第3話
文字数 5,571文字
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「物好きだな。金を払ってまでトイレを修理するなんてよぉ」
呆れたように言うマルクをイーシンは無視した。
家主に配管のプロを紹介してもらい、朝から悪臭と黄ばみが目立つトイレを修理してもらっていた。汲み取り業者に溜まっていた汚物はきちんと処分してもらい、配管工にはトイレを直してもらった。
まだ細かい部分汚れは気になるけれど、便器の穴から汚物は見えず臭いは十分の一くらいにまで減った。
「終わったよ」と道具を片付ける配管工にイーシンは「ありがとう」と報酬を手渡した。
男は紙を一枚、イーシンに差し出した。
「ヤズィード・ムル・ハラ」
紙に書かれた文字を指さし、自分を指し、「名前、漢字、書け」と片言の英語で言う。
おそらく、家主から「名前を言えば漢字で書いてくれる」と聞いたのだろう。家主の家に招待されたあの日も余興のように何人もから頼まれた。
「俺の名前を漢字で書くとどうなるんだ」、「部屋に飾る、書いてくれ」
その度にない知恵を絞り書いた。
「これはどんな意味があるんだ」、「同じウサクなのにこいつの字と違う。どうしてだ」等々、質問攻めにあった。
おかげで宴が終わる頃にはすっかりくたびれてしまった。
イーシンは配管工から紙を受け取り、げんなりしながら書いた。渡すと大いに喜んでくれた。
意気揚々と帰っていく配管工に、マルクは面白くないといった感じで鼻息を荒くする。
「漢字が書けるくらいでいい気になるなよ。物珍しいから集まってくるだけだ」
「そうね」とイーシンは合わせた。マルクの大人げない対抗心にもうんざりだ。
「トイレもきれいになったし、これで私の便秘も解消されるわ」
「なんだ、トイレくらいで。したくなったらそこらへんですればいいだろ、ぷりぷりっと」
「…………」
ここまで下品だと殺意すら覚える。
「あなたは汚物まみれでも平気そうね」
マルクは気分を害する様子もない。
「せっかくきれいにしたのに残念だな、どうせすぐ元通りになる。金も払い損だ」
「立て替えに決まっているでしょう。ちゃんと施設の経費から落としてもらうわ」
マルクが知ったような口をきく。
「銃器を買う金さえ出さないんだぞ。便所の修理代金なんて払うかよ」
「払わないならこのトイレは私専用にするわ」
「かぁー、けち臭いなお前は。どれ、使い勝手がどんなものか俺が試してやる」
ずいっと便器の前に進み出てベルトをカチャカチャと外すマルクにイーシンは金切り声を上げた。
「止めてちょうだい。あんたのそういう下品なところが嫌なの」
「ああっ。俺のどこが下品なんだ」
「全部よ、全部。顔も性格も言葉遣いも、あんたの存在そのものが下品なのよっ」
イーシンはたまりかねて叫んだ。
マルクは停止し、数瞬後、にたぁっと意地悪い笑みを浮かべる。顔をイーシンに向けたまま、何やら股の辺りをごそごそとする。ジーッと金具が擦れる音がしたかと思うと、くるりと体を向けた。
「しょんべん、ひっかけてやる」
もろ出しになった一物に、イーシンは絶叫した。
「女みたいにぎゃあぎゃあと。同じもんついてるだろ。見せてみろ」
イーシンは最後まで聞かずダッシュで逃げた。
ドンッ。
花火が上がるような音がしヒュルヒュルー……、風を切る音がこっちに向かってくる。
イーシンは反射的に床に伏せた、と同時、壁が吹き飛ぶ。鉄格子入りの窓枠が砕けた壁ごと反対側の壁面に激突する。衝撃と爆風にコンクリ片とガラスが飛び散り、イーシンは体を丸め床を転がりその場を離れる。
天井が崩れ、壁が崩壊し、床に亀裂が入り、イーシンは両腕で頭を庇い床に伏せた。
コンクリ片が肩と背中を強打し、ガラス片が手の甲を刺す。礫が交じった風が吹き荒れ、大量の土砂を浴びる。
イーシンは床に伏し、衝撃と轟音をひたすらしのいだ。
衝撃が止み、風が止む。
さらさらと細かな粒子が髪に、頭を庇う手に、全身にかかり、爆発音も人の気配もしない。
イーシンはそっと頭を上げ周囲を確かめ、そろりと立ち上がった。
イーシンは砂埃を吸い込まないよう持っていた大判のハンカチで鼻と口を覆い、頭の後ろで結ぶ。
トイレに着弾したらしい。便器の破片や水道の蛇口が瓦礫に交じり散乱していた。
グラウンド側の天井と壁はもぎ取られたようにごっそりと無くなり、廊下側の壁は数十メートルに渡り亀裂が入っていた。いつ崩れるか分からない。
積み上がったコンクリ片が廊下を塞ぎ、割れた便器の欠片やガラスがきらきらと光る。
