第1話

文字数 9,030文字

 アメリカ、カリフォルニア州 メモリアルパーク。
 青ざめた空に黒い雲がかかり、雨が降る。
 背の高い広葉樹が音もなく揺れ、讃美歌が雨に吸い込まれていく。
 広大な墓地に整然と並ぶ白い墓碑が暗緑色の世界にぼんやりと滲んでいた。
 私の親友だったジュディス・カーターは死んだ。
 穏やかな、包み込むような微笑みを絶やさない女性だった。温かなブラウンの瞳、柔らかな栗色の髪、細い肩。
 姉のように私を諭し、友のように私を支えてくれた。私はジュディと呼んでいた。
 その彼女はもういない。二十一歳、早すぎる死だった。
「ジュディス・カーターの御霊は、神の御許で、永遠に生き続けるでしょう。アーメン」
 神父の声が止み、参列者の足音が遠ざかる。
 なぜ、彼女に優しい言葉をかけられなかったのか。
 なぜ彼女にきつくあたってしまったのか。
 なぜ、私はここにいるのだろう、彼女は生き返らないのに。
 細い雨が広大な墓地に降り注ぐ。
 色のない世界に、私は佇んだ。

「ずぶ濡れだ。風邪をひく、ウェイン」
 私を打つ雨が止んだ。ダークスーツと銀の腕時計が目に入り、のろのろと顔を上げる。
 ジュディの兄が傘を差してくれていた。明るいブラウンの目が気遣うようにひたと見つめる、――ジュディと同じ色の瞳が。
「戻ろう。体が冷えきっている」
 肩に置かれた手が灼けるように熱く、今更のように悪寒がした。
 ジュディに似た面差しに、ひざまずき、濡れた芝生に爪を突き立てる。
「……み……ません……。……わ、たしが、わたしが……ジュディを……」
 私がジュディを追いつめた。私が傷つけた。ジュディは私に助けを求めていた。苦しいと、助けてほしいと訴えていた。
 なのに、私は感情にまかせ彼女の手を払いのけてしまった。だからジュディは、死んだ。
 土を握り、芝をむしる。腹の底に力を入れ、喉に力を入れる。彼女の兄に、私が殺した親友の兄に告白しなければ、赦しを乞わなければならなかった。
 ゴツゴツしたモノが喉を塞ぎ、舌を麻痺させる。絞り出した声は獣じみていた。
 激しい雨が礫となって私を打ち、雨音がノイズとなって私をこの世界から隔絶した。
「誰のせいでもない」
 凛とした声がノイズを切り裂く。私はひざまずいたまま、声を仰いだ。
 ジュディの兄が暗い空を見上げていた。顔は見えない。
「ジュディは精神を病んでいた。遅かれ早かれこうなる運命だった。ひ弱な精神しか持たないのに兵士になった報いだ。キリストの教えに従えば、神から与えられた命を自ら断ったジュディは神に赦されるまで地獄で苦しむのだろう」
 激しく頭を振った。
 ――……ち、がう……。
 違う、私が殺した。私が追いつめた。ジュディは生きようとした。精神を病みながらもぎりぎりのところで耐えていた。彼女を「死」へと突き落としたのは私だ。
「……うぅ、……うっ……」
 懸命に絞り出す声は唸り声にしかならない。深く頭を垂れ、地面に伏す。ガチガチと鳴る歯が雨の音をかき消した。
「嘆かなくていい。この世に神はいない。天国も地獄もない。人間は死ねば無になる。いつか私が証明しよう、――『神は存在しない』と」
 迷いや憂い、怒りさえ感じさせない声音だった。
 髪に吐息がかかる。
 ジュディの兄は私のそばに傘を残し、立ち去った。

 ※

 二〇一七年四月 アメリカ カリフォルニア州
 ウェイン・ボルダーは日課である十キロのジョギングをすませ自宅のトレーニングルームで汗を流した。
 きつく縛った髪をほどき、シャワールームに向かう。
 民間軍事請負会社アースを辞めて一か月が経つ。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)やうつ病の診断は出なかったが一度切れた緊張感を繋ぎ直すことは難しく、アースを自主退職した。
