第7話
文字数 7,334文字
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夫は日中の大半をパソコンの前で過ごすか、長椅子で寛ぐ。暇潰しのように妻のシエナを構うこともあれば、「出かけてくる」と言ったきり何カ月も帰らない。
結婚当初は、本当に仕事だろうか、夫に何か遭ったのではないか、私は捨てられたのだろうかと、シエナは眠れぬ夜を過ごした。
夫から連絡はなく、部下に尋ねてもはぐらかされ、シエナは途方に暮れた。
けれど、夫はふらりと帰ってきて、何食わぬ顔で夫婦の暮らしを再開した。
どこで誰と何をしていたのかは言わず、気の向くままパソコンに向かい、長椅子で体を伸ばし、シエナを抱く。
あの日、夫はパソコンの前で「ネズミがいる」と不機嫌になり、家中のパソコン機器を庭で爆破した。部下に残骸を砂漠に捨てさせ、夫は姿を消した。
六か月以上何の連絡もなく、ある日突然やけに上機嫌で帰ってきた夫は、一週間後、訓練場を襲撃した。
夫婦になって三年になる。いまだに夫のことが分からない。これを夫婦と呼べるのかも自信はない。
――……それでも今、夫はここに居る。それが嬉しい。
訓練場を襲撃してから間もなく、夫の元に周辺地域の部族長や地主が挨拶に訪れるようになった。報復を恐れてか、金品を提げ取り次ぎを求める。夫は決まって蝿でも追い払うように手をひらひらさせ会おうとしなかった。
今日は村の部族長が税を納めに訪れる。シエナはお茶の用意を始めた。家政婦は雇っていない。夫は他人を家にあげることを極度に嫌っていたし、シエナ自身、ニカブで顔を隠しているとはいえ火傷の痕が残る顔を人目にさらしたくなかった。
離れは客をもてなす部屋として整えられている。赤い絨毯を敷き、調度品を揃え、旧い型のオーディオもある。
夫は西洋文明の象徴である携帯やパソコンを臆面もなく使う。煙草は吸わず酒も飲まないが、この人は本当に狂信的なイスラム教徒なのだろうかと思うことはしばしばだった。
「役に立つなら西洋の物でも東洋の物でも構わず使う」
以前、夫はそう言った。
髭を生やさないのはなぜですか、と聞いたことがある。髭はイスラム教徒の証のようなものだ。
「髭は似合わないから伸ばすのを止めた」と夫は照れ笑いを浮かべ、「敵の目を欺きたいならテロリストは今すぐ髭とターバンを止めるべきだ」と持論を展開した。
村から遠く離れ、爆撃や銃撃の音はしない。夫の仕事を見聞きすることもない。ここが紛争地だということを忘れてしまいそうなほど静かで穏やかな時間が流れていた。
窓越しに、部族長とお付きの者が見張り役に案内され離れへ行くのが見えた。
シエナはニカブで顔を隠し、お茶が載ったトレイを手に離れへ向かった。
「滞っていた税金です。お納めください」
部族長は恭しくムスリム革命団の指導者に紙幣の一部を差し出す。残りは鞄ごと黒ずくめの男に渡す。
指導者は長椅子にゆったりと体を預け、興味なさげに積まれた紙幣の束を眺める。
「部族長は贅沢な屋敷に住んでいるそうだな。湧き水が出る池があるとか。住民から集めた金をだいぶ使い込んでいるのではないか」
からかうような口調だ。
「滅相もありません。あの家は我ら一族の者が手元にある金を出しあって改築したのです。あなた様に納めるお金に手は出しません」
「ほう。イスラムの教えに従えば富める者は貧しい者に財を分け与えなければならない。屋敷を改築する金があるなら寄付するべきではないか」
笑いを含んだ口調で揺さぶりをかけてくる。
部族長はターバンで覆った頭髪がじわりと湿るのを感じた。
「失礼します」
ニカブを被った女性が茶器の載ったトレイを抱え入ってくる。女は指導者と部族長に茶を出し、静かに下がった。
指導者の妻と噂されているが、客人の前に身内の女を出すだろうか。それに女はニカブで顔を隠していても分かるほど醜い傷痕がある。とても指導者の妻にふさわしいとは思えない。
指導者は「どうぞ。茶でも召し上がられよ」と勧める。
喉はカラカラだったが琥珀色の茶に手をつける気になれなかった。
「今日お伺いしたのは、お話したいことがありまして」
指導者は聞こえていないように茶器に口をつける。
部族長はガラベイヤ(男性用のワンピース)の下で汗をかきながら切り出す。
「実は、サイード様と会って話がしたい、という者がおりまして……」
「客人は有りあまっている」
指導者はすげない。部族長は恐る恐る続けた。
