第8話

文字数 6,905文字


 ※

 イラクを脱出する前に仕返ししなければ気がすまない。イーシンは家主に連絡を取った。
 家主はイーシンが生きていたことを喜び、そして「水道屋はいい奴だった」と訓練場襲撃事件で犠牲になった配管工を悼んだ。
 興奮する家主をなだめつつ部族長の住所を聞き出す。
「……部族長はムスリム革命団と繋がっているんだ。変な気は起こすな」
 忠告する家主にイーシンは明るい調子で約束した。
「心配しないで。部族長には何もしないから」
 電話を切り、早速たどり着いた町で銃器を買い揃える。
 内戦状態のイラクには横流し品がごまんとあり、それを売りさばき生活費に充てる寡婦もいるくらいだ、金さえあればミサイルでも迫撃砲でも簡単に手に入る。
 部族長はムスリム革命団の指導者に税を納めていた。ムスリム革命団が戻ってきたと知れば、近いうちにあの白い男に会いに行くに違いない。一週間待って動きがなければ諦めると決め、日中は部族長の屋敷を見張り、夜は外出しないだろうと思ったが念のため、ごねるマルクを「上手くいったら報酬分けてあげるから」と説得し、見張りに立てた。
 脱出時に使った車は乗り捨て、新たにランドクルーザーを借りた。もちろん、ホテル代、武器の購入費も全てマルクに支払わせた。
「俺の金をあほみたいに使いやがって、てめぇはクズだ、ゲスだ、ドグサレだっ」
 マルクは頭のてっぺんまで真っ赤になって「ギッタギタにしてやりてぇーっ」と両手指をガチガチさせる。
 イーシンは銃の手入れをしながら言った。
「あなたが私にやったことに比べたら可愛いものよ。大体、連中から奪ったお金でしょう。あなたの財布が一番少なかったわよ」
「俺が盗ったんだ。全部俺のもんだ」
 サル並みの屁理屈である。
「これでチャラにしてあげるわ」
「ぶんどりすぎだ。金返せっ」
 相手にするだけ無駄だと、イーシンはわめき散らすマルクを終始無視した。
 部族長の屋敷を見張り始めた翌日、部族長は動いた。
 ――思ったより、早かったわね。
 大きな鞄を付き人に持たせ、歩くのも難儀だというように車に乗る。
 イーシンとマルクは部族長が乗った車を尾行し、白い男の住居を突き止めた。
 引き返した足でホテルをチェックアウトし、砂漠にテントを張り、白い男の動向を注視する。
 そして今日、白い男が出かけるのを見計らい準備に取りかかる。いよいよ恨みを晴らす時がきた。
「帰ってきたわ」
 イーシンは黒い車を確認すると双眼鏡をマルクに渡し最終調整に入る。
 砂をまぶした布の下に潜り込み、腹ばいでスタンドに固定した銃の照準を調整する。
「オ〇マは執念深いな。仕返ししようなんて思わずとっとと国へ帰ればいいのによ」
 イーシンは布から這い出し、腹ばいのまま待機する。
「これが終わったら私はイラク国外へ逃亡するわ。アメリカには帰らない」
「ああん」
 マルクが間の抜けた声を出す。
「会社に多額の借金があるの。帰ったらまた無理難題を押しつけられるか、一生ただ働きさせられる。それくらいなら誘拐されたことにして身を隠した方がましよ」
「行くあてはあるのか」
「これが終わってから考える」
「かあー、呑気だな。『テロリストのボスを殺した』って会社に言えば借金チャラにしてくれるんじゃねえのか」
「それで免除してくれるようなら夜逃げなんてしない。十年以上付き合いがある人間を笑って紛争地に送り出すのよ。本当に酷い奴なの」
「ほおおー。確かにひでえな」
 マルクはカカカッと笑った。
「それに仕返しだけが目的じゃないわ。ムスリム革命団の指導者を殺した実績があれば次の就職先を見つけやすくなる。転職に使えなくても訓練場襲撃事件の主犯が死んだ写真をタブロイド誌に売れば高値がつくはずよ。だから写真をちゃんと撮っておいてね」
 マルクは首に提げた望遠カメラを持ち上げる。
「腹黒いねえ」
「嫌なら帰っていいわよ」何度も口にしたセリフだ。
 マルクはにっかり笑った。
「遠慮するな。面白そうだ。俺にも半分寄こせよ」
 イーシンは双眼鏡を覗き、「来たわ」と告げる。マルクも望遠カメラを覗き、「ああ、来た」と応じる。
「さあ、始めましょう」
「失敗するなよ」
「私は外さないわよ。標的まで二千メートル離れている。失敗しても敵には見つからない」
