第20話
文字数 9,126文字
ウェインはカーニヒと兵士二人を交えた四人で聖墳墓教会周辺のキリスト教徒地区をパトロールしていた。
兵士二人が先頭と最後尾につき、ウェインがカーニヒの前を歩く。
カーニヒと兵士二人は武装し、ウェインは自動小銃の携行を許されたが防弾チョッキやヘルメット等の装備は与えられなかった、――「あなたの顔がサイードに良く見えるように」と。
銃の所持を許された理由は、「あなたが完全に我々アメリカ軍の傘下に入ったと、サイードに思わせるためだ」とか。
武装した兵士たちに挟まれ歩く居心地の悪さに、警察に連行される犯罪者もこんな気持ちかもしれないな、と苦笑した。
石壁に窓と玄関がついたような建物が隙間なく続く。石畳の細い路地は複雑に入り組み、迷路のようだ。
平素は土産物店や食料品店が軒を並べ、イスラム教徒やキリスト教徒、観光客で賑わっているという。旧市街への立ち入りを厳しく制限している今、ほとんどの店が休業し、人通りもまばらだ。
街全体がひっそりとしていた。
ウェインは後ろを歩くカーニヒに問うた。
「聖墳墓教会を守らなくていいのですか」
カーニヒは冷めた声音で言った。
「聖墳墓教会は武装した兵士を十二分に配置してあります。旧市街をパトロールするのも作戦の一部です」
ウェインは立ち止まり、振り返る。
「カーニヒ大佐、あなたが私を信用できないことは理解しています。客観的に見ても疑われて当然です。しかし、今は与えられた仕事に集中するべきではありませんか。私を監視しながら旧市街は守れません。私はサイードを止めるために全力を尽くします。カーニヒ大佐は『聖墳墓教会の警固』に専念して下さい」
カーニヒは頬をわずかに紅潮させ、ウェインを見据える。
「見くびらないでいただきたい。私情を挟み判断を誤るほど私は愚かではない。警戒するほどミズ、ボルダー、あなたを評価もしていない。ここはイスラエルの支配地域、作戦の指揮はイスラエルが執る。住民の保護は警察の仕事、我々アメリカ軍は要請された任務を忠実に遂行するまでです。私があなたと旧市街をパトロールするのも作戦の一環なのですよ。ミズ、ボルダーにできる限りその姿をアピールしてもらい、あなたの姿を見たサイードに襲撃を思いとどまらせるというね」
「……ボルダーで結構です。妻のシエナを置いて行くくらいです。私がいてもサイードは気を変えません。必ず計画を成し遂げるつもりです」
カーニヒは嘲りを含んだ口調で言った。
「ボルダー。あなたは本当にサイードをよく理解している。軍人だった者がどういった経緯でテロリストの心情を理解できるようになったのか、今度ゆっくり聞かせて下さい」
鋭い言葉が容赦なく心を刻む。
「あなたがくれたサイードに関する重要な助言に基づき隙間なく対応しています。ご安心下さい」
「…………」
カーニヒは、自分を敵視している者は他にもいてその指示に従っているだけとほのめかしている。
かつて所属していたアメリカ軍ばかりか密接な関係にあるイスラエル軍にも疑われているとは。アメリカ軍は命をかけることも厭わなかった唯一の場所、自分を偏見なく受け入れてくれた安住の地だった。
――……私の居場所はどこにもなかったということか……。
いいようのない虚しさに全身の力が抜けていくようだった。
羽音がする。
初めは耳鳴りかと思うほど小さく、次第に数を増やし音量を上げ近づいてくる。空気を振動させ、羽音がけたたましく迫る。
路地に人影はなく、猫一匹見当たらない。カーニヒと兵士も気づいた、厳しい表情で銃を構える。
突如、黒いモノが無数に建物屋上から路地になだれ込んできた。路地いっぱいに広がり濁流のように押し寄せる。
ウェインは、カーニヒも両脇へ飛び退く。黒い流れが目の前を突っきっていく、兵士一人が銃を発砲した。
弾け飛んだ流れの一部が壁に激突し、窓を割り、地面を滑る。本流は動きを緩めることなく路地の向こうへ消えていった。
散乱する無数の黒いモノが静かに燃え始める。
ウェインは近づき、確認する。
細かく砕けた機体の中、一つだけ原型を留めていた、プロペラがついた超小型無人機だった。爪を立てるように地面にとりつき発火している。
プロペラ音に、ウェインははっと空を見上げる。
上空を灰色の機体が二機、三機と飛んでいく。聖墳墓教会の方角だ。機体の胴体部分に星条旗のマークがついていた。
カーニヒの顔色がさっと変わる。
「カーニヒだ。無人機が教会に向かっている。航空機型三機、ハチ型は無数。迎え撃て」
カーニヒは無線で報告する。
「了解。迎撃します」無線機が応答する。
兵士二人は銃を構え、カーニヒの左右を護り固める。
爆発音が立て続けに起こる。教会の方ではなくイスラム教徒地区の方で煙が上がった。
ウェインは駆け出した。
「ボルダー、待てっ」
カーニヒの制止を無視しウェインは走った。
カーニヒは護衛が二人ついている。聖墳墓教会も神殿の丘も武装した兵士で固めている。守りが最も手薄な場所はイスラエル兵が入りたがらないイスラム教徒地区だ。
旧市街上空を飛び交う無人機をイスラエル軍の哨戒機が攻撃し、旧市街の外からもイスラエル軍が放った地対空ミサイルが無人機めがけ飛んでくる。
ミサイルが黒い群れに命中しバラバラと墜落する。灰色の機体は悠々と上空を旋回し、再度ミサイルが二発、三発と飛んでくる。
外れた一発は尾を引き街中に消えた。一発は命中したが――、爆発とともに無数の残骸が小さな爆発を繰り返しながら旧市街へ墜ちる。屋根を崩し、壁を壊し、地面で燃え続ける。