立ち込める砂埃が微風にそよぎ、無くなった壁の向こうへ流れ出す。充満する砂埃で視界は利かない。
イーシンは残った壁の一部に身を隠し、注意深く音を聞き分ける。
至る所で爆発音と銃声がする。空気が振動し、床が微動する。爆発の余韻がここまで伝わってくる。
訓練場敷地内で戦闘が始まっていた。
衝撃の強さから推測して、敵は迫撃砲かそれに類似する武器を持っている。広い訓練場敷地内を同時に攻撃できる人数も有しているようだ。
こちらは訓練を終えわずかなスタッフしか残っておらず、銃器類は武器庫にしまい、イーシンは丸腰だった。
こちらに勝ち目はない。
爆発音が立て続けに聞こえる。方角からして砲兵科が集中的に攻撃されているようだ。こちらは歩兵科のCクラス。砲兵科とはだいぶ離れている。逃げるなら今しかない。
イーシンは壁からそっと離れる。
最後にトイレがあった場所へ目を向ける。砂埃が充満し角度的にも見えないが、直撃を受けたのだ、マルクは即死だろう。
嫌な奴だったが、イーシンは片手を立てて“さよなら”と拝んだ。
山積みになった瓦礫が浮く。イーシンはギョッとした。
瓦礫の山がゆっくりと持ち上がり高さを増し、傾きを増し、大量の土砂が転がり落ちる。砕けた壁面が更に二つに割れ、音を立てて床を転がる。振動とともに砂塵が舞い上がり、イーシンは腕で目を覆った。
大量の砂を頭から被る。小石が交じった砂が襟首の隙間から服の中へ流れ落ちる。
腕をそっと離し頭にかかった砂を払い、顔についた砂を指で軽く払い薄く目を開けると、白く霞む視界に大きな影が差した。
マルクだった。
頭から血を流し、赤く染まった顔面に二つの目玉がぎょろりと動く。イーシンをカッと見据え、動かない。
マルクは二歩、三歩と、日本の怪獣映画『ゴ〇ラ』のようにズシン、ズシンと歩き出す。
イーシンは数歩、後ずさりした。
マルクは積み重なった瓦礫の前で立ち止まり、またごうとしたのだろう、上げた片足が瓦礫にぶつかり、体が大きく傾き、音を立てて瓦礫の山に倒れた。
大量の砂塵が舞い、マルクの分厚い体が瓦礫を押し潰す。
――……びっ、くりしたー。化けて出てきたかと思った。
胸がまだドキドキする。
直撃を受けて立ち上がるなんてどれだけしぶといのかしら。常人なら即死だ。
そのまま行こうとしたが、奇妙なことに胸がチクリとした。
倒れたマルクに視線を落とす。イーシンは首をぷるぷると振った。
――助けるなんてありえない。害にしかならないんだもの、死んでよし。
イーシンはうんうんと頷き退散しようとした。が、どうにも足が動かない。
――無理だってば。こんなでかいの担いで逃げられない。敵に見つかって殺されるのがオチよ。
自分で自分に言い聞かせる。
銃声が断続的になっている。戦闘が終わりに近づいている。迷っている暇はない。
やむをえず、イーシンはマルクを背中に担ぎ立ち上がる。その間も自問自答の連続だった。
――何してるの。こんなの助けたら絶対後悔するわよ。
――しかたないじゃない。体が勝手に動くんだもの。
イーシンはマルクを背負い、銃撃戦とは逆方向の出口へと急いだ。
裏口を出てすぐにゴミの集積場がある、イーシンはそこを目指した。
訓練場の外は砂漠、マルクを担いで逃げるには目立ちすぎる。丸腰では戦いようがない。敵が引き上げるまでゴミの中に隠れることにした。
ゴミ集積場には回収されていない大量のゴミが積み上げられている。いくら敵でも悪臭を放つゴミだめを漁ってまで探さないだろう。
イーシンはマルクを背負い階段を降り、裏口のドアを開けた。思わぬ人物に足を止める。
訓練生のタリク・クマシ少年がいた。こちらに気づいておらず、何かを探すようにきょろきょろとしている。
――……なぜ、こんなところに。
タリクの手には訓練では使わないタイプの機関銃が握られていた。
タリクがこちらに気づく。イーシンと目が合い、固まる。イーシンも動けずにいた。
不意にタリクが空へ向かって発砲した。
たちまち覆面をした黒ずくめの男たちに囲まれ、銃口を突きつけられる。
イーシンはマルクをゆっくり地面に下ろし、両手を上げた。
銃で頭を殴られ、ひざまずかされる。後頭部を銃でごりごりと突かれ、顔を地面に押しつけられた。
イーシンは死を覚悟した。
ついてないわね。よりによってマルクと一緒だなんて。やっぱり助けるんじゃなかった。
熱い砂が顔をじりじりと焼く。
――……痕にならないかしら……。
最期は美しく死にたい、とぼんやり思った。
