況で私に反抗した。生かすつもりはなかったが少しの間楽しめると思ったんだ。その前に逃げられたけれどね」
「……神を信じないあなたがなぜムスリム革命団の指導者になったのですか。何が目的ですか」
 話の本題に切り込む。
 サイードは目を細めた。込みあげる笑いを押し殺しているようにも見えた。
「ウェイン、君は神を信じるか」
 話したくて仕方がなかったというようにサイードの声は上ずっている。
「……分かりません」
 ウェインは正直に答えた。もう一度考える。
「分かりません」
 答えは同じだった。信じていた頃もあった。ジュディが亡くなった時も信じていた。自殺という大罪を犯した彼女をお赦し下さい、天国へいかせて下さいと祈った。
 しかし、戦場に立つ度に神の存在は遠くなった。死体を踏み越え殺し合い、倒れていく。人が木切れのように壊れ、割れた水風船のように血が飛び散り、蝿が集り真っ黒になった死体があちこちに転がる。
 神がいるならなぜこの惨状を放っておくのか。戦場に神の息吹は感じられなかった。あるのは死臭と破壊と荒廃のみ。
「私はずっと不思議だった」
 サイードが語る。
「人はなぜ神を信じるのか。姿を見たことがない、声を聞いたこともない不確かなものに、なぜ人間は一生を捧げるのか。同じ宗教を信じているというだけで助け合い、共感し合う。理不尽な扱いを受けたと我が身に起きたことのように怒り、憎悪する。かと思えば、神に忠実な信徒であると証明するために侵略し、略奪し、凌辱し、殺戮する。不思議とは思わないか。コーランさえろくに読めない者が神の名を叫び、己の命すらなげうつ。一日五回の祈りと断食は怠るのに」
 ウェインは黙っていた。
「もし私が神なら迷惑極まりないと思うよ。己の名を唱えられ悪逆の限りを尽くされるのだから名誉棄損もいいところだ」
「あなたの、あなたがやっていることも同じではないですか。訓練場を襲撃し、施設関係者を殺し、イーシンを誘拐した。どこが違うのです」
 ウェインは怒りにわななく。サイードはなだめるように優しく言う。
「私は彼らを非難しているのではないよ。目に見えぬ者のために獣のごとく働き、死すら恐れない。自爆攻撃など、私からすればまさに驚くべき事象だ。彼らの生きざまは狂気のようであり、崇高ですらある。……これでも私はIS系の武装集団に属していたことがあってね。彼らの思想に染まれば疑問は解けるのではないかと思ったんだ。……全くの無駄だったけどね」
 サイードは鼻白んだ。
「私は疑っているんだ、彼らの行いは本当に信仰心からきているのかと。神だの愛だの平和だのと唱えていても、真実は己の欲を満たしたいがために差別し、排斥し、侵略し、凌辱し、殺戮を行うのではないかと。土地が欲しい、女が欲しい、金が欲しい、権力が欲しい、安全が欲しい、平和が欲しい、死にたくない……。あらゆる欲望を満たしたいがために、不安や恐怖から逃れたいがために、人間は神というありもしないものを創り上げたのではないかと」
 ウェインは反論できなかった。神という存在に疑問を抱いていた。
「私は知りたいのだ。神という言い訳をなくした時、人はどうなるのかを。欲望を剥きだしにし殺し合うのか。それとも不信と憎悪を募らせながらも共存をはかるのか」
 口の中がカラカラだ。何度も出ない唾を飲み込み、問うた。
「……世界が割れる瞬間、ですか」
 喉が引き攣り、痛みが走る。血の味がした。
 サイードの目が金色の光を放ち、赤みがかった茶色の髪が光沢を帯びる。
 鮮やかに笑う赤と金が禍々しかった。

 ※

 満天の星空に白い月が浮かんでいた。砂がさらさらと流れる音がする以外は何も聞こえない。
 ウェインは月を見上げた。
「ウェイン、私たちは人殺しよ。『イラクの自由と民主主義のため』と言いながら何の罪もない人たちを犠牲にしているのよ」