ウェインは降ってくる残骸をかわし、砕けた石畳を走った。
旧市街の主な城門の一つ、ダマスカス門は大勢の兵士が重火器を配備し護りを固めている。
実際、ダマスカス門の方から砲撃や銃声が聞こえ、ミサイルを誘導するレーザーが上空を飛ぶ灰色の機体へ照射されていた。
ウェインはダマスカス門ではなく、少し離れたヘロデ門へと走った。
直方体の重厚な石造りに菊の花をかたどった紋がついた、ヘロデ門が見えた。
怒号と悲鳴が交錯する。
石造りの家屋が崩れ、狭い通路が瓦礫に塞がれていた。髭を生やした男たちは老人の腰を押し上げ瓦礫を乗り越え、ヒジャブで髪を隠した女は子どもの手を引き瓦礫をよじ登り、門へとひた走る。
黒や灰色の無人機が頭上を飛び交い、人々はパニックに陥っていた。
灰色の機体が門のてっぺんに突っ込み、爆発とともに砕ける。黒い機体が門の壁にはりつき、燃え始める。
兵士が迎撃しているが追いつかない。空を埋め尽くすほどの機体に比べ、兵士の数が圧倒的に少ない。
灰色の機体が急降下し門の壁に突進する。ウェインは門の前へ立ちはだかり接近する機体を撃ち落とした。
黒い機体が次々と門に取りつき発火する。ウェインは燃える機体をはたき落とし、頭上から突っ込んでくる機体を撃ち落とす。
人々が雪崩を打って門の前に押し寄せる。
「落ち着いて。列になって出るんだ」
人々は頭をかばい、腰を屈め、門の外へとひた走る。
――出口を確保しなければ。
向かってくる機体を撃ち、壁面に取りつく機体を叩き落とし、気が遠くなるほどの時間、出口を死守した。
「残念。観客をみんな逃がしてしまったのか」
ばっと振り向く。
黒のTシャツにジーパン姿のサイードが立っていた。ポケットに手を入れ、懐かしむように目を細める。
「ウェインがここまで来るとは思わなかった。みんな逃げた。門は守らなくていい」
ウェインははっとして辺りを見回す。民間人は誰もおらず、兵士は倒れていた。
「無人機に気を取られている兵士を撃つのは簡単だったよ」
サイードは微笑み、銃を見せる。サイレンサー(減音器)が装着されていた。
「……な、ぜ……」
――なぜこんなことを。なぜここに。
「もうすぐクライマックスだ。おいで」
サイードはくるりと背を向け歩き出す。ウェインはふらふらとついていった。
案内されたのは地下室。
照明が室内を明るく照らす。パソコン機器や無線機がテーブルに広がり、壁に取りつけたモニターが旧市街の様子を刻々と映し出す。
サイードはキーボードや無線機をゴミ箱に捨て、腰かける。視線を感じたのか、こちらをちらと見る。
「これはもう使わない。私の仕事は終わった。後は待つだけだ」
「……これが……、あなたの、計画ですか」
自分でもはっとするほど声が震えていた。
サイードはにこやかに笑い、隣の席を勧める。
「そこからでは観えないだろう。ここに座りなさい。もうすぐ始まる」
表情も口調もいたって穏やかだ。再会したあの日より、サイードの居宅で話したあの夜よりもずっと寛いだ様子だった。
ウェインは銃口をサイードに向けた。
「あなたを捕まえて軍に突き出す。シエナはアメリカ軍の監視下に置かれています。あなたの計画を阻止できればシエナは解放されます」
手遅れだと分かっていた。しかし、サイードを軍に引き渡すしかシエナを救えない、サイードを止められない。
サイードは、おや、というふうに顎をくいっと上げる。
「シエナには早く逃げるように言ったのだけれどね。捕まってしまったか」
のんびりした口調にカッとなった。はずみで引き金にかけた指がビクッと動き、辛うじて押し止める。
「私を殺しても何も変わらないよ。無人機は自らの意思で動いている。私は観客の一人にすぎない」
サイードはモニターを見上げながら感心したように呟く。
「さすがアメリカ製だ。操作が簡単なうえ性能が抜群だ。見てごらん。本当に生きているように動く。急遽予定を早めたうえこれほどの数を飛ばすのは初めてだったから上手くいくか不安だったんだ。ちなみに無人機は全てアラブ人から買い取ったアメリカ製だ。人工知能を無人機に取りつける設計図もアメリカ空軍から借りた。言っている意味が分かるかい。聖地を破壊している兵器と技術は全て、アメリカが造ったものだ」
ウェインは激昂した。
「あなたが計画し実行したっ」
サイードは華やかに笑った。
「違うよ、ウェイン。計画は協力者なしには実行できなかった。資金も、この部屋も設備も、私が旧市街に入られたのも協力者がいたからだ。部下を含め、君が思うよりずっと多くの協力者がいるのだよ。私は計画の一端を担ったにすぎない」
サイードに後ろめたさや罪の意識は微塵も感じられない。表情は明るく、生き生きとしていた。
サイードは刻々と変わる旧市街の様子を眺め、ゆったりと笑む。
旧市街の上空は無人機や哨戒機が飛び交い、至る所で炎があがっていた。
神殿の丘は煙に覆われ見えず、嘆きの壁は焼け焦げ一部が崩落していた。聖墳墓教会は辛うじて無傷だった。
「面白いと思わないかい。同じ神を信仰する者同士が聖地を巡り殺し合う。この狭い土地を見えない壁で隔て、行き来を制限する。私には信仰を口実にした縄張り争いにしか見えない」
サイードはモニターに映し出される旧市街の様子を興味深そうに注視する。
「平和だ、民主主義だと他国の領土を爆撃する大国と、神の名を唱え略奪と破壊を行う武装組織と、どれほどの差があるだろう。両者は合わせ鏡、似た者同士なのさ」
