第10話

文字数 5,880文字

 シエナは髪をすき、夫のいる寝室に入る。夫はベッドに横たわり、組んだ両腕を枕代わりに宙を眺めている。シエナがベッドに入っても気づいていないようだった。
 ――……ウェインさんのことを考えているのかしら。
 夫が自ら出向き、居宅に招いた客人は初めてだった。しかも客人が滞在できるようにと部下に離れを整えさせた。
 夫が連れて来た客人が女性だったことに激しく動揺する一方、納得もした。
 ――……この方が、夫の新しい妻……。
 太陽の光を集めた髪は砂紋のように美しい曲線を描き、透き通る灰色の目は闇夜に浮かぶ月を思わせた。小麦色にやけた肌、すっと伸びた肢体、真っ直ぐな視線はどこか近寄りがたく、畏敬の念を抱かせる。
 シエナは悟った。
 赤金に輝く髪、白い肌、トパーズの双眸……、華やかな容姿と他を圧倒する存在感を有する夫にはこの女性こそがふさわしい。
 シエナは物思いにふける夫に思いきって尋ねた。
「あの方を妻に迎えるおつもりですか」
 辛くはない。夫が持っていた写真を目にした時に、「客人を迎えに行ってくる」と出かけて行った時に覚悟はしていた。
「ウェインという方をここに連れてこられたのは妻に迎えるためではありませんか」
 シエナは重ねて問うた。
 宙をさまよっていた夫の視線がシエナを捕らえる。夫は腕を伸ばし、シエナの頬を優しく撫でる。
「妬いているのか」
 夫の視線が顔に注がれている、シエナは顔を背けた。
 黒い髪、褐色の肌、黒い目……、罪の色だ。何より、額から目の下にかけて火傷の痕があった。
 十七の頃、十数人の男たちに凌辱され、顔を焼かれた。男たちは止めようとした父を殺し、泣き叫ぶ母を殺し、乳飲み子の弟を打ち捨てた。家を焼かれ、町を焼かれ、帰る場所を失くした。
 男たちになぶられた痛みと恐怖は三年経った今でも消えない。
 ――……私は、汚れている。
 首筋に触れられ、シエナはびくりとした。
「どうした。震えている」
 夫が腕を取り引き寄せる。シエナは大人しく夫の胸の中に抱かれ、鼓動に耳をすます。
 暗闇が怖い。男が怖い。人間が怖い。この世界が恐ろしい。
 ――……あなたはなぜ私を助けたのですか。
 あのまま死なせてくれれば家族とともに苦痛のない安らかな世界――天国へと旅立てた。大罪を犯すこともなかった。
 夫は何を思い、自分をこの地獄に留めたのか。夫を憎んだ。恨んだ。殺してやりたいと刃物を握ったこともある。
 けれど、純潔を失い周囲から蔑まれ、社会からも疎まれていた自分を妻にと望んでくれたのも夫だった、――部下たちが血相を変え思いとどまるよう嘆願したにも関わらず。
「女なら他にもいます。あの汚れた者だけはおやめください。あの女はいつか災いをもたらします」
「四人まで妻を娶ってもいいのです。あの呪われた女を選ぶ理由がありません」
 口々に反対する部下たちを夫は一蹴した。
「何人もの男に売り渡される女とどれほどの違いがある。私はこの女がいい。この女でなければ要らない」
 部下たちの憤懣やるかたない顔が忘れられない。今でも自分が夫の妻であることに不満を持つ者は多い。
「何を考えている」
 背中を撫でる夫の手が優しい。シエナは夫の胸をそっと押し、伏し目がちに頼んだ。
「あの方を、ウェインさんを妻になさりませ。私は子どもを産めません。妻としての務めを果たせません。……ウェインさんならきっと……」
 男たちに凌辱されたせいか、子どもが産めない体になっていた。身ごもっても数か月で流れてしまう。
 腿を流れる血を、両脚の間から流れ堕ちた我が子を目にする度に、この体は呪われていると思い知らされた。