 イーシンは布を頭から被り、セットした銃の照準器を覗き込む。
 車三台が建物敷地内に停まり、車から黒ずくめの男がばらばらと降りてくる。男二人が辺りをうかがいながら後部座席を開け、白い民族衣装の男とヒジャブを着けた女が出てきた。
「一人、増えたわ」
 布ごしにイーシンはマルクに言った。
「おい、まさか女も撃つつもりか」
「お望みなら」
「冗談じゃない。男だけにしとけ」
「優しいのね」
「女は殺るもんじゃなく抱くもんだ」
 イーシンは無視した。
 直進距離で二.二キロといったところか。問題ない。黒ずくめの男たちの陰に白い男が隠れる。次現れた時がチャンスだ。イーシンは射撃体勢に入る。
「おい、女がいる前で撃つつもりか。男に同伴しているってことは妻かも知れんぞ。目の前で旦那を殺される女の気持ちにもなれ。可哀そうだろ」
 マルクに人の気持ちを諭されるとは思わなかった。いつもデリカシーの欠片もないくせに。
「知らないわよ、そんなの。ろくでもない男と一緒にいる女が悪いのよ」
「しかしだなー」
 取りあうつもりはなかったがしつこく粘るマルクが奇妙に感じられた。イーシンは布から顔を出し、聞いた。
「なんなの」
 マルクは真剣な顔つきで言った。
「男には厳しく、女には優しく。それが俺のモットー(信条)よ」
 ――……ばかばかしい。
 絶好のチャンスをふいにするところだった。イーシンは頭を切り替え、布を被った。
 マルクは何も言わなかった。カメラを構えているのだろう、カチャッと音がする。
 風が吹き、砂煙が舞い上がる。
 白い男は女の背中に腕を回し、玄関には行かず庭を歩く。本宅ではなく、離れに連れて行くつもりらしい。
 かなり親しげだ。マルクの言う通り白い男の新しい妻かもしれない。
 ニカブで顔を隠した小柄な女が一人いたがそれとは違う。長身で、黒ずくめの男たちと同じか、それよりも高いくらいだ。ヒジャブからこぼれた髪が金色に光った。
 ――……外国人……。
 引き金にかけた指がぴくりと動く。
 人身売買で売られてきた奴隷か、もしくは新しい戦闘員か。どちらにしても白い男がいなくなれば関係ない。
 イーシンは標的である男に意識を集中し、女の影を視界から消した。白い男の横顔が見える。笑っている。イーシンは白い男のこめかみに照準器の十字線を合わせ、弾が受ける重力と風の影響を考慮し狙いを補正する。
 狙撃手だった頃の感覚が蘇る。銃が違和感なく体の一部と化し、思考も感情も遠のき、背景が白く溶けていく。目の表面がレンズのように標的を映す。
 意識はどこまでも静かで、自由だった。
 息を吐きながら引き金を絞っていく。息が細くなり、十字線と標的のずれが小さくなっていく。狙いが定まり呼吸が糸より細くなる一瞬を待つ。
 女の影が男に重なる。ヒジャブがずれ、金髪が風になびき横顔が見えた。
 ビクンと大きく痙攣し、とっさに銃を体ごと倒す。砂地に顔面から突っ込み肩を強打する。無理矢理止めた指が不自然な方向に反り指先から首筋まで激痛が走った。
 イーシンは攣った指を押さえ布から這い出る。
「……どうした。奴ら入っていっちまったぞ」
 マルクが四つん這いで近づいてくる。
 イーシンは攣る指を強く押さえ、二人が入って行った離れの玄関をじっと見つめる。
「……ウェ、……イン……」
「ああん。知り合いか」
 波打つ金の髪、灰色の目、日焼けした肌、シャープな輪郭の唇……、間違いなく、五年間日本で共に働いたウェイン・ボルダーだった。
 ――……アースを辞めたんじゃなかったの。なんで、ここに。白い男とずいぶん親しそうだった。まさか、ムスリム革命団と組んでいた、なんて……。
 まさか。
 イーシンは銃を片付け始める。
「おい、待っていたらまた出てくるかもしれんぞ」
 イーシンは銃をバッグにしまい、低く抑えた声で言う。
「女を捕まえる。協力して」
「おっ、おおっ。おう」
 イーシンは車に被せた布を外し、荷台にバッグを積む。
 ――……きっちり説明してもらうわよ、ウェイン。
 助手席に乗り込み押し黙る。
「なんだなんだ」
 マルクは運転席のドアを閉め、車を走らせた。

 ※

「来客用に使っていた離れを整えさせた。日用品や着替えは買い揃えてある。他に足りない物があれば用意しよう。自宅にいるつもりで寛いでくれ」