モニターに映る無人爆撃機を指先でなぞる。
「アメリカは圧倒的な軍事力と莫大な資金で殺戮を行う。我々は寄せ集めの銃を手に、地を這い、人込みに紛れ、はては爆弾を体にくくりつけ敵に挑む。アメリカが市民を何千人殺そうと問題にならないのに、武装組織が百人殺せば大騒ぎだ。不公平とは思わないかい。やっていることは同じなのに責められるのはいつも我々弱者だ。安全な空から爆弾を落とすアメリカより、銃と爆弾を手に『神の国へ行ける』という幻想を信じ、体一つで戦闘機に向かっていく彼らの方がずっと純粋だ」
ウェインはたまりかねて叫んだ。
「私はっ、私が属していたアメリカ軍は無実の人間を殺さない。略奪もしない。テロリストとは違う。一緒にするな」
引き金にかけた指が痙攣する。怒りにまかせ引き金を引けば不快な戯言を聞かなくてすむ。
サイードを睨みつける。視界の端が涙で滲んだ。
サイードはふっと蕩けるような笑みを浮かべる。
「ウェイン。私はアメリカを責めていない。むしろ感謝しているんだ。私は宗教、法、倫理……、人間が創ったあらゆるきれいごとに疑問を抱いているのだよ。理想は強者の思惑と利害で簡単に塗りかえられ、恩恵にあずかれない者を憎悪と破壊へ駆り立てる。アメリカはその最たるものだ。『テロとの戦い』を名目に世界中に武器を売りさばき、戦争を起こし、分断を招き、憎悪を植えつける。利害が一致すれば武装組織にすら武器を与え、歯向かえば爆撃する。アメリカがテロリストを生み育てている張本人なのだよ」
「黙れっ」
ウェインは耳を塞いだ。
強く、強く耳を塞ぎ、ギリギリと歯を噛みしめる。瞼の裏に火花が散った。
――でたらめだ。私は、仲間は、お前たちテロリストから市民を守るために、アメリカを、世界を守るために戦った。
違う、……何が……。違う、……本当に……。
ジュディが死んだのは、自分が軍を辞めたのは、軍に、アメリカに失望したからだ。他国を攻撃し、兵士を失い、市民を殺し、それでもなお終わらない戦争を続けるアメリカに失望したからだ。
「ああ、いよいよ始まる」
椅子を引く音がした。
「三年以上の月日をかけて準備したんだ。ウェインもご覧」
ウェインはモニターにふらふらと近づく。
神殿の丘に立ち込める煙を突き抜け、巨大な緑色の機体が現れる。無人機よりはるかに大きく、装飾された胴体部にロゴマークが描かれている、――旅客機だった。
機首を下げ、急降下していく先に、聖墳墓教会の青い屋根が目に入った。
ウェインは凍りつく。立ちすくみ、旅客機を凝視する。
聖墳墓教会との距離八十メートル、接近する旅客機の胴体部に赤い光線が照射され、直後爆発した。
旅客機が真っ二つに割れ、火に呑み込まれる。モニターいっぱいに火が拡がり、ブツリ、映像が途切れた。
ガタッ。サイードは立ち上がり、暗くなったモニターを食い入るように見つめる。
映像が切り替わり、大破した旅客機を映し出す。
折れた機首が旧市街を囲む城壁に激突し、一部が新市街の住宅地へ突っ込んでいた。旧市街に残った胴体部分は大きく裂け、黒焦げになった内部が遠目からでも見える。
黒煙が高くあがり視界を遮り、噴煙の隙間から教会の青い屋根がちらりと見えた。
教会は無事のようだが、乗客は……。
ヘリコプターが上空を旋回し消火剤を撒き始める。地上では旧市街の内と外から兵士と消防士がホースを引き込み消火に当たっていた。火は衰えず爆発の危険がある。しかし、大破した旅客機から乗客が降りてくる気配はない。
ウェインは総毛立ち、カタカタと震えだす。
「ふうむ」
サイードは唸り、椅子に腰を下ろす。消火活動の様子を映すモニターを見ながら思案顔で口元に指を当て、時折体を軽く揺する。
「民間機を躊躇なく撃ち落としたということは事前に想定していたのかな。民間機を使うとどうして分かったんだろう。……ウェイン、君の入れ知恵かい」
サイードがウェインをひたと見据える。目の奥を通り抜け思考までも見透かすような目つきだ。
ウェインは視線を逸らした。事の成り行きに動転していた。
確信はなかった。なにかあってからでは遅いと思い、カーニヒに伝えた。しかし、旅客機を撃ち落とすとは……。他に方法がなかったのか。乗客の命より聖地が大事か。カーニヒに伝えなければよかったのか。
ぎりっと歯を噛みしめる。悪寒はするのに腹の底は煮えたぎっていた。
「……あなたは、群れることを嫌う。単独で行動を起こすつもりなら武装組織の指導者にはならない。素顔をさらし目立つ格好で訓練場襲撃や人質を取るといった大胆な行動もしている。シエナや部族長、あなたを知る者を殺してもいない。わざと己に注意を引きつけるように。
『計画の実行者は別にいて、サイードは実行者から目を逸らすためにわざと目立つ行動をとっているのではないか。武装組織を率いるのも実行者を組織内にかくまっているからではないか。もしそうなら無人機で攻撃する以外に人を使い攻撃を仕かけてくる可能性がある。旧市街は車が通る幅がない。空から自爆攻撃をする可能性が高い』と。そう、アメリカ軍に申し出ました。しかし、あなたが旅客機を使うとは思いませんでした。アメリカ軍やイスラエル軍が旅客機を撃ち落とす手段に出るとも……」
サイードは皮肉と自嘲が混じった緩慢な拍手をした。