 仕事もなく、訓練もなく、ただ無意味に時間をやり過ごす毎日は想像以上に苦痛だった。
 訓練に明け暮れ、まどろむことなく眠りについた日々が懐かしい。疲れと充足感に包まれ、何より余計なことを考えずにすんだ。
 時間を持て余していると意識が知らずしらず過去に向かう。だからだろう、もう十二年が経つというのにジュディス・カーターが亡くなった日を毎晩夢に見る。
 あの日からジュディの兄は姿を消した。ジュディを育てた養母は後を追うようにアルコールの大量飲酒と睡眠薬の大量摂取による心臓発作で死んだ。ジュディと同じ死に方だった。
 思い出せば辛くなるだけの記憶。ずっと仕事に明け暮れることで遠ざけていた過去がタガが外れたように押し寄せる。哀惜と悔恨、自責の念、哀愁……、さまざまな感情が渦巻くなか、確かな安らぎも感じていた。
 ジュディの『声』を聞いたから。ジュディの『気配』を感じたから。
 彼はどうしているだろう、ジュディの兄は。彼に会いたい。
「人間は死ねば無になる」と言いきった彼に会って、ジュディの声を聞いたと、ジュディの魂は存在していると伝えたい。
 単なる感傷かもしれない。けれど会って伝えたかった、――ジュディは微笑っていたと。
 蛇口をしめシャワーを止める。髪を拭き、普段着に着替え、シャワールームを出る。五分も経っていない。兵士でなくなったのだから時間を気にせずバスに湯を溜めて浸かればいいものを。秒刻みの生活が染みついていた。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、テレビをつける。
 国際ニュースが流れていた。
「次は、イラク南部にある軍事訓練施設が武装集団に襲われた事件です。被害の状況がいまだ把握できていませんが、多くの施設関係者と地元住民が武装集団に殺害されたとみられています。施設にはアメリカ国籍のスタッフもいたとの情報があり、現在アメリカ政府及びイラク政府が身元を確認中です」
 二〇〇三年にイラク戦争が始まり、当時州兵だったウェインとアメリカ軍兵士だった亡きジュディス・カーターも派遣された。ジュディは一九歳、ウェインは一八歳だった。ジュディは一四か月間の任期を終えアメリカへ帰国し、それから間もなく自ら命を絶った。ジュディはPTSDを患っていた。
 二〇一一年にアメリカ軍がイラクから撤退した(イラク戦争終結)後、イラクの治安は悪化の一途を辿っていた。
 二〇一四年に隣国シリアで活動していたイスラム過激派組織(IS)がイラクに侵攻してからはイラク北部を中心に戦闘状態が続いている。
 シリアやイラク北部での戦闘が注目されるなか、比較的安全と思われていた南部でイラク政府管轄の軍事施設が武装集団に襲われた。施設従事者にアメリカ人を含む外国人がいたこともあり報道が過熱していた。
 武装した地元警察や軍人が破壊された軍事施設周辺を捜索している場面が映し出される。
 アースを辞めなければ派遣されていた場所だ。
 イラク行きのチケットもビザも使われないまま引き出しの奥にしまってある。
 ――……仕事のことは忘れよう。
 ウェインはテレビ画面に背を向け、コップに水を注ぐ。
「速報です。たった今、『ムスリム革命団』と名乗る武装集団から犯行声明がありました。切り替えます」
 雑音が流れる。電波が悪いのか、なかなか切り替わらない。
 ――……いやな、音だ……。
 雨の音に似ていた。
 不意に、背後から首をわしづかみにされ、体が動かなくなった。
 総毛立ち、心臓が凍りつく。身じろぎできず、息もできなかった。