「ウェインは明日帰る。私とはなんでもない」
 夫の指が頬を撫で、首筋をなぞる。シエナは先ほどの二人の会話を思い出していた。
 夫は饒舌だった。よく笑い、高揚していた。話の内容は分からなかったけれど、二人は対等に、思いのままに意見をぶつけていた。
 ――……ウェインさんは夫の過去を知っている。妻の私が知らない夫を。
 身につけていた衣服が落ち、褐色の肌が露わになる。
 夫がベッドに自分を横たえ、額に、瞼に口づける。労わるような、慈しむような、優しい口づけだった。
 灯りが消える。
 夫に抱かれても何も感じない。肌は冷めたまま、感情も醒めたまま。
 夫に抱かれる間、男たちになぶられたあの屈辱を味わっていた。
 愛撫に反応しない、子どもを産めない、顔に酷い火傷がある妻を夫は変わらず愛してくれる。
 ――……失いたくない……。
 夫だけが希望であり、支えだった。夫と離れたら生きていけない。
 あなたにとって、ウェインさんはどういう存在なのですか。
 そう聞けたらどれほどいいだろう。
 聞けなかった。
 ただの昔なじみ、知り合いでないことは十分すぎるほど分かっていたから。
 シエナは固く目を閉じ、暗闇の中で夫と体を重ねた。

 ――……そろそろ時間か。
 サイードは体を起こし、服に袖を通す。
「どこへ、行かれるのですか」
 シエナが大きな黒い瞳で不安そうに見上げる。
 サイードは苦笑した。
 シエナは音や気配に敏感で少しのことで目を覚ます。
「用事を思い出してね。シエナは寝ていなさい」
 シエナの瞳が不安げに揺れる。
 シエナは暗闇を怖がる。一人では眠れないのだ。布団に潜り、体を丸め震えている。戻ってきた自分にしがみつき、脇の下に体を埋め眠るさまは可愛らしくもあり、可笑しくもあった。
 夜の闇より深い闇をその身に宿しながら何を恐れるのか、と。
 シエナの目は虹彩と瞳の区別がつかない、一切の光を排除するかのような完璧な黒だ。
 色に感情があるとしたら『絶望』こそがふさわしい。
 サイードはその瞳の奥の、更に奥深くに潜む暗い灯に惹かれていた。
 シエナが不安げにサイードを見上げる。サイードは微笑み、シエナの唇に己のそれを重ねる。
 扉がガチャリと開いた。
 サイードは入ってきた人物に目を見張った。
 ウェインが銃を持ち、立っていた。ウェインは銃口を上げる。
「いやっ」
 シエナはサイードに抱きつく。かばうように細い腕を背中に回し強く抱きしめる。小さな肩が震えていた。
 サイードはシエナの背中に手を添える。視線はウェインに釘づけだった。
 部下に始末させたはずのウェインがここにいることが不思議でならない。
 ウェインは銃口を向け黙っている。
 サイードは自嘲気味に笑った。
「感づかれていたとは。私は信用されていなかったのだな」
 夜明けを待たずウェインを始末しろ、と部下に離れの鍵を渡した。
 妻シエナを動揺させないよう、催眠ガスをしかけてから忍び込み、短時間で仕留めるよう指示していた。しかし、ウェインはここに現われた、銃を手にして。
 ウェインは物憂げに答える。
「あなたは私に話しすぎた。私がここを発つと言えばあなたは私を生かしておかないだろう。どういった手段に出るか分からなかったから離れには戻らず、身を潜め様子を見ていた」
「それで部下を殺し、銃を奪ったわけか」
「殺してはいません。門番の一人を殴り倒し、銃を借りただけです」
 サイードはついっと顎を上げ、宙を仰いだ。
「なるほど、部下は誰もいない離れに催眠ガスを撒き、部屋に忍び込み、誰もいないベッドを襲ったわけか。なんとも滑稽な話だ」