「見事な推理だ。航空機は新旧のシステムが混在しているからね、乗っ取るのは簡単なんだ。スマホ一つで行き先を変えることも航空機そのものを停止させることもできる。イスラエルはIT技術が進んでいるし、そちらにも優秀なハッカーがいるようだからね。念のため、腹心に『コックピットは私が開錠する。絞殺でも撲殺でも構わない、操縦士を殺せ』と指示した。『航空機をイスラエルの首相公邸に墜落させる』と伝えてね。腹心は操縦技術を持っていない。操縦士を殺せば上手くいくはずだった」
サイードは全て理解したというふうに二度、三度大きく頷き、ふっと笑った。
「この結果では満足できない。次はもっと慎重に、緻密に計画を練らないと」
立ち上がるサイードにウェインは銃口を向ける。
「次はありません。あなたはここで捕まるか、死ぬか選んで下さい」
狙いをサイードの左胸に定める。
「ウェイン。私を殺しても無駄だよ。私が死んでもまた同じ志を持つ者が現れる。その者が死んでもまた遺志を継ぐ者が現れる。我々は無限だ。二百年、五百年、千年経とうと途切れることなく、この地が滅びるまで、世界各地、あらゆる場所で生まれ続ける。理想の中に絶望を、絶望の中に復讐を見いだすだろう」
おぞましい予言だ。
ウェインは今すぐ撃ち殺したい衝動を抑え、ぴたりと狙いを左胸につける。
サイードが小首を傾げ、気遣うように囁く。
「……ジュディを殺したうえ、兄である私まで殺して後悔はしないかな」
ウェインは動じない。
「私はあなたを止める。他に方法がないなら躊躇いません。撃ちます」
銃口からサイードの胸まで二メートルも離れていない。引き金を引けば間違いなく心臓を貫通する。
サイードはふっと真顔になる。
「『私を止めたくてジュディが君に声を聞かせた』という憶測はあながち的外れではないかもしれない。ジュディは知っていたからね、私が君を好きだったことを」
ウェインは動揺した。
揺さぶりをかけて隙をつく嘘だと思うのに、真剣な顔で思案するサイードに昔の彼が重なった。
「ウェイン。私が君にプロポーズをしたのは決して冗談ではない。本心から君が欲しかった」
引き金にかけた指が緊張する。
サイードはうっすらと笑み、ゆっくりと近づいてくる。
後ずさり、追いつめられ、引き金を引いた。
サイードの肩と頬に赤が散った。肩を濡らし、胸を染めていく。
ウェインは息を呑んだ。
サイードが肩の血を手ですくい、指をこすり合わせる。
「これが君の限界か」
サイードがウェインの間合いに入る。
ウェインは動けなかった。
サイードの目がウェインを捕らえる、――挑むように、ねじ伏せるように。
立ちすくむウェインの手からサイードは銃を奪い、ウェインの額に銃口を付けた。
ひやりとした感触が皮膚(はだ)を刺し、頭の芯を貫く。
「どうする。私は君のように撃つのを躊躇わない」
明るく輝く目に淀みはない。
サイードは銃口でウェインの鼻筋をなぞり、顎から胸を伝い、その下へ滑らせ、……発砲した。
右脚が弾け、体が傾ぐ。ウェインは左脚で踏ん張り、歯を食いしばり姿勢を保つ。声はあげなかった。
サイードは微笑み、銃口を横へ滑らせ、左脚を撃ち抜く。
がくんと膝が折れる。傷ついた両の脚に全体重がかかり、支え切れず、ひざまずく。両脚からどくどくと血が流れ床に広がる。喉の奥まで出かかった呻き声を押し殺した。
脚が捻じきれる痛みに体中の血管が脈打ち、鼓動が激しく胸を打つ。ズキズキと刺し込む痛みに冷たい汗が浮いた。
流れる血とともに力と熱が奪われていく。
ウェインは顔をあげ、サイードを睨みつける。
サイードは眩しげに目を細める。
「……今、私は君を殺したくてうずうずしている。せっかくの見せ場を台無しにしてくれたからね。だが、こうも考えている。殺すのは惜しいと。君ほど私の心を揺さぶり、欲望を掻き立てる者はいない」
サイードの目が凶悪に光り、右肩を撃ち抜いた。
グッ、声が漏れ、バランスを失う。倒れまいと手をついた。焼けつく痛みに息がつまり、筋肉が痙攣を起こす。
肩から溢れる血が、両脚から噴きだす血が熱とともに体を伝い、床に広がる。
床が揺れ、体が揺れ、呼吸は乱れ、意識が朦朧とする。
傷ついた肩を強くつかまれる。
激痛に遠のく意識が引き戻される。
ウェインはかっと目を見開き、サイードを視る。
サイードは甘やかな笑みを浮かべ、傷ついた肩に五指を突き立てる。肩が血を噴き、音を立て肉が裂ける。
ぶるぶると震え、凍えた息を吐き、薄れゆく意識を保つ。
払いのける力はなかった。痛みが駆け足で遠のき、酷い悪寒に襲われる。
薄れゆく意識の中、サイードから視線を逸らさなかった。怒りでも、憎しみでも、悔しさでもなく、ただサイードを視た。瞼が閉じ永遠の静寂が訪れるまでサイードを視ているつもりだった。
サイードの眼差しが優しくなり、肩を抉る指の動きが止まる。そして、銃を持つ手をウェインの頭の後ろへ回した。後頭部に銃が当たる。
ウェインは死を覚悟した。
サイードの顔が近づいてくる。吐息が頬にかかり、柔らかな感触が唇に触れる。
何が起きているか、分からなかった。己の中へ侵入してくるモノにびくりと痙攣する。回された腕が首を強く押さえ、銃の硬い感触がうなじに当たる。背中に回された腕がきつく抱きしめ、顔を背けることも、身をよじることもできなかった。
口腔内で熱く、硬く、柔らかく、執拗に絡みつくそれを、息を殺し耐えた。
すっと、唇が離れる。
金色に光る目が熱く濡れていた。両腕で優しく抱きしめ、耳元で囁く。
「急所は外してある。処置が早ければ助かるだろう」
サイードは名残を惜しむようにゆっくりと立ち上がり、扉の向こうへ消えた。
ウェインは動けなかった。
いいようのない屈辱感と無力感に打ちのめされる。