 冷気が首から体内へ流れ込む感覚にゾッとする。
 雑音が耳の中で反響し、突如、澄んだ声が頭に響く。
 幻聴にしては生々しく、息遣いさえ伝わる。
 ――……コノ、……コエ……。
 全身の圧迫が消え、バッと振り向く。
 室内には誰もおらず、切り替わったテレビ画面の向こうでリポーターが早口でしゃべっていた。
 そっと、首に触れる。じっとりと汗ばみ、鳥肌が立っていた。耳の奥に不快な痛みが残る。鼓膜が震えていた。
 ――……いま、の、声は……。
「この者たちは神が与えた大地を荒らし、我々から奪おうとした。よって神の御意思の下、ムスリム革命団がこの者たちに罰を与えることにした。しかし、神は寛大である。この者たちの命を助けたければ十日以内に五億ドルを支払え」
 黒ずくめの男が手にした紙を朗々と読み上げる。
 この声では、ない。
 画面に男が二人映る。一人はアジア系でオレンジ色の服を着せられ、もう一人は頭に包帯を巻かれ、地面に寝かされていた。
 武装集団に捕まった人質だろう。
 黒い覆面をした男はアジア系の男の髪を引っ張り、上向かせる。男の顔に心臓を貫かれるほどの衝撃を受けた。
 手に持ったコップが滑り落ち、鋭い音を立てる。
 立ちすくみ、アジア系の男を凝視する。
 年は五十歳そこそこ。若く見られたいらしく、実年齢は決して言わなかった。いつも肌の調子がなんだと手鏡を覗いては髪を整えていた。裏声で女言葉を使い、嘘ばかり言っていた。物腰はわざとらしいほど柔らかく、外見は男だが、性別ははっきりしない。
 分量が多い黒髪、大きな黒い目と大きな口、砂で汚れているが間違いない、日本で五年間一緒に働いた、――リー・イーシンだった。

 ※

「やあ、イーシン、元気だったかい。会えて嬉しいよ。久しぶりのアメリカはどうだい」
 イーシンは民間軍事請負会社アース本社ビルの最上階に足を踏み入れた途端、最高経営責任者(CEO)であるロバート・ロッシュの熱烈な歓迎を受けた。
 たじろぐイーシンにロバートは弾けるような笑みを浮かべ、握手を交わし、頬を寄せる。
 イーシンは首をひっこめ、肩をすくませた。壊れかけた時計のように途切れとぎれに聞く。
「もしかして、エレベータの前で、待って、いてくださったの、ですか」
「イーシンに早く会いたくてね」
 ロバートは屈託なく笑った。
 超高層ビルの最上階はロバート本人とごく一握りの人間しか入れず、最上階に繋がるエレベータには警備員が配備されている。
 社長室、秘書室、会議室といった仕事用の部屋とは別にプレートのない部屋が奥まった一画にある。ロバートの休憩室兼プライベートルームだ。
 ロバートは出張先から一日と空けず次の出張先へ向かう時、郊外にある自宅には帰らずこの休憩室兼プライベートルームで仮眠をとる。寝食するには充分な広さがあり、食事は外食かデリバリーで済ませ、足りない物は秘書に頼んでいる。
 ロバートは当然のようにイーシンを休憩室兼プライベートルームに招き入れる。
 ロバートに勧められ、イーシンはおずおずとソファに腰を下ろした。体がずぶずぶと沈み、イーシンは慌てて上体を起こし浅く腰かける。
 ロバートはにこやかにイーシンを労う。
「日本でのプロジェクトは大変だったね」
「……ええ、まあ……」
 ロバートはドア近くで控えている秘書に目を遣りイーシンに聞く。
「イーシン、何が飲みたい。コーヒー、紅茶、ハーブティー、オレンジジュース……、日本にいたなら緑茶がいいかな」
「いえ、おかまいなく」
 イーシンは遠慮した。長居したくなかった。
「じゃあ、コーヒーにしよう。秘書のアリーが淹れるコーヒーは格別なんだ。……アリー、イーシンと私にコーヒーを二つ頼むよ」
 ロバートは人懐っこい笑みを秘書に向ける。新人らしき秘書は頬を赤らめ退室する。