 ジュディと言い争った最後の夜を思い出す。
「私は少年を撃ってしまった。女性も老人も撃ったの。検問所で『止まれ』と言ったのに止まらなかったから。その場にいる全員で撃った」
 ジュディは両手で顔を覆い泣いていた。手の隙間から透明の滴が零れる。
 ウェインは見ていられず、視線を逸らした。
 アルコールの臭いが鼻を衝く。テーブルに薬のビンが転がり、ウィスキーのボトルが残り少なくなっていた。
 あの日、ジュディを説得し精神科へ入院させるつもりだった。
「……敵は市民に紛れている。敵と思われたくないならルールを守るべきだ。少年はルールを守らなかった。撃たれても仕方がない」
「一人や二人じゃない、二百人、三百人と撃ったの。殺戮と同じよ。誰も止めようとしなかった。上官が止めろと言ってくれれば。みんな無言で撃っていた。私も無我夢中で撃った」
 ジュディは濡れた目元を乱暴に擦った。
「私たちはテロリストと同じことをイラクの人たちにしているのよ。私たちは人殺しだわ」
 涙で濡れた顔をしきりに擦り、軍を罵倒する。
 ――ジュディの心は限界にきている。
 ウェインは努めて平静を保った。
「……私と一緒に戦った仲間は敵が仕かけた爆弾で死んだ。五カ月間の軍事訓練を受け、イラクで共に行動した。州兵時代から一緒だった。寝食を共にし、語り合い、助け合い、戦った。その仲間が一瞬で吹き飛んだ。手も足も首も……、ばらばらになって……。今も、戦場で闘っている仲間がいる。イラクの平和と民主主義のためにと。私たちは人殺しではない。テロリストでもない。仲間を侮辱することは許されない」
 抑えていた感情が理性の殻を突き破ろうとしていた。ウェインは拳を握り、耐えた。
「侮辱していないわ。真実を話しているのよ。私たちがイラクで行っていることは殺戮行為なのよ。みんな知っているわ。イラク戦争はアメリカの侵略行為だって」
「黙れっ」
 怒鳴っていた。睨みつけていた。姉のように慕ったジュディを、己の身に代えても守りたいと思っていた彼女を怒りと憎しみにまかせ睨みつけていた。
 ずっと耐えていた。鬱憤を吐き出して症状が回復するならと、ジュディが帰国してからずっと聞き役に徹していた。軍への批判も甘んじて受けた。しかし、もう限界だった。
「奴らは獣と同じだ。男でも女でも、子どもでも老人でも誰であろうと敵は殺す。一人残らずだっ」
「……ウェイン……」
 ジュディははらはらと大粒の涙を流していた。悲愴な表情で、すがるように見つめる。
「……あなたは、兵士を、続けるつもりなの……。辞めようとは思わないの……」
「辞めるつもりはない。戦争が終わるまで、イラクに平和が訪れるまで私は戦い続ける。死んでいった仲間たちのためにも。……私は州兵を辞め、アメリカ軍に入隊する」
 派遣の任期を終える前から決めていた。
 ジュディの目からかすかに残っていた光が消えていくのを目の当たりにした。
 ウェインは顔を背け、ジュディに背を向け、部屋を後にした。
 ジュディが死んだと知らされたのは翌日、まだ夜の明けきらない早朝だった。
 ジュディはいつも穏やかに笑う、優しい女性だった。萎れた花にも心を痛める繊細さを持ちあわせていた。彼女の心は戦争に耐えられなかった。軍を批判し、自分に悲憤をぶつけることで精神を保っていたのかもしれない。
 ――……ジュディは私に救いを求めていた。苦痛を、怒りを、ありのままの自分を、ずっと一緒にいた私に受け止めてほしかったんだ。けれど、私はその手を払いのけてしまった。
 ジュディの目に残っていたかすかな光、あれは最後の希望だった。消したのは自分。
 ジュディはこの世界に絶望し、逝ってしまった。
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