 部屋には二人きり、すぐ外には黒ずくめの男たちが控えている。物音一つせず気配もしない。なにかあれば突入するつもりで聞き耳を立てているのかもしれない。
 銃は男たちに取り上げられたが「ウェインは私の大事な客人だ」との指導者の言葉に財布やパスポートなどの所持は許された。
「どうしてだろう、さっきから一言も話さないね」
 顔を覗き込む指導者にウェインは懸命に怒りを抑える。
「ダリウス、私は滞在するつもりはありません。イーシンを返して下さい」
「サイードだ。ここではサイードと呼びなさい」
 指導者が笑みを消し、鋭く指摘する。
 ――……交渉に来たんだ。感情的になってはいけない。
 ウェインは怒りを押し殺し、言い直す。
「サイード、あなたが誘拐し身代金を要求しているリー・イーシンを解放してほしいのです。そのために私はここに来ました」
 サイードがとぼけたように繰り返す。
「……リー・イーシン」
「訓練場のスタッフとして働いていました。黒髪、黒い目、アジア系の男です」生物学的に、とは言わなかった。
「ああ、あの男か」
 サイードは思い出したというふうに軽く首を縦に振り、愉快そうに告げた。
「遅かったよ」
 ウェインは血の気が引くのを感じた。
「……ま、さか……もう……」
「逃げたよ」
 サイードは口ずさむように言った。
「一週間前になるかなぁ。もう一人の囚人と一緒にうちの部下を蹴散らして逃げた。彼は優秀な戦士だったんだね。部下が七人も負傷してね。車三台と天幕も焼けた」
 ウェインは真意をはかりかねた。
 信じていいのか。逃げたならイーシン本人から「助かった」とアース本社へ連絡があるはず。本社から知らせはなく、カリムも口にしなかった。もしかして連絡できないほどの大怪我を負っているのか。それとも砂漠のどこかで行き倒れて……。
 不吉な想像ばかりしてしまう。
 サイードは浮かれた様子で長椅子に腰かけ、余裕の笑みで背もたれに両腕をかける。
「なぜ、あなたが鍵を持っているのです」
 ウェイン自身、はっとするほど声が掠れていた。カリムとミーアに危害を加えたのではないかという疑念と恐れが渦巻いていた。
「道端で拾ったんだよ」
 サイードはさらりと言った。
「嘘だっ。本当のことを言って下さい。カリムとミーアをどうしたんですか」
「疑り深いね。信じないのは自由だけれどリー・イーシンは逃げたし、カリムとミーアという人物に私は会ったこともない。そろそろ本宅に行こう。妻のシエナがお茶の準備をしてくれている」
「ここで構いません。私はあなたと話がしたいのです」
 ウェインは頑として聞き入れなかった。テーブルに両手を付き、サイードに詰め寄る。真実を聞くまで逃がすつもりはなかった。
 サイードは陶然と笑む。
「きれいだなぁ、君は。前よりずっときれいになった」
 ウェインは当惑した。真剣な話をしている最中に……、はぐらかしているつもりか。
 サイードは慈しむように見つめ、甘く囁く。
「ウェイン、私の妻にならないか。私の傍にいれば面白い物が見られる」
「……人を、処刑する光景ですか」
 サイードは声を出して笑った。
「世界が割れる瞬間を、だ」
 酷い冗談だ、と言おうとしたが、できなかった。ダリウスの冗談を聞いたことがない。会わなかった十二年間でジョークを飛ばす技を身につけたとでもいうのか。
 冗談にしては酷すぎる、本心からなら最悪だった。
「……テロ事件を、起こすつもりですか」
「さあ、どうかな」
 サイードは微笑み、はぐらかす。
 ずっと抱いていた違和感の正体が解けた。
 こんなに、表情豊かな人ではなかった。冗舌でもなかった。意味深な言葉で相手をからかうこともしなかった。
「ああ、シエナがお茶を持って来てくれた。一緒に飲もう」
 ニカブで顔を隠した女性が両手にトレイを抱え、入り口で立っている。トレイに載せた茶器がカチャカチャと音を立てる。震えていた。
「シエナ、おいで。喧嘩をしていたわけじゃない。ちょっとした討論だよ」
「申し訳ありません。来られるのが遅かったものですからこちらにお茶をお持ちした方がいいかと思い……」
「いいから、おいで」
 サイードは手を伸ばし優しく呼ぶ。
 シエナはうつむき、サイードの傍らに座る。