「イーシンと早く話したくて待ちきれなかった」
 イーシンは小さく頭を下げた。
 ロバートは上機嫌に話し始める。
「イーシンには五年間、慣れない日本でよく働いてくれたと心から感謝している。わが社アースとしても全面的に協力をしたが、実際に現場で働く者の苦労を思うとささやかなものだ。イーシンとスタッフには本当によくやってもらったと、感謝してもしきれない」
 胃がキリキリと痛む。ロバートから連絡があってからずっと胃の調子が悪い。
 イーシンは十日前まで民間軍事請負会社アース日本支社の社長として日本で働いていた。防衛省と結んだプロジェクトは、一般人に実質五カ月間の軍事訓練を施し、自衛隊に入隊させる目的で立ち上げられた。
 アース社としては将来的にアースに所属する戦闘員を自衛隊に送り込むことで人材だけでなく、提携している企業の軍需品を売りつける狙いもあった。
 五年間のプロジェクト期間中、教官の大量離職、訓練生の大量辞職といったさまざまなトラブルがあったものの訓練自体は順調に進み、自衛隊とアメリカ軍を交えたシミュレーションは大成功に終わった。
 にも関わらず入隊希望者が一人もいなかった。いくら最終試験の結果がよくても自衛隊に入らなければ意味がない。
 結局、プロジェクトは失敗に終わり、イーシンは役目を終えアメリカへ帰国となった。
 ロバートはそれを遠回しに責めているのだ。
 秘書がコーヒーを運んできてくれた。
「ありがとう」
 ロバートは親しげに笑いかけ、コーヒーに口をつける。
「うん、とてもおいしい。アリーのおかげでまた仕事を頑張れるよ」と絶賛した。
 秘書は目を潤ませ、頬を赤らめ、そそくさと部屋を出て行った。
 ロバートは蜂蜜色の髪、水色の目をした甘いマスクに、五十歳間近という年齢を感じさせない引き締まった体つきをしている。CEОという社会的地位や莫大な資産を所有する独身男性という理由を差し引いても異常に女受けがよかった。離婚再婚を繰り返していても、だ。
 ロバートとの付き合いはかれこれ十年以上になる。付き合いが長くても立場的には雇用主と従業員。エレベーターホールでCEO自ら部下を出迎え、最上階のプライベートルームに招き入れ褒めちぎる。
 効率と利益を追求するロバートがプロジェクトを失敗した人間を温かく迎えるにはそれなりの思惑があるはずだ。
 それが分かるからロバートに呼び出された二日前から胃の調子が悪くて仕方がない。
「どうぞ、一流ホテルで出るコーヒーよりずっと美味しいよ」
 勧められ、渋々イーシンは黒く輝く飲み物を手に取る。
 カップの内側に琥珀色の泡が立ち、口に含むと苦みと甘みが広がり、すっきりと喉を通る。……確かにうまい。が、胃に堪える。
 ロバートが改まった様子で話し始める。
「今回のプロジェクトは日本の防衛省から『自衛隊の維持拡大と更なる発展に是非ともお力添えをいただきたい』とお墨付きをもらっていた。我が社としても日本に進出できるチャンスだと日本支社に五百万ドルの資金を投入し、相応のサポートもしてきた。『実質五カ月間の軍事訓練を積んだ人材を自衛隊に入れる』、決して難しい仕事じゃない。それに『五年』も時間があった。私は成功を信じて疑わなかった。
 だからイーシンに『プロジェクトは失敗に終わりました』と聞かされた時はジョークと思ったんだ。事実と知ってからは……、いや、よそう……」
 ロバートは苦りきった顔でコーヒーに口をつける。
「……とにかく、人生でワーストスリーに入るほど酷い報告だった」
 口の端からコーヒーがこぼれ、イーシンは慌ててハンカチで拭った。