砂を踏み、誰かが近づいてくる。一人ではない、五人以上はいる。周りにいた男たちの気配が退き、複数の足音がイーシンのすぐそばで止まる。
「起こせ」
野太い声がした。
イーシンは肩をつかまれ手荒く引き起こされ、頭をぐいっと押さえつけられる。
「いい、手を放せ」
今度は澄んだ男の声だ。
荒っぽい手が離れ、イーシンは視線を上げた。
灼熱の陽光を背に受け、白い男が立っていた。
白のガラベイヤ(男性用のワンピース)を身につけ、頭に被った白のクフィーヤ(男性用のスカーフ)を金のイガール(クフィーヤを固定する輪)で止めている。髭を生やしていないせいか若く見える。
クフィーヤからこぼれた明るいブラウンの髪が風にそよぎ、同じ色の目が強い陽光を受け琥珀色に瞬く。
白いクフィーヤがひらめき、足首まで隠す白いガラベイヤがたなびく。男の全身から風が吹いているようだった。
「黒装束の男たちの中で一人だけ白い装束をまとっていた」
「武装集団の指導者は外国人だった」
宴席で聞いた話だ。
――……この男が武装集団の指導者……。
白い男は市場に並べた野菜を物色するような目でこちらを見下ろす。白い男はイーシンの隣で気を失っているマルクをちらと見、またイーシンに目を向ける。
刃物を突きつけられたように首筋がすっと冷えた。
「これは君が書いたのか。あの男が持っていた」
一枚の紙をイーシンの前に置く。
漢字を羅列した紙、トイレを直してくれた配管工に頼まれて書いたものだった。
イーシンは辺りを見渡し、施設の出入り口付近に背中を赤く染め横たわる男を見つけた。顔は見えないが近くにひしゃげた青い工具箱が転がっていた。
鳩尾の辺りがきゅっと締めつけられる。痛いような苦いような感覚がじわじわと広がり、頭の芯がすっと冷えた。
「……壊滅状態の村を救ってくれた慈悲深い集団だと聞いていたけれど、誤りみたいね。武器を持たない市民を撃つのだから。それとも、民間人と兵士の区別もつかないわけ」
「慈悲深い集団」というのは誇張でイーシン流の当てこすりだ。
イーシンはアラビア語ではなく英語を使った。
黒ずくめの男たちは意味が分からなくても自分たちの指導者に発言したこと自体が許せないというように殺気立ち、一斉に銃口をイーシンに向ける。
対照的に白い男は興味深そうにイーシンをまじまじと見る。殺気立つ黒ずくめの男たちをよそに白い男はイーシンの前へ歩み出る。
男たちはさっと銃口を下ろした。
白い男は流ちょうな英語で答える。
「勇敢だな。窮地においても仲間を助け、民間人一人の死に我らに盾つく。民間人の犠牲を減らすために訓練が終わる頃を見計らった。それで我々と鉢合わせたのだからあの男は運が悪かった。これも神の思し召しだろう」
黒ずくめの男たちは白い男の柔らかな口ぶりに当惑しているようだ、食い入るような視線を白い男に注ぐ。
「捕らえた役人と兵士は全て殺すことになっている。君も、その隣の彼も。名前を聞いてもいいかな。勇敢な戦士の名を覚えておきたい」
白い男は柔らかく笑んだ。
白い男はこの状況を完全に面白がっている。いたぶって悦んでいるのだ。殺され方もろくなものではないだろう。手足を一本ずつ斬り落とすか、斬首か、はたまた生きたまま火炙りか。
追いつめられるほどに感情は遠のき、頭は冴えていく。兵士だった頃に身についた習性だ。戦場において感情ほど役に立たないものはない。
イーシンは薄く笑った。
「名前を教えて、私に何かメリットがあるのかしら」
白い男は愉快そうに目を細める。
「名前を教えればすぐには殺さない。君と隣の彼を引き渡す条件で身代金を要求する。その間、君たちの命は保障される。身代金の支払いを断られた時、もしくは支払い期日を過ぎた時はそれまでだ」
「つまり、殺されるということね」
白い男は微笑み、小さく頷く。
「私たちより軍人や役人を人質にとった方がお金になるんじゃないかしら」
白い男は会話を楽しむようにゆったりと話す。
「ISとの戦闘が正念場の今、政府が腐敗役人や弱小軍人を助けるために金を払うとは思えない。財政状態がひっ迫している状況では貨幣価値もあってないようなものだ。イラク紙幣は要らない。彼らは人質になることなく全員処刑される」
口ぶりは丁寧だが話す内容は傲慢だ。
「住民からは搾り取るってわけ。税を徴収しているでしょう」
「納税は我々への服従の証、金額は二の次だ。……外国人である君たちなら我々に大金をもたらしてくれるかな」
白い男は身を屈め、意味深に笑う。
何もかも見透かされているようでイーシンは脇の下に冷たい汗をかいた。