「ウェイン、妻のシエナだ。君が滞在している間、シエナが世話をしてくれる。困ったことがあったら彼女に言うといい」
 サイードはシエナの肩に手を置き、「ウェイン・ボルダー、私の友人だよ」とシエナに唇を寄せる。
「さあ、十二年ぶりの再会に乾杯しよう」
 サイードは茶器を高く上げる。シエナは落ち着きなく視線を動かし、おずおずといった様子で茶器を手にする。ウェインは応じなかった。
 サイードは茶に口をつけ、脇に置いた。
「さて、今度は私から質問だ。なぜ訓練施設を襲撃し、身代金を要求したムスリム革命団の指導者が私だと分かった」
 サイードは油断なく光る目をウェインに向ける。
 知人との再会を喜ぶダリウスから武装集団の指導者サイードに変わった瞬間だった。
 ウェインは努めて冷静に答えた。
「声です。身代金要求の報道であなたの声が流れていました」
 サイードは心外そうに目をすがめる。
「……こえ。……はて、映像は何度も確認した……」
 顎に手をやり、上の空で呟く。
「ウェインと最後に会ったのは、十二年前か。十二年前の私の声を覚えていたと……」
「信じられないかもしれませんが……」
 サイードが実に興味深いというように目を輝かせる。
 珍妙な動物を見つけどう遊んでやろうかとうずうずしているような好奇心に満ちた、残酷な笑みだった。
 ニカブを深く被っていても分かるほどシエナは不安げに瞳を曇らせる。
 ウェインは口にしたことを後悔した。懐かしく感じたのは錯覚だった。顔形はそっくりでも雰囲気は全く違っていた。
 長い時間、強い陽射しを浴びたからか、ジュディと同じ栗色だった髪は赤みがかり、静けさを湛えていた茶色の目は光の加減で金色に輝く。駆け寄るジュディを穏やかに抱き止めていた彼は今、冷淡な表情に笑みすら浮かべ、威厳のある佇まい、いつから武装集団の指導者になったのだろう、昔の面影は欠片もなくなっていた。
「愛の告白のようだよ、ウェイン」
 サイードは鮮やかに笑った。
 ウェインは目を伏せた。
 真実を言っても信じない。人を平気で殺すこの人には、別人のようになった彼には、届かない。
 どんな思いでジュディがいなくなった十二年間を過ごしてきたか。仕事を辞め、ジュディの夢を見ない日はなかった。いつもいつもいつも、あの十二年前の墓地での出来事を夢の中で繰り返した。
 毎晩ジュディの墓の前でうずくまり、彼の声を聞いた、――魂すら凍えつかせながら。
「人質を助けに来たのは仕事かい。ウェインは今でもアメリカ軍にいるのかな」
「違います。私が個人的に来たまでです。私はアメリカ軍を退役し、一時期民間の会社で働いていました。リー・イーシンはその時一緒だった仲間です」
 軍事請負会社だったということは伏せておいた。もしイーシンが捕まっていたとしたら窮地に陥れてしまう。
「……辞めた」
 サイードは得心がいかぬふうに人差し指を唇に当てる。
「ジュディの死をふりきってまで入ったアメリカ軍を、辞めた……。なにか、心境の変化でもあったのかい」
 サイードに悪意は感じられない。純粋な問いのようだった。しかし、彼の言葉はウェインの心を抉った。足元から冷気が忍び寄り、耳の奥で雑音が流れる。
「せっかく助けにきたのにすれ違いとはついていなかったね。夕食まで時間がある。ゆっくりしていなさい」
 サイードは立ち上がる。
「待って下さい。あなたの言葉だけでは信じられない。イーシンが逃げたという証拠を示して下さい。カリムとミーアにも連絡をさせて下さい」
 サイードはふっと笑んだ。だだをこねる子どもに手を焼いているような笑みだ。
「証拠を示せと言われても監禁場所は破壊し、見張り役は全て解雇した。ウェイン、君は囚人ではない。誰と連絡を取ろうと自由だ。その代わり、我々の情報が外部に漏れ我々に危害が及ぶことがあれば、君だけでなく、君に関わる全ての者が報復を受ける」
 退室しようとするサイードにウェインはなおも食い下がる。
「あなたはいつから武装集団の指導者になったのですか。あなたは『神は存在しない』と言った。イスラムの神は信じるのですか」
 サイードはくるりと振り向き、両手を広げ、挑むように笑った。
「信じていないよ。何一つ、誰一人」
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