 サイードはまだ腑に落ちないと、もう一度尋ねる。
「私はうぬぼれていたのかな。警戒されていたとは。私はもっとウェインに信用されていると思っていた」
 ウェインは苦悶の表情を浮かべた。
「……あなたを、信じたかった。あなたの言うことが本当で、私が疑り深くなっているだけかもしれないと思おうとした。けれど、カリムと連絡が取れない。あなたがカリムとミーアに危害を加えたと考えるしかない」
「また、その話かい」
 サイードは膝を崩した。シエナが小さな悲鳴をあげる。
「私は部下に『私の周りをちょろちょろとかぎ回っているネズミを静かにさせろ』と言っただけだよ。カリムという男に私は会ったこともない」
 ウェインは顔を引きつらせた。
「……部下に、殺させたのですか」
「さあ、それは部下に聞いてみるといい。今、離れにいるよ」
 ウェインは銃口を突きつける。サイードは笑って両腕を軽く広げる。抱きつくシエナの背中が露わになる。
「ウェイン、私を殺しても何も変わらないよ。全ては私の手を離れ動き出している」
「……私は、精神を病んでいたジュディを傷つけ、死に追いやった。ジュディの母が死んだのも、あなたが武装組織の指導者になったのもジュディの死がきっかけだと思っていた」
 低く抑えた声が震える。
「私には神の声は聞こえない。けれど、ジュディの声は聞こえた。『兵士を辞めないの』と。あなたは信じないかもしれないが私はジュディの声を聞いた。彼女はいる。彼女は微笑んでいました」
 現実離れした話だ。ウェインは信じきっているようで苦笑するしかない。
「それはジュディではない。罪悪感から解き放たれたいと願う君の気持ちが見せた幻影だ」
「違いますっ。ジュディはいる。ジュディがあなたの声を私に聞かせたんだ。私にあなたを止めてほしくて、……だから……」
 ウェインは顔を歪め、唇を引き結ぶ。
 サイードは利かん気が強い子をなだめようとやんわりと話す。
「ウェイン、私が武装組織の指導者になったのは私の意志だ。ジュディとは何の関係もない。例え今、目の前にジュディが現れたとしても私は変わらない。私は私の夢を見届けるまでだ」
 ウェインは顔をあげ断言した。
「そうです。私は思い違いをしていた。あなたはジュディの兄ではない。武装組織ムスリム革命団の指導者サイードだ。あなたの企みは私が阻止する」
 真っ直ぐ銃口を向けるウェインに迷いは見られない。金色の髪が輝き、灰色の目が銀色に瞬く。強い決意を全身にたぎらせていた。
 サイードは目を細めた。
「……見違えたな。泣いて震えていた君が嘘のようだ。……ウェイン、私はね、君が現れた時とても驚いたんだ。君はジュディの後を追って死ぬと思いこんでいたからね。あれほど親しかった友を自殺に追い込んでおいて心優しい君が生きていられるはずがないと。亡霊を見るような気分だった。君はジュディより、ずっと強かったんだね。犯した罪を美化できるほどに」
 サイードはゆったりと笑んだ。
 ジュディの死に負い目を感じているウェインには厳しすぎたか。ウェインは真っ青になっていた。目を見開き、立ち尽くしている。まつ毛一本動かさず、呼吸すら忘れているようだった。
 気の毒になるほど傷ついている。
 ウェインはだらりと銃口を下ろし、深く俯き、扉の向こうに姿を消した。

 サイードはふっと吐息を漏らす。
 ――……甘いな。私を阻止すると言ってなにもせずに行くとは。
 嘲りと侮蔑が胸をくすぐる。
 ――……ウェイン、君は死ぬほど後悔するだろう。ジュディを死に追いやったと後悔するよりももっと深く、私を殺さなかったことを死ぬまで悔やむことになる。私の目的が達成された時、私を殺せるチャンスを逃した自分を嫌というほど憎むことになる。