冷たく痺れる指を折り曲げ、固く握る。白くなった拳で赤く濡れた腿を打った。
兵士二人が先頭と最後尾につき、ウェインがカーニヒの前を歩く。
カーニヒと兵士二人は武装し、ウェインは自動小銃の携行を許されたが防弾チョッキやヘルメット等の装備は与えられなかった、――「あなたの顔がサイードに良く見えるように」と。
銃の所持を許された理由は、「あなたが完全に我々アメリカ軍の傘下に入ったと、サイードに思わせるためだ」とか。
武装した兵士たちに挟まれ歩く居心地の悪さに、警察に連行される犯罪者もこんな気持ちかもしれないな、と苦笑した。
石壁に窓と玄関がついたような建物が隙間なく続く。石畳の細い路地は複雑に入り組み、迷路のようだ。
平素は土産物店や食料品店が軒を並べ、イスラム教徒やキリスト教徒、観光客で賑わっているという。旧市街への立ち入りを厳しく制限している今、ほとんどの店が休業し、人通りもまばらだ。
街全体がひっそりとしていた。
ウェインは後ろを歩くカーニヒに問うた。
「聖墳墓教会を守らなくていいのですか」
カーニヒは冷めた声音で言った。
「聖墳墓教会は武装した兵士を十二分に配置してあります。旧市街をパトロールするのも作戦の一部です」
ウェインは立ち止まり、振り返る。
「カーニヒ大佐、あなたが私を信用できないことは理解しています。客観的に見ても疑われて当然です。しかし、今は与えられた仕事に集中するべきではありませんか。私を監視しながら旧市街は守れません。私はサイードを止めるために全力を尽くします。カーニヒ大佐は『聖墳墓教会の警固』に専念して下さい」
カーニヒは頬をわずかに紅潮させ、ウェインを見据える。
「見くびらないでいただきたい。私情を挟み判断を誤るほど私は愚かではない。警戒するほどミズ、ボルダー、あなたを評価もしていない。ここはイスラエルの支配地域、作戦の指揮はイスラエルが執る。住民の保護は警察の仕事、我々アメリカ軍は要請された任務を忠実に遂行するまでです。私があなたと旧市街をパトロールするのも作戦の一環なのですよ。ミズ、ボルダーにできる限りその姿をアピールしてもらい、あなたの姿を見たサイードに襲撃を思いとどまらせるというね」
「……ボルダーで結構です。妻のシエナを置いて行くくらいです。私がいてもサイードは気を変えません。必ず計画を成し遂げるつもりです」
カーニヒは嘲りを含んだ口調で言った。
「ボルダー。あなたは本当にサイードをよく理解している。軍人だった者がどういった経緯でテロリストの心情を理解できるようになったのか、今度ゆっくり聞かせて下さい」
鋭い言葉が容赦なく心を刻む。
「あなたがくれたサイードに関する重要な助言に基づき隙間なく対応しています。ご安心下さい」
「…………」
カーニヒは、自分を敵視している者は他にもいてその指示に従っているだけとほのめかしている。
かつて所属していたアメリカ軍ばかりか密接な関係にあるイスラエル軍にも疑われているとは。アメリカ軍は命をかけることも厭わなかった唯一の場所、自分を偏見なく受け入れてくれた安住の地だった。
――……私の居場所はどこにもなかったということか……。
いいようのない虚しさに全身の力が抜けていくようだった。
羽音がする。
初めは耳鳴りかと思うほど小さく、次第に数を増やし音量を上げ近づいてくる。空気を振動させ、羽音がけたたましく迫る。
路地に人影はなく、猫一匹見当たらない。カーニヒと兵士も気づいた、厳しい表情で銃を構える。
突如、黒いモノが無数に建物屋上から路地になだれ込んできた。路地いっぱいに広がり濁流のように押し寄せる。
ウェインは、カーニヒも両脇へ飛び退く。黒い流れが目の前を突っきっていく、兵士一人が銃を発砲した。
弾け飛んだ流れの一部が壁に激突し、窓を割り、地面を滑る。本流は動きを緩めることなく路地の向こうへ消えていった。
散乱する無数の黒いモノが静かに燃え始める。
ウェインは近づき、確認する。
細かく砕けた機体の中、一つだけ原型を留めていた、プロペラがついた超小型無人機だった。爪を立てるように地面にとりつき発火している。
プロペラ音に、ウェインははっと空を見上げる。
上空を灰色の機体が二機、三機と飛んでいく。聖墳墓教会の方角だ。機体の胴体部分に星条旗のマークがついていた。
カーニヒの顔色がさっと変わる。
「カーニヒだ。無人機が教会に向かっている。航空機型三機、ハチ型は無数。迎え撃て」
カーニヒは無線で報告する。
「了解。迎撃します」無線機が応答する。
兵士二人は銃を構え、カーニヒの左右を護り固める。
爆発音が立て続けに起こる。教会の方ではなくイスラム教徒地区の方で煙が上がった。
ウェインは駆け出した。
「ボルダー、待てっ」
カーニヒの制止を無視しウェインは走った。
カーニヒは護衛が二人ついている。聖墳墓教会も神殿の丘も武装した兵士で固めている。守りが最も手薄な場所はイスラエル兵が入りたがらないイスラム教徒地区だ。
旧市街上空を飛び交う無人機をイスラエル軍の哨戒機が攻撃し、旧市街の外からもイスラエル軍が放った地対空ミサイルが無人機めがけ飛んでくる。
ミサイルが黒い群れに命中しバラバラと墜落する。灰色の機体は悠々と上空を旋回し、再度ミサイルが二発、三発と飛んでくる。
外れた一発は尾を引き街中に消えた。一発は命中したが――、爆発とともに無数の残骸が小さな爆発を繰り返しながら旧市街へ墜ちる。屋根を崩し、壁を壊し、地面で燃え続ける。
ウェインは降ってくる残骸をかわし、砕けた石畳を走った。