「イーシン達優秀なスタッフをつけ、多額の資金を投入し、イーシンからの要望にも極力応えてきた。世界有数を誇る我が社アースが全面的に支援したプロジェクトがどうして失敗したのか、いくら考えても分からない。なぜ五年という長い期間、一度も業績を残せなかったのか。……イーシン、分かるならぜひ教えてほしい。どこが悪かったんだろう」
 ロバートは両手を組み、至極真剣な表情でイーシンをじっと見つめる。
 イーシンの胃は限界に達し強い酸が逆流する。喉の奥を刺激する酸っぱい液体を辛うじて呑み込んだ。
 もはや反論の余地はなく、早くこの時間が過ぎ去ってほしいと願うのみ。
 ロバートはふっと表情を緩めた。
「失敗を悔やんでも仕方がない。イーシンだって失敗したくてしたわけじゃない。重要なのは同じ失敗を繰り返さないことだ。そうだろう」
 精いっぱい頷く。
 ロバートは朗らかに笑った。
「イーシン、イラクにある軍事関連施設に行ってきてくれないかい」
「……へっ……」
「イラク南部に新しい兵士養成施設ができたらしくてね。イラク政府から『兵士養成ができる人材を至急派遣してほしい』と依頼が来ているんだ。最近、上司とトラブルを起こし一人辞めてしまったらしい。『できるだけ温和な人物をお願いします』とのことなんだ。それならイーシンが適任だと思ってとっておいたんだ」
 ロバートはアラビア語で書かれた英訳付き文書をテーブルに置いた。
「まっ、待ってくださいっ、私は営業ですよ。兵士養成なんてできませんよ」
「日本でいた時は銃の指導をしていたそうじゃないか。『なかなかの腕前だった』と先に帰ってきたアース社員から聞いているよ」
 ――誰よっ、ロバートに余計なことを吹き込んだのはっ。
 イーシンはテーブルの下で握り拳を作った。
「あれは指導教官が少なくて仕方なく教えていたまでです。それも銃を扱ったことがない訓練生に基本中の基本を教えていただけで。勧誘ならともかく、養成なんて無理だわっ」
 感情が高ぶりお姉言葉に戻る。
 ロバートは目を丸くする。
「嫌かい」
「嫌ですっ」
 ロバートは頬をさすり、文書に目を通す。
「『兵士養成ができる温和な人物』、イーシンにぴったりだと思ったんだけどなあ。訓練生の指導は元軍人や元兵士が行う。事務経理や整備、清掃はイラク人が行い、訓練生もほぼ全員が地元住民だ。イーシンはイラクで二年間、気軽に働いてくれればいいんだ」
「お断りします」
 イーシンは断固拒否した。
 ロバートは極上の笑みを浮かべる、水色の目がきらきら輝く。
「じゃあ、解雇だね。それに加え会社に与えた五百万ドルの負債を一括返済してもらう」
 イーシンはぽかんと口が開いた。
「いくらうちが大企業といっても五百万ドルは痛い。イーシンだって会社に多額の損失を与えておいて何ごともなかったように働き続けられないだろう。たったの二年間、イラクの兵士養成施設で働けば失敗をチャラにしようというんだ。悪い話じゃないと思うよ」
 イーシンは歯ぎしりした。
 日本の、あの辺鄙な山間部の土地代が五百万ドルもするはずないでしょう。それも一部は賃貸だった。武器だって銃火器が主で戦車やミサイルは買っていない、というか買うお金もなかった。それにそれに資金のほとんどは日本の防衛省が出して、アース本社ははした金しか出さなかった。五百万ドルもあったらプロジェクトの一つや二つ成功させているわよ。ううん、その前にその金つかんで高飛びしている。
 イーシンは拳を作り、はあーっと息を吹きかけてロバートの頭をゴチンとどつく、……もちろん、心の中で。
「イーシン」
 ロバートは真剣な顔になる。
「近い将来、アースは独自の兵士養成施設を造る予定だ。養成施設の施設長はイーシンに任せたいと考えている。イーシン、イラクに行って兵士養成のノウハウを身につけてきてほしい。会社としても今回のような失敗がないよう最善を尽くしたいんだ。