「その者は女性で、名をウェイン・ボルダーと申します。人質になったリー・イーシンの処遇について交渉がしたいと申しており、まして……」
部族長はぎくりとした。
指導者が射抜くようにこちらを見ていた。鷹揚な笑みは消え、楽しげに瞬いていた目が剣呑に光る。
部族長は心臓を握り潰されたかのような衝撃を受けた。
恐れのあまり平伏する。冷たい汗がだらだらと流れる。
部族長は知っていた。この男がどれほど残酷か。意に添わぬ者はことごとく処刑していた。ある者は首を斬られ、ある者は銃殺され、ある者は生きたまま焼かれた。
体を焼かれることは地獄に堕ちると同等であった。体がなければ死した後、最後の審判を受けられぬし、天国にもゆけぬ。
指導者は自分が村民から集めた税を着服していることに気づいている。ずっと前から知っている口ぶりだ。
初めは理性が働いた。
集めた金は村の有事の時にとっておこうと思っていた。しかし、政府役人が村を訪れ、訓練場が建てられ軍人や役人が出入りするようになり、ムスリム革命団の姿を見ることはなくなった。平穏な暮らしはそのままに時間が過ぎていった。
そのうち、ムスリム革命団はどこかに逃げ去った、という噂が広まり、村民から集めた金を支払う必要はなくなったと思うようになった。多額の金を村民に返すにも限界がある。
――……魔が差したのだ。
ムスリム革命団があのならず者を追い出すまで村は壊滅状態だった。それは屋敷も例外ではなかった。娘を殺され、ひ孫を殺され、家を焼かれた。手元に転がりこんできた金で家族が、一族が再び暮らせる屋敷を造って何が悪い。
誘惑に負け金に手を出した。
しかし、ムスリム革命団は再び姿を現し、訓練場を襲い、軍人や政府役人を皆殺しにした、――二人の人質を除いて。
部族長は危惧していた、彼らに納める金を使ったことがばれたら一族もろとも処刑されるのではないかと。
だから指導者の過去を知っているやもしれぬウェイン・ボルダーという女が目の前に現れた時、神から救いの手が差し伸べられたと思った。
指導者の怒りを逸らし歓心を得られれば、己が、家族が、一族が葬られることはないだろう、その可能性に賭けた。しかしそれは見当違いだったかもしれぬ。
指導者は茶器を置き、口を開く。
「どのような女性だ」
部族長は平に伏した。汗で濡れた手を裾で何度も拭い、懐に忍ばせてきた写真を差し出す。
指導者は部族長の手から写真を取り、しばし見る。
「その者は、『私が知っている人と同一人物なら会ってくれるはず』と申しておりました」
部族長はもつれる舌を必死に動かした。
写真に目を落とす指導者の表情に変化は見られない。
「一人で来たのか」
「い、いえ。カリム・ダフィッドと申す者と一緒でした」
指導者の目が写真からすっと離れ、横に滑り、止まる。
「……ああ。私を嗅ぎ回っているネズミか。部族長、まだそのネズミと会っているのか」
指導者は冷ややかに部族長を見下ろす。
「も、申し訳ございません。どうしてもと頼まれ。もう二度と会いません。目障りでしたらその者を始末します。お申しつけください」
指導者は薄く笑い、うるさい蝿を払うように手をひらひらさせた。
シエナは付き添い人に支えられ帰っていく部族長を目にし、いつまでも本宅に戻ってこない夫が気にかかり、トレイを手に離れを訪れた。
扉の前に立つ護衛二人に挨拶をし中へ入る。
夫は長椅子にもたれ、両腕を大きく広げ仰向いている。
シエナが茶器を片付け始めても気づかない様子で、視線の定まらぬ顔で宙を仰ぐ。
夫の手に紙が一枚、引っかかっていた。しわにならないよう、折り目がつかないよう指先で軽くつまむ、そんな持ち方だった。
シエナは夫の手の中にある紙に顔を寄せる。
写真のようだ。青色のヒジャブからこぼれる金色の髪が見えた。
頬を殴られた気がした。視界がぐらりと揺れ、鼓動が跳ねあがる。
動揺してか、手が震える。
夫はよくここではないどこか遠くの世界に心を飛ばしていた。宙を眺め、同じ姿勢のまま動かなくなる。反応もしない。
組織のことであったり、仕事のことであったり、また別のことに思いを巡らせているのかもしれなかった。
一人の時か、もしくは妻であるシエナがいる時にしか無防備な姿を見せないため、私は信頼されていると、シエナは密かに喜んでいた。
けれど今は夫をこんなふうにする写真が気になってしょうがなかった。
――……誰の、写真かしら……。
シエナは写真へ手を伸ばす。
空をさまよっていた二つの目がゆっくりと動き、シエナを捉える。
ビクンッとシエナは震えた。
光彩を放つ目にシエナの姿が映る。また、宙に吸い込まれるように戻っていった。
写真を持つ手が体の向こう側へついっと移動する、シエナから写真を遠ざけるように。
「……ウェイン……」
夫の唇から漏れた響きはシエナの心を凍りつかせた。
平静を保とうにも動悸がやまず、涙がこぼれた。
シエナは口元を押さえ、離れを飛び出した。
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カリムは途方に暮れていた。
部族長に仲介を頼んでから今日で八日目となった。
部族長に電話をかけたが繋がらず、ウェインとともに屋敷まで行くと門番に銃を向けられ追い返された。
ムスリム革命団から連絡はなく、人質を解放したとも、処刑したとも、身代金をつり上げたとも聞かない。ムスリム革命団の指導者がウェインの知り合いかどうかも分からずじまいだ。
支払い期日の十日は過ぎ、ウェインは焦燥感を滲ませていた。
元から口数は少なかったが更に無口になり、じっとしているのは苦痛とでもいうように青白い顔で働き続ける。かと思えば不意に立ち止まり、一点を睨みつけていた。
ミーアは不安げにウェインを目で追い、カリムはウェインから聞いた情報を頼りに指導者の素性を調べたがこれといった手がかりはつかめなかった。
――……身代金要求の期日は過ぎた。アース社に状況を報告しなければなるまい。
いつ停電になるかわからない。カリムはノートパソコンを開き報告文を打ち始めた。
「あの、食材が何もなくて……。買い物に行っても構いませんか」
ミーアが控えめに部屋のドアを開ける。
カリムはキーボードを打つ手を止めた。壁にかけた時計は十一時を回っていた。
「ああ、すまない。こんな時間か。報告文を打っていた」
買い物は男の仕事だ。厳格なムスリムは女性が一人で外を出歩くことをよしとしない。必ず身内の男性を同伴させるか、それが無理なら家の中に留めおく。女子を学校に行かせない父親もいるとか。
――……馬鹿ばかしい。
女子であろうと勉強はするべきだし、学校に行かせるべきだ。極端な考え方をする一部の人間のせいでムスリム全体が同じ目で見られる。
欧米人がテロリスト集団をイスラム原理主義者と連呼する度に苛立ちが募る。
「私が代わりに行きましょう」
ミーアの後ろからウェインの声がする。ウェインは女性だがムスリムではない、一人で外出しても咎められない。腕もたつ、が……。
カリムはため息をつき、
「ウェインは目立ちすぎる。私が行く」とパソコンをシャットダウンした。
通りは人が往来し、爆発音や銃声もしない。訓練場襲撃事件があったことを忘れそうなほど平穏だった。
カリムはカゴを持ち、ミーアの隣を歩く。切り出すタイミングを計りかねていた。
ミーアは夫と三人の子どもを殺され、独り生き残ったという。紛争地で女性が一人で生きるのは困難を極めるだろう。誰かの妻になり養ってもらえればそれなりに楽であろうに、ミーアは亡くなった夫と子どもが忘れられないのか、武装集団の情報を収集する危険な仕事に従事している。
ミーアなりの復讐なのかもしれない。
家族でも親族でもない男とムスリムの女性が同じ屋根の下で暮らす、よほどの決意がなければできないことだ。
復讐であろうと共に暮らせることをカリムは内心喜んでいた。
ミーアを私の妻に……、と思う。
しかし、中東地域を転々とする仕事だ。それも紛争地ばかり。一緒に連れてはいけないし、幸せにしてやる自信もない。
身代金の期日が過ぎた。いずれウェインは帰るだろう。
カリム自身、ムスリム革命団の調査とウェインの護衛及び全面協力という職務が終われば、ここを発たねばならない。
ミーアとの別れが近づいていた。
「何か欲しい物があれば言ってくれ。買おう」
思いきってミーアに持ちかける。
ミーアは気恥ずかしそうに口にする。
「それではオレンジを二つ……。ウェインさん、元気がないので」
――……奥ゆかしい女性だ。
いつも自分を後回しにし他人を気遣う。
ミーアにと買ってきたオレンジを一切れも口にせず食卓に出す。二個、三個買ってきても好きなオレンジに手をつけようとしなかった。
母だった頃の習性なのか、それとも亡くなった夫にもそうしていたのか……。
胸がじりりと灼けた。
「そうではなく、今まで世話になった記念にあなたに何か贈りたいのだ」
カリムは顔面が熱くなるのを感じながらぶっきらぼうに言った。
ミーアは驚きに満ちた表情でカリムを見上げ、大きな黒い目を嬉しそうに細めた。
「ありがとうございます。お気持ちだけで充分です」
ミーアは恥ずかしそうに下を向く。ムスリムの女性は男とみだりに視線を合わせない。ミーアの奥ゆかしさにカリムは抱きしめたい衝動にかられた。
車が一台、通りに張り出す屋台や人ごみを縫うように通る。カリムはミーアを端に寄せ、道路側に立つ。
黒い車はやけにゆっくりと進む。窓ガラスは黒いスモークが貼られていた。
カリムは服の下に隠し持った銃にさっと触れる。
車は静かに通り過ぎた。
――……思いすごしか。
「カリム・ダフィッド」
「なに」
パンッ。
振り向きざま腹を撃たれた。屋台の奥にヒジャブで顔を隠した女が銃口を向けていた。銃口からは細い煙が立ち昇る。
カリムは血が流れる腹部を手で押さえた。
「カリムッ」
カリムは銃を女に向けたが、……撃てなかった。敵であっても女を撃つことに抵抗があった。
悲鳴をあげ通行人が逃げて行く。
背後と横から銃弾を浴びる。子ども連れの女と物売りの女だった。どちらもニカブで顔を隠している。
爆発したような痛みに、迸る血に意識が遠のく。耳元でミーアの悲鳴が聞こえた。
カリムは両手を大きく広げ叫んだ。
「逃げろっ」
ゴボッ。大量の血が口から溢れる。意識は朦朧とし、ミーアの姿は見えない。腰から下の感覚はなく立っているのか膝をついているのかすら、分からない。
意識が途切れ、暗闇に引きずり込まれる。痛みは感じず、酷い寒気に襲われた。このまま意識を手放せば、らくに……。
カリムは目をカッと開き、感覚がない脚に力を入れる。
倒れるわけにはいかない。ミーアがいる。
「……げ、ろ……に……げ……」
口から溢れるモノが声をかき消す。
――……にげろ……。
「やめてっ、殺さないでっ」
後ろから抱きしめられた。小さく、柔らかく、震えていた。
「カリムッ」
悲痛な叫びが鼓膜に響き、意識を引き戻す。
銃声がした。胸に衝撃を受け、背中に伝わる温もりに寄りかかる。視界は白く濁り、敵の姿は見えない。ミーアの姿も。
柔らかな温もりに抱きしめられ凍えた体にじわりと沁みる。
無数の繊細な糸が首筋にかかり、ほのかに柑橘の香りがした。
カリムは柔らかな温もりに包まれ、暗闇に墜ちた。
ウェインは箒で床を掃く。
朝掃いても、窓の隙間や扉の隙間から入り込んでくるのか、すぐに砂でざらざらになる。掃除に事欠かない。
身代金の支払い期日は過ぎた。ムスリム革命団から連絡はない。部族長に理由を聞くこともできなかった。
女が交渉しようとして怒りを買ったのか。金を用意できなかった時点で望みはなかったのか。指導者はジュディの兄ではなく別人だったのか。
イーシンの死がちらつく度に胸が掻きむしられる。
嫌な男だった。いい加減で、嘘つきで仕事の邪魔ばかりしていた。地獄に堕ちろと罵ったこともある。けれど、助けたかった。
プロジェクト失敗の責任とか武装集団の指導者がジュディの兄かもしれないとか、そんなことはどうでもよかった。ただ助けたかった、力になりたかった。
カリムがいうような恋愛感情では決してなく、死んでいった戦友たちの投影でもなく、同じ時間、同じ場所で同じ目的に向かって働いた仲間だから助けたかった。
だが、全て終わってしまったのかもしれない。
イーシンの生死は分からず、イラクまで来てすることといえば砂埃を掃くくらいだ。
家に閉じこもり毎日床を掃いていると砂の一粒一粒が人間の顔に見えてくる。
両目を潰され、舌も歯もない真っ黒な口を裂けんばかりに開き、声にならない叫び声をあげる。
よく動く口だと、死んでも痛いのかと冷静に見下ろしている自分がいた。
誰かがドアをノックした。
無数の顔は元の砂に戻り、ウェインは扉を見つめた。
来客の予定はない。カリムとミーアなら鍵を持っている。
ウェインはそっと箒を置き、銃を手にした。
「ウェイン、私だ。開けてくれ」
――……この、声……。
遠い記憶が鮮明に蘇る。
ニュースから流れた、ジュディの墓の前で聞いたあの声にそっくりだった。
金縛りにあったように体が動かない。
鍵が開き、把手が回る。ゆっくりと扉が開き、太陽の光が差し込む。
眩い光を背に立っているのは、白い民族衣装に身を包んだ親友の兄、ダリウス・カーターだった。
――……鍵を……、なぜ……。
疑問は瞬く間に消え、懐かしさが込みあげる。
ジュディの兄ダリウス・カーターは両手を広げ鮮やかに微笑んだ。
「ウェイン、遠いところまでようこそ。迎えに来た」