旧市街の主な城門の一つ、ダマスカス門は大勢の兵士が重火器を配備し護りを固めている。
実際、ダマスカス門の方から砲撃や銃声が聞こえ、ミサイルを誘導するレーザーが上空を飛ぶ灰色の機体へ照射されていた。
ウェインはダマスカス門ではなく、少し離れたヘロデ門へと走った。
直方体の重厚な石造りに菊の花をかたどった紋がついた、ヘロデ門が見えた。
怒号と悲鳴が交錯する。
石造りの家屋が崩れ、狭い通路が瓦礫に塞がれていた。髭を生やした男たちは老人の腰を押し上げ瓦礫を乗り越え、ヒジャブで髪を隠した女は子どもの手を引き瓦礫をよじ登り、門へとひた走る。
黒や灰色の無人機が頭上を飛び交い、人々はパニックに陥っていた。
灰色の機体が門のてっぺんに突っ込み、爆発とともに砕ける。黒い機体が門の壁にはりつき、燃え始める。
兵士が迎撃しているが追いつかない。空を埋め尽くすほどの機体に比べ、兵士の数が圧倒的に少ない。
灰色の機体が急降下し門の壁に突進する。ウェインは門の前へ立ちはだかり接近する機体を撃ち落とした。
黒い機体が次々と門に取りつき発火する。ウェインは燃える機体をはたき落とし、頭上から突っ込んでくる機体を撃ち落とす。
人々が雪崩を打って門の前に押し寄せる。
「落ち着いて。列になって出るんだ」
人々は頭をかばい、腰を屈め、門の外へとひた走る。
――出口を確保しなければ。
向かってくる機体を撃ち、壁面に取りつく機体を叩き落とし、気が遠くなるほどの時間、出口を死守した。
「残念。観客をみんな逃がしてしまったのか」
ばっと振り向く。
黒のTシャツにジーパン姿のサイードが立っていた。ポケットに手を入れ、懐かしむように目を細める。
「ウェインがここまで来るとは思わなかった。みんな逃げた。門は守らなくていい」
ウェインははっとして辺りを見回す。民間人は誰もおらず、兵士は倒れていた。
「無人機に気を取られている兵士を撃つのは簡単だったよ」
サイードは微笑み、銃を見せる。サイレンサー(減音器)が装着されていた。
「……な、ぜ……」
――なぜこんなことを。なぜここに。
「もうすぐクライマックスだ。おいで」
サイードはくるりと背を向け歩き出す。ウェインはふらふらとついていった。
案内されたのは地下室。
照明が室内を明るく照らす。パソコン機器や無線機がテーブルに広がり、壁に取りつけたモニターが旧市街の様子を刻々と映し出す。
サイードはキーボードや無線機をゴミ箱に捨て、腰かける。視線を感じたのか、こちらをちらと見る。
「これはもう使わない。私の仕事は終わった。後は待つだけだ」
「……これが……、あなたの、計画ですか」
自分でもはっとするほど声が震えていた。
サイードはにこやかに笑い、隣の席を勧める。
「そこからでは観えないだろう。ここに座りなさい。もうすぐ始まる」
表情も口調もいたって穏やかだ。再会したあの日より、サイードの居宅で話したあの夜よりもずっと寛いだ様子だった。
ウェインは銃口をサイードに向けた。
「あなたを捕まえて軍に突き出す。シエナはアメリカ軍の監視下に置かれています。あなたの計画を阻止できればシエナは解放されます」
手遅れだと分かっていた。しかし、サイードを軍に引き渡すしかシエナを救えない、サイードを止められない。
サイードは、おや、というふうに顎をくいっと上げる。
「シエナには早く逃げるように言ったのだけれどね。捕まってしまったか」
のんびりした口調にカッとなった。はずみで引き金にかけた指がビクッと動き、辛うじて押し止める。
「私を殺しても何も変わらないよ。無人機は自らの意思で動いている。私は観客の一人にすぎない」
サイードはモニターを見上げながら感心したように呟く。
「さすがアメリカ製だ。操作が簡単なうえ性能が抜群だ。見てごらん。本当に生きているように動く。急遽予定を早めたうえこれほどの数を飛ばすのは初めてだったから上手くいくか不安だったんだ。ちなみに無人機は全てアラブ人から買い取ったアメリカ製だ。人工知能を無人機に取りつける設計図もアメリカ空軍から借りた。言っている意味が分かるかい。聖地を破壊している兵器と技術は全て、アメリカが造ったものだ」
ウェインは激昂した。
「あなたが計画し実行したっ」
サイードは華やかに笑った。
「違うよ、ウェイン。計画は協力者なしには実行できなかった。資金も、この部屋も設備も、私が旧市街に入られたのも協力者がいたからだ。部下を含め、君が思うよりずっと多くの協力者がいるのだよ。私は計画の一端を担ったにすぎない」
サイードに後ろめたさや罪の意識は微塵も感じられない。表情は明るく、生き生きとしていた。
サイードは刻々と変わる旧市街の様子を眺め、ゆったりと笑む。
旧市街の上空は無人機や哨戒機が飛び交い、至る所で炎があがっていた。
神殿の丘は煙に覆われ見えず、嘆きの壁は焼け焦げ一部が崩落していた。聖墳墓教会は辛うじて無傷だった。
「面白いと思わないかい。同じ神を信仰する者同士が聖地を巡り殺し合う。この狭い土地を見えない壁で隔て、行き来を制限する。私には信仰を口実にした縄張り争いにしか見えない」
サイードはモニターに映し出される旧市街の様子を興味深そうに注視する。
「平和だ、民主主義だと他国の領土を爆撃する大国と、神の名を唱え略奪と破壊を行う武装組織と、どれほどの差があるだろう。両者は合わせ鏡、似た者同士なのさ」
モニターに映る無人爆撃機を指先でなぞる。