 喉の奥を震わせ、笑いを噛み殺す。
「サイード様っ」
 部下が駆け込んできた。ガスマスクを脇に抱え、顔面蒼白で息を切らしている。離れにウェインはおらず、倒れた護衛でも見つけとんできたのだろう。吹き出しそうなほど血相を変えていた。
「お怪我はありませんか。離れに標的はいませんでした。もしかしたらこちらに――」
「つい先ほど、別れを告げて出て行った」
 部下は更に顔色を失った。二の句も継げないようだ、汗を大量にかいている。
 サイードはふっと笑った。
「ウェインを見誤った私の落ち度だ。責めはしない。しかし、ウェインを逃がしたことで私たちの計画があちら側に知られる恐れが出てきた。後で私のところに来るよう、他の幹部にも伝えろ。計画を立て直す」
「サイード様っ」
 長く仕えた忠実な部下にサイードは労いの言葉をかける。
「アラシン。お前は前組織が解体する前から私に仕えてくれた。感謝している。計画は絶対に失敗したくない。そのために私は敵の眼前に立ち、囮役を演じている。お前たちの役割は私のそれよりも遥かに大きい。必ずやり遂げてくれると信じている」
 アラシンは恐縮したように膝をつく。
「この命をかけて計画を遂行します」
 サイードは顔をほころばせる。
「さあ、もう下がれ。これ以上私の妻に恥をかかせるな」
 サイードは腕を下げシエナの滑らかな肩を見せる。
 部下はシエナに今初めて気づいた様子でばっと顔を背け、「もっ、申し訳ありません」と部屋を出て行った。

「シエナ、大丈夫だ。もう誰もいない」
 サイードは優しく語りかける。
 シエナはしがみつき、小刻みに震えている。
 銃を持ったウェインが入ってきて記憶がよぎったか。
「見てごらん。ここにいるのは私だけだ。君を虐げる者も、忌み嫌う者も、裁く者もいない」
 シエナは短い悲鳴をあげ、いやいやをした。
 ――……やれやれ。
 こうなると落ち着くまでにしばらくかかる。
 サイードはため息をつき、シエナの背中を撫でる。
 監禁場所は爆破し、人質を逃がした部下たちは処刑した。片道二時間以上かけて何も残っていない場所を案内するのは面倒だと手間を省いたのがよくなかった。
 長年の夢を実行に移す段階に入り、十二年ぶりにウェインと再会し、少々浮かれていたようだ。
 計画は確実に成功させたい。慎重かつ迅速に行わなければ。
 胸にしがみつく黒髪が左右に分かれ汗で濡れたうなじが覗く。胸に押しつけられた吐息は荒く、細い肢体はじっとりと汗ばむ。
 ――……哀れな……。
 サイードは冷ややかにシエナを見下ろした。
 火傷の痕を、男どもになぶられた過去を、子どもが産めない体を、己の罪であるかのように怯えて暮らす。
 己の容姿をひた隠し、自身を忌み嫌い、かといって神への信仰を捨てきれず死ぬこともできない。己の欲望に深く蓋をし認めようとしない。
 倫理や信仰に囚われず思いのままに生きればよいものを。欲望のままに、激情のままに、心を解放すれば楽になれるものを。
 サイードは知っていた。
 シエナの奥底にある暗い欲望を。絶望の底に深く根づいた破壊的な衝動を。漆黒の瞳の奥に宿る獰猛な光を。
 だから惹かれた。心揺さぶられ、我がものにしたいと妻に望んだ。
 サイードは両腕でシエナの肩を包み、耳元に唇を近づけ囁く。
「もうすぐだ。もうすぐ世界が割れる。私が証明しよう。神も法も倫理も、全ては人間が創り出したまやかしだと。シエナ、君も知るだろう。世界は欺瞞に満ちていたと」
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