 心配ないよ、ISとの戦闘はイラク北部にある第二の都市モスルが中心だ。訓練場はイラク南部。北部よりずっと治安はいいそうだ」
 イーシンは頭がくらくらした。
 なにか企んでいるとは思っていたがこれほどの無理難題を突きつけてくるとは予想すらしていなかった。
 こういう男なのだ。十年来の付き合いがある人間に『紛争地で働け』と、『嫌なら解雇、一括で五百万ドル払え』と笑って言ってのける。この人懐っこい笑みとなれなれしい態度にどれほどの人間が騙されてきたか。価値なしと判断すれば迷いなく切り捨て、クビにされた人間のその後など考えもしない。
「……すこし、考えさせて下さい」
「三日後の正午までに返事がほしい。こちらも手続きがあるのでね。さっ、仕事の話は終わりだ。コーヒーのお代わりはどうだい」
「……結構です。帰ります」
 イーシンは文書を手に、よろよろと立ち上がる。
「そういえば、手紙はちゃんと渡してくれたのかい」
「……はぁ……」
「『ウェインに渡してほしい』と私の連絡先を書いた紙をイーシンに渡しただろう。一度も連絡が来ないんだ」
「渡しましたよ、ちゃんと」
 ――ぐしゃぐしゃに握りつぶしてね。
 イーシンはほくそ笑んだ。ロバートは不満げに漏らす。
「ウェインが辞表を出しに来た日、私はちょうど出張中でね、会えなかったんだ。それが心残りでね……。彼女が辞めるなんて思わなかったよ」
 ウェイン・ボルダー。日本で五年間、軍事訓練施設で共に働いた女性だ。
 波打つ金の髪に小麦色の肌、灰色の目は光の加減で銀色に透き通る。百七十センチを超える長身に鍛え抜かれた体は中性的で、凛とした印象とは裏腹に恐ろしく気性が激しかった。
 くそ真面目で冗談が通じず、ことあるごとに突っかかってきた。訓練生を怒鳴りつけるのは日常茶飯事、足蹴にすることもしょっちゅうだった。
 そうだわ、プロジェクト失敗はウェインにも責任がある。なんたって日本支社アースのナンバーツーとして五年間働いていたんだから。いったい何人の訓練生がウェインのしごきに耐えきれず辞めていったことか。
 そうよ、ウェインをさっさと辞めさせなかったロバート、あんたにも責任があるのよっ。
 ……と指を突きつけて言えたらどれほど胸がすくことか。
 ウェインはシミュレーションを終えた後、精神的に不安定になり、イーシンはアメリカの精神科医を紹介した。
 一足先にアメリカへ帰国したウェインから、
 『精神的な問題はなかったがアースを辞めることにした。今までありがとう』と短い手紙が届いた。
 イーシン自身、ウェインがアースを辞めるとは思わず、けれど、シミュレーションが終わった後のウェインを目にした者としては彼女の決断は『妥当』と思えた。
「彼女は辞めてよかったんです」
 イーシンは断言した。
「そうかな。彼女ほど優れた社員はいない。まさに戦いの女神のようだった」
 ロバートは記憶を手繰るように呟く。
 イーシンは苦笑した。
「人なみ外れて強がりなだけです。限界を超えても走り続け、突然バーンアウトするタイプですわ」
 あのまま戦地に赴いていたら遅かれ早かれ死んでいただろう。長年兵士を見続けてきた勘だった。
「……仲が、いいんだね」
 ロバートが拗ねたように呟く。
 イーシンは笑って断言した。
「これ以上ないってくらい仲は悪いですわ」
「そうかな」
 ロバートは半信半疑といった感じで片眉を上げた。

 イーシンは悩み抜いた末、猶予期間である三日後の正午きっかりに、本社アースに「イラク派遣の仕事、引き受けます」と電話した。

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