「アメリカは圧倒的な軍事力と莫大な資金で殺戮を行う。我々は寄せ集めの銃を手に、地を這い、人込みに紛れ、はては爆弾を体にくくりつけ敵に挑む。アメリカが市民を何千人殺そうと問題にならないのに、武装組織が百人殺せば大騒ぎだ。不公平とは思わないかい。やっていることは同じなのに責められるのはいつも我々弱者だ。安全な空から爆弾を落とすアメリカより、銃と爆弾を手に『神の国へ行ける』という幻想を信じ、体一つで戦闘機に向かっていく彼らの方がずっと純粋だ」
ウェインはたまりかねて叫んだ。
「私はっ、私が属していたアメリカ軍は無実の人間を殺さない。略奪もしない。テロリストとは違う。一緒にするな」
引き金にかけた指が痙攣する。怒りにまかせ引き金を引けば不快な戯言を聞かなくてすむ。
サイードを睨みつける。視界の端が涙で滲んだ。
サイードはふっと蕩けるような笑みを浮かべる。
「ウェイン。私はアメリカを責めていない。むしろ感謝しているんだ。私は宗教、法、倫理……、人間が創ったあらゆるきれいごとに疑問を抱いているのだよ。理想は強者の思惑と利害で簡単に塗りかえられ、恩恵にあずかれない者を憎悪と破壊へ駆り立てる。アメリカはその最たるものだ。『テロとの戦い』を名目に世界中に武器を売りさばき、戦争を起こし、分断を招き、憎悪を植えつける。利害が一致すれば武装組織にすら武器を与え、歯向かえば爆撃する。アメリカがテロリストを生み育てている張本人なのだよ」
「黙れっ」
ウェインは耳を塞いだ。
強く、強く耳を塞ぎ、ギリギリと歯を噛みしめる。瞼の裏に火花が散った。
――でたらめだ。私は、仲間は、お前たちテロリストから市民を守るために、アメリカを、世界を守るために戦った。
違う、……何が……。違う、……本当に……。
ジュディが死んだのは、自分が軍を辞めたのは、軍に、アメリカに失望したからだ。他国を攻撃し、兵士を失い、市民を殺し、それでもなお終わらない戦争を続けるアメリカに失望したからだ。
「ああ、いよいよ始まる」
椅子を引く音がした。
「三年以上の月日をかけて準備したんだ。ウェインもご覧」
ウェインはモニターにふらふらと近づく。
神殿の丘に立ち込める煙を突き抜け、巨大な緑色の機体が現れる。無人機よりはるかに大きく、装飾された胴体部にロゴマークが描かれている、――旅客機だった。
機首を下げ、急降下していく先に、聖墳墓教会の青い屋根が目に入った。
ウェインは凍りつく。立ちすくみ、旅客機を凝視する。
聖墳墓教会との距離八十メートル、接近する旅客機の胴体部に赤い光線が照射され、直後爆発した。
旅客機が真っ二つに割れ、火に呑み込まれる。モニターいっぱいに火が拡がり、ブツリ、映像が途切れた。
ガタッ。サイードは立ち上がり、暗くなったモニターを食い入るように見つめる。
映像が切り替わり、大破した旅客機を映し出す。
折れた機首が旧市街を囲む城壁に激突し、一部が新市街の住宅地へ突っ込んでいた。旧市街に残った胴体部分は大きく裂け、黒焦げになった内部が遠目からでも見える。
黒煙が高くあがり視界を遮り、噴煙の隙間から教会の青い屋根がちらりと見えた。
教会は無事のようだが、乗客は……。
ヘリコプターが上空を旋回し消火剤を撒き始める。地上では旧市街の内と外から兵士と消防士がホースを引き込み消火に当たっていた。火は衰えず爆発の危険がある。しかし、大破した旅客機から乗客が降りてくる気配はない。
ウェインは総毛立ち、カタカタと震えだす。
「ふうむ」
サイードは唸り、椅子に腰を下ろす。消火活動の様子を映すモニターを見ながら思案顔で口元に指を当て、時折体を軽く揺する。
「民間機を躊躇なく撃ち落としたということは事前に想定していたのかな。民間機を使うとどうして分かったんだろう。……ウェイン、君の入れ知恵かい」
サイードがウェインをひたと見据える。目の奥を通り抜け思考までも見透かすような目つきだ。
ウェインは視線を逸らした。事の成り行きに動転していた。
確信はなかった。なにかあってからでは遅いと思い、カーニヒに伝えた。しかし、旅客機を撃ち落とすとは……。他に方法がなかったのか。乗客の命より聖地が大事か。カーニヒに伝えなければよかったのか。
ぎりっと歯を噛みしめる。悪寒はするのに腹の底は煮えたぎっていた。
「……あなたは、群れることを嫌う。単独で行動を起こすつもりなら武装組織の指導者にはならない。素顔をさらし目立つ格好で訓練場襲撃や人質を取るといった大胆な行動もしている。シエナや部族長、あなたを知る者を殺してもいない。わざと己に注意を引きつけるように。
『計画の実行者は別にいて、サイードは実行者から目を逸らすためにわざと目立つ行動をとっているのではないか。武装組織を率いるのも実行者を組織内にかくまっているからではないか。もしそうなら無人機で攻撃する以外に人を使い攻撃を仕かけてくる可能性がある。旧市街は車が通る幅がない。空から自爆攻撃をする可能性が高い』と。そう、アメリカ軍に申し出ました。しかし、あなたが旅客機を使うとは思いませんでした。アメリカ軍やイスラエル軍が旅客機を撃ち落とす手段に出るとも……」
サイードは皮肉と自嘲が混じった緩慢な拍手をした。
「見事な推理だ。航空機は新旧のシステムが混在しているからね、乗っ取るのは簡単なんだ。スマホ一つで行き先を変えることも航空機そのものを停止させることもできる。イスラエルはIT技術が進んでいるし、そちらにも優秀なハッカーがいるようだからね。念のため、腹心に『コックピットは私が開錠する。絞殺でも撲殺でも構わない、操縦士を殺せ』と指示した。『航空機をイスラエルの首相公邸に墜落させる』と伝えてね。腹心は操縦技術を持っていない。操縦士を殺せば上手くいくはずだった」
サイードは全て理解したというふうに二度、三度大きく頷き、ふっと笑った。
「この結果では満足できない。次はもっと慎重に、緻密に計画を練らないと」
立ち上がるサイードにウェインは銃口を向ける。
「次はありません。あなたはここで捕まるか、死ぬか選んで下さい」
狙いをサイードの左胸に定める。
「ウェイン。私を殺しても無駄だよ。私が死んでもまた同じ志を持つ者が現れる。その者が死んでもまた遺志を継ぐ者が現れる。我々は無限だ。二百年、五百年、千年経とうと途切れることなく、この地が滅びるまで、世界各地、あらゆる場所で生まれ続ける。理想の中に絶望を、絶望の中に復讐を見いだすだろう」
おぞましい予言だ。
ウェインは今すぐ撃ち殺したい衝動を抑え、ぴたりと狙いを左胸につける。
サイードが小首を傾げ、気遣うように囁く。
「……ジュディを殺したうえ、兄である私まで殺して後悔はしないかな」
ウェインは動じない。
「私はあなたを止める。他に方法がないなら躊躇いません。撃ちます」
銃口からサイードの胸まで二メートルも離れていない。引き金を引けば間違いなく心臓を貫通する。
サイードはふっと真顔になる。
「『私を止めたくてジュディが君に声を聞かせた』という憶測はあながち的外れではないかもしれない。ジュディは知っていたからね、私が君を好きだったことを」
ウェインは動揺した。
揺さぶりをかけて隙をつく嘘だと思うのに、真剣な顔で思案するサイードに昔の彼が重なった。
「ウェイン。私が君にプロポーズをしたのは決して冗談ではない。本心から君が欲しかった」
引き金にかけた指が緊張する。
サイードはうっすらと笑み、ゆっくりと近づいてくる。
後ずさり、追いつめられ、引き金を引いた。
サイードの肩と頬に赤が散った。肩を濡らし、胸を染めていく。
ウェインは息を呑んだ。
サイードが肩の血を手ですくい、指をこすり合わせる。
「これが君の限界か」
サイードがウェインの間合いに入る。
ウェインは動けなかった。
サイードの目がウェインを捕らえる、――挑むように、ねじ伏せるように。
立ちすくむウェインの手からサイードは銃を奪い、ウェインの額に銃口を付けた。
ひやりとした感触が皮膚(はだ)を刺し、頭の芯を貫く。
「どうする。私は君のように撃つのを躊躇わない」
明るく輝く目に淀みはない。
サイードは銃口でウェインの鼻筋をなぞり、顎から胸を伝い、その下へ滑らせ、……発砲した。
右脚が弾け、体が傾ぐ。ウェインは左脚で踏ん張り、歯を食いしばり姿勢を保つ。声はあげなかった。
サイードは微笑み、銃口を横へ滑らせ、左脚を撃ち抜く。
がくんと膝が折れる。傷ついた両の脚に全体重がかかり、支え切れず、ひざまずく。両脚からどくどくと血が流れ床に広がる。喉の奥まで出かかった呻き声を押し殺した。
脚が捻じきれる痛みに体中の血管が脈打ち、鼓動が激しく胸を打つ。ズキズキと刺し込む痛みに冷たい汗が浮いた。
流れる血とともに力と熱が奪われていく。
ウェインは顔をあげ、サイードを睨みつける。
サイードは眩しげに目を細める。
「……今、私は君を殺したくてうずうずしている。せっかくの見せ場を台無しにしてくれたからね。だが、こうも考えている。殺すのは惜しいと。君ほど私の心を揺さぶり、欲望を掻き立てる者はいない」
サイードの目が凶悪に光り、右肩を撃ち抜いた。
グッ、声が漏れ、バランスを失う。倒れまいと手をついた。焼けつく痛みに息がつまり、筋肉が痙攣を起こす。
肩から溢れる血が、両脚から噴きだす血が熱とともに体を伝い、床に広がる。
床が揺れ、体が揺れ、呼吸は乱れ、意識が朦朧とする。
傷ついた肩を強くつかまれる。
激痛に遠のく意識が引き戻される。
ウェインはかっと目を見開き、サイードを視る。
サイードは甘やかな笑みを浮かべ、傷ついた肩に五指を突き立てる。肩が血を噴き、音を立て肉が裂ける。
ぶるぶると震え、凍えた息を吐き、薄れゆく意識を保つ。
払いのける力はなかった。痛みが駆け足で遠のき、酷い悪寒に襲われる。
薄れゆく意識の中、サイードから視線を逸らさなかった。怒りでも、憎しみでも、悔しさでもなく、ただサイードを視た。瞼が閉じ永遠の静寂が訪れるまでサイードを視ているつもりだった。
サイードの眼差しが優しくなり、肩を抉る指の動きが止まる。そして、銃を持つ手をウェインの頭の後ろへ回した。後頭部に銃が当たる。
ウェインは死を覚悟した。
サイードの顔が近づいてくる。吐息が頬にかかり、柔らかな感触が唇に触れる。
何が起きているか、分からなかった。己の中へ侵入してくるモノにびくりと痙攣する。回された腕が首を強く押さえ、銃の硬い感触がうなじに当たる。背中に回された腕がきつく抱きしめ、顔を背けることも、身をよじることもできなかった。
口腔内で熱く、硬く、柔らかく、執拗に絡みつくそれを、息を殺し耐えた。
すっと、唇が離れる。
金色に光る目が熱く濡れていた。両腕で優しく抱きしめ、耳元で囁く。
「急所は外してある。処置が早ければ助かるだろう」
サイードは名残を惜しむようにゆっくりと立ち上がり、扉の向こうへ消えた。
ウェインは動けなかった。
いいようのない屈辱感と無力感に打ちのめされる。
冷たく痺れる指を折り曲げ、固く握る。白くなった拳で赤く濡れた